第17話 阿蘇グルメ若き乙女の血

 音夢が感じたのは筆舌に尽くしがたいほどのエグみだ。

 人間の血とはかくもここまで不味くなるのか? 気が遠くなり、吐き気すら催す。

 それだけは乙女としての沽券にかかわるためになんとか我慢しようとしたが、耐えきれるものではなかった。


「げぇぇ」


 当然のように吐いてしまう。げーげーと部屋の隅で吐いているのはせめてもの乙女としての矜持であろう。

 ただそんなもの狩猟者にとっては絶好の機会でしかない。


「マズイでしょ、ボクの血」

「なん、え、ぁ」

「あはは、呂律も回らないくらい酷いのか。ちょっとへこむな」


 先ほど少女に付けたはずの噛み痕がみるみるうちに消えていく。

 それで音夢は目の前の美しすぎる少女が何者であるのかを理解した。

 自分と同じ吸血鬼であると理解した。

 だからこそ不可解。人間と吸血鬼の区別はつけられる。吸血鬼は独特の匂いがある。人間と間違えるはずがない。


 まだ吸血鬼になってそれほど経っていないとは言えども吸血鬼と人間の匂いの違いくらいは判る。

 少女の匂いは吸血鬼のものではなかった。音夢には何が起きているのか理解できない。


「きゅう、えつき……?」

「正解だよ、可愛いお嬢ちゃん」

「なん、え……うぇ……」

「なんで同胞を狙うのかとか、どうして吸血鬼を人間と間違えたとかそういう疑問かな。簡単だよ、ボクは同族喰いで、異能で匂いを誤魔化したんだよ」

「な、ぃ、ぉ……」

「すんすん。この感じだと短期間で人間を大食いしたみたいだね。これはルール四に抵触判定かな。キミから襲って来て返り討ちみたいな形でもあるし、ルール二的にもOKってことで――」

「な、ん、な、ぉ?」

「キミはボクのご飯ってことだ」


 目の前で牙を見せつけるように口を開けて音夢の首筋を少女――セラフィーナが舌先で舐る。

 温かく湿った舌先が音夢の皮膚に触れるたび、彼女の吐息が首筋を撫でるたびに、甘い痺れが身体の内側で弾けて脳髄へと伝わる。


 頬に血が通う、手足がしびれるように震えて、背中を熱い何かが上がっていく。

 久しぶりに感じる、狩人に牙を突き立てられるという本能的な恐怖と、これから先に訪れるであろう快楽を予感させられて思いがけず太ももをすりあわせる。


 そして、ずぷりと牙が突き立てられるのを骨で聞いた。

 同時に感じたことのない快感が電流のように全身を突き抜けて行った。


「ぁっ、な、に。これぇ!?」

「ああ、キミを吸血鬼にした奴はそんなに強くないのかな? まあボクとの比較だからあまり参考にはならないだろうけれど吸血ってね、吸血鬼の力が強ければ強いほど――」


 水に溺れるような苦しさすら感じるほどの快楽の最中、セラフィーナの声だけがはっきりと死刑宣告のように聞こえた。


「――気持ちいいんだよ」

「ぁっ……っっっ!?」


 鼓膜が震えただけで音夢の頭の真ん中で火花が弾けた。

 脳の切れてはいけない回路や線が切れてしまったかのような感覚に、目の前がぐるぐると回ってがくがくと膝と腰が笑って立っていられなくなる。

 全身が麻痺したようにだらりと力が抜けて、セラフィーナへと完全に身体を預けてしまう。

 円熟した芳香が鼻腔から神経を満たす。艶やかに色づいたとすら錯覚する香しすぎる体臭に音夢の視界は真っ白に弾けた。


「ぁ……ぁぁっ……」


 ただただ甘い恍惚の中を揺蕩って自分の中の命が吸い出されていくのを感じていることしかできない。

 悲しみ、恐ろしさ、死への恐怖が胸中を満たしていくというのに、頭の一番深いところは気持ちよさにスパークする。

 その度身体が気持ちいいと痙攣する。このままでいいと身体が堕ちて抵抗を忘れてしまっている。

 だらりと垂れた舌先から壊れた蛇口のようにだらだらと零れ落ちる唾液と瞳から滝のように頬を伝う涙が、その悦楽の深さを物語っているようだった。


「ちゅ、じゅる……ごくり…………」


 セラフィーナは熱い血潮を喉へと流しながら舌で転がしながら喉に流しながら味わう。

 甘くとろけるような舌触りで、いくらでも飲めてしまうのではないかと思うほど。

 もとになった吸血鬼の格は想定よりも高く味わい申し分なく、その後の彼女の努力も素晴らしい熟れ具合。

 例えるならば、イチゴジュース。阿蘇で生産されているという『さがほのか』や『恋みのり』、『ゆうべに』のようにたまらなく甘く実に存在感溢れる味わいが素晴らしい。


「ここで飲み干してしまうのが勿体無いくらいだよ」

「ぁっ……ぁ」


 耳元で囁かれた一言がほとんど止め。

 ねっとりした吐息を浴びて秒読み。

 血液と唾液が混ざり合って牙の穴から彼女の口と繋がった紅い糸を見てしまって致命傷。

 一際大きく身体をぶるると震えさせた音夢は、あとはもう快楽に揺れ動くのみ。


 音夢は幸せそうだった。吸血されている恍惚と死の快楽に幸福そうに壊れた笑みを浮かべている。

 そこ以外は全身のあらゆる場所から体液を垂れ流し、ぶっ壊れた玩具のような有様で悲惨だ。


「うわぁ……」


 そんな風に吸血鬼をぶっ壊しているセラフィーナを見て悠花は思わず声をあげてしまった。

 人間を襲う邪悪極まりない吸血鬼であるとは言えども、見た目は人間とさして変わりはなく年頃の少女である。

 そんな自分とさほど変わらないような女の子がぶっ壊れている様を思わず見て引かずにいられなかった。


 同情や憐憫ではなく、わざと時間をかけてぶっ壊しているセラフィーナへのドン引きである。食事は楽しむものであるが、これはもうそういう次元とは思えなかった。

 食事は健全だが、これはもう健全ではない。えっちな奴である。


「ぇっ、ぁっ……」


 その声のおかげで消え入りそうだった音夢の意識が、第三者の登場により刹那の覚醒を見せる。

 その瞬間、彼女に去来した感情は何もかもを差し置いて羞恥心だった。


「ひっ、ぇ、ぁァァァ!?」


 その一瞬に音夢の異能は発動した。

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