第2話 真鍮製のもの
記憶がなくても知識として知っていた。それくらいはおかしいことはわかる。
「夜が明けないって、それが極夜のようなものだとして、30年も続くなんておかしいです」
考えがまとまるより先に、口が動いた。
「そんなの、地球の公転が止まらない限りは起こり得ません」
彼女は俺の言葉に、黙って耳を傾けている。
「仮にそうだったとして、極夜の外でなら変わらず昼夜があるはずでは?」
だから俺が太陽を知っていてもおかしくないだろう、そう思い至った。
ここまで言ってからようやく、彼女は口を開いた。
「私たちも、はじめはそう考えていました」
車は細い路地に入ると、そのままスピードを落として進んで行く。そうしてカフェと思わしき店の隣で止まった。シートに載せた荷物を手繰りながら、彼女の次の句を待つ。
「ですが、現実問題として、夜は明けないんです」
ドアを開けるとまた、しんとした空気がコートの隙間から入り込んできた。
書類の示すその場所は、もう目の前だった。
応接間に通され、しばらく秒針の音を聴いていると、二人分の足音が近づいてくる。まもなくドアノブが捻られ、送迎の彼女ともう一人、長身の男が入ってきた。
彼らは俺とテーブルを挟んだ向かい側のソファにかける。
「私は送迎だけのはずだったんですが」
そう言いながら、彼女はトレーからコーヒー入りのマグを手渡してくる。
「ライトハウス大学、考古学第7研究室のリナリー・ワットです。よろしくお願いします」
垂れ目がちだが、すっと引かれた眉も相まって、どちらかと言えば活発な印象だった。
マグを受け取ると、それからワットさんは隣に座った男を見やる。
「こちらは学区管理部のトーマス・モントローズです」
彼女から紹介を受けると、モントローズさんは軽く会釈する。
「どうも、初めまして。こんななりだが、一応部長をやらさせてもらっているよ」
そう言って自嘲気味に笑った。ややくたびれ気味の雰囲気だ。ワットさんから受け取ったコーヒーを一口啜ると、テーブルにそれを置いてこちらに視線を戻す。
その意味を理解した俺は、口を開きかけ、はっとして閉じた。それから書類を取り、テーブルに乗せる。表面に印刷された、そのなじみのない名前を呟いた。
「俺は、ルーカス・ソレンです、多分」
「多分?」
ワットさんが割っていった。癖のある赤毛が揺れた。少しためらったが、どうせそのうちにわかることだと思い、言った。
「列車に乗っていた以前の記憶が無いみたいで」
俺の言葉を聞いて二人とも、お互いを見合った。それから少し間をおいて、口を開いたのはモントローズさんの方だ。
「リナリーが言うには、君が現状に対して不可解な反応を示していた、ということだが」
顎を手に乗せ、訝しげにしている。
「まさか記憶喪失までとはな」
彼は低く唸ると
「一度検査をしよう」
と言った。
なんだか居心地が悪くなった気がして、二人の顔をうかがう。が、渋い顔だった彼は、ぱっと表情を変えた。
「心配しなくてもいい、ちょっと早めの身体検査ぐらいに思っておいてくれ」
「ああそれと、本当はここで君の通う学校や住む場所について決めておくはずだったんだが」
検査の詳細や日程についての相談の後、モントローズさんはそう切り出した。
「まあことがことだからな、検査の結果を見て決めるのも遅くないだろう」
それからモントローズさんはワットさんを見やる。それからマグに残ったコーヒーを飲み干して言った。
「下に言って、開いてる部屋を一つ用意してやってくれ」
それを聞いて、彼女は
「わかりました」
とだけ残して部屋を出て行った。
俺は手持ち無沙汰になり、もうぬるくなったマグを両手で包んでいた。
通されたのはずいぶん質素な部屋だった。薄い青の壁にベッドと小さな冷蔵庫、入り口近くに火元、シンク、バスルームのドア。板張りの床にはラグの一つも敷かれていなかった。
「それでは、しばらくはこの部屋を使ってください。」
ワットさんが部屋の鍵を差し出す。それを受け取ると、彼女が続ける
「明日は午前11時頃に迎えに来ますので、部屋で待っていてくださいね」
そして小脇に挟んだ書類入りのファイルも手渡してくる。受け取って見てみると、彼女とモントローズさんの連絡先、この周辺のものと思われる地図だった。
「なにかあった時や、外出したい時は、私かモントローズへ連絡をください。決して一人で出歩かないでください」
そして最後に彼女は、
「それでは、また明日」
と言って会釈をし、部屋を後にした。
彼女が廊下に消えていくのを見届けてから、俺は部屋の中に戻った。はめ殺しの窓からは黒々とした空が覗いていて、まだ16時にも関わらず、ベッドに座っていると眠くなってくる。
せめて寝支度を整えようと、荷物を広げてベッドの上に出していく。
下着や着替えが何枚かと、筆記用具、新品のノート、中身の入ってない財布、それからもっと奥に手を突っ込んだ時、爪の先で硬い何かに触れた。
「冷たっ」
外の冷たさがまだ残っていたのか、それは痛いほど冷え切っている。長い何かだ。その先端を掴んで持ち上げると、ざらざらと金属のこすれる音と共に姿を見せた。
天秤だった。微かにくすんだ色味のそれは、厳めしい装飾をたたえ、どこか触れがたい空気を纏っている。
握っていると火傷しそうで、俺はそれを窓際にそっと乗せた。
「なんでこんなものを……」
そう言いながら、天秤を取った方の手のひらを見つめる。切られて手入れされた黒い爪の先、それから手を翻すと、白い柔毛でおおわれている。奇妙な感覚だ。
俺はこんな顔だっただろうか。窓に映った自分の顔を見るが、その後ろの空に月は無かった。
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