第16話 阿蘇へ
「む、何やら平手打ちの音がしたような……」
「何がー?」
「いえ、ただの気のせいだと思います」
「はぁ、出発時間がすぐじゃなかったら観光したのにぃ……やっぱり今からでも自前の切符で」
「スリがバレた方が面倒くさいのでこのまま行きますよ」
「ぷぅ……。せっかくの人吉だったのにぃ。鮎ぅ、焼酎ぅ、みそしょうゆ!」
「どこからそんな知識仕入れてるんですか」
「観光ガイドブックで」
「ああ、旅の途中に読んでたあの古臭い雑誌」
「古臭い言うなよぅ。吸血鬼事変前の年代物なんだぞぅ。台湾で偶然手に入れてね! それで日本に来たんだよ、筏で」
「百年前以上のものを出されてもわかりませんよ。というかお土産はいっぱい買ったんですから切り替えてください。重いの持ってあげてるんですから」
「それには感謝してる、ありがとうね!」
スリとった切符が武装列車の発車時間が決められた指定席券であったため、セラフィーナの観光計画はあえなく水泡に帰した。
しかし、それでもあきらめきれなかったセラフィーナがだだをこねまくった結果、お土産のグルメだけでも買いまくって荷物が大幅に増えた。
というか鮎は買わなくて良かったのでは? まだ干し魚が大量に荷物の中にあるのにと辟易としながら未だに魚臭い悠花は一人、武装列車内の指定席で棺を抱えていた。
武装列車はかつての在来線を改造したものである。ハイエネルギー化は当然として、装甲の強化と武装化によって在来線は物々しい四角い箱に機関銃などの武装がくっついたような代物と化している。
今現在、この日本における移動手段の多くがこの武装列車である。
武装を施した在来線車両は物々しくあれども、吸血鬼や適応生物たちから身を護ることを考えたらこれでも足りないのでないかと思えてくる。
なお、これに乗って移動するのは武装サラリーマンなどであり、かつて存在したという通勤ラッシュは伝説として語り継がれるのみである。
今ではそんなぎゅうぎゅうに乗せてしまっては吸血鬼に襲われた際に大変ということで指定席券になっていたり、とんでもなく割高な値段設定となっていた。
今現在、この武装列車に乗っているのは一見して悠花のみである。どこにもセラフィーナの姿はない。
先に言っておくと、棺の中にもセラフィーナの姿はない。
「それよりも本当にわたしだけ乗ってていいんですか?」
「だってカメラ回されてたからね。改札で捕まっちゃうよ、ボクがいたら」
吸血鬼はカメラに映らない。この特性を活かしてというか活かされて、都市部の駅の改札では常にカメラが設置されていてそれと肉眼合わせて監視されている。
改札だけでなく駅のホームでも小型のモノクル型カメラを付けた駅員がしきりに周囲を見渡し監視任務に就いていて万が一にも列車にそのまま乗り込めるような隙がなかった。
「だからって……霧に変身してわたしの周囲に薄く漂うのやめてもらえませんか。率直に言って気持ち悪いです」
「酷い。フローラルな香りしてると思うんだけど?」
「自分の魚臭さと比較されて酷く惨めな気分です。それに吸血鬼が混じった空気を吸うとか考えたら殺したくなります」
「酷ーい」
人型では侵入できないとみたセラフィーナは基本能の変身を用いて霧に姿を変えている。極端に濃度を薄くしているため、ほとんど肉眼には見えない。
悠花だって声が近くにするだけで本当にセラフィーナがいるのかすらわからないのだ。
「でも、こうやって乗り込めるのならみんなやればいいと思うんですけど」
「招かれないと駅にも入れない吸血鬼がこんなことするわけないよ。電車に乗る時も招いてもらったでしょ」
セラフィーナは悠花の連れとして招かれていることになるため駅だろうが列車だろうが乗り込めるが普通の吸血鬼ではそうはいかない。
「魅了すればいいのでは?」
「魅了してまで駅と列車に乗る意味ってないしね。そもそも駅とか列車に近づけている時点で街には入れてるってことになるし。魅了で来てるならそのまま魅了した奴を吸えばいいだけだよ。わざわざこんな狭くて遅い乗り物に乗り込んで中の人間を喰うだなんて変態じゃない限りしないと思う」
「なるほど……」
吸血鬼の感覚はよくわからないと悠花は理解を諦めて出発を待つ。
定刻になれば武装列車はゆっくりと運航を始める。
「おお、動いた」
「座席に足乗せたりしないでよー」
「しませんよ、わたしをなんだと思ってるんですか」
といった端から小さな窓から見える景色に夢中になって、座席に膝を乗せかけた悠花であった。
さて人吉市を出てから数時間。途中、適応生物の襲撃が四度あったものの、列車の運行には問題なく二人は無事に阿蘇市へと辿り着いた。
もちろん景色を楽しみすぎた悠花は、いつもの剣呑さはどこへやら。幼児では? とセラフィーナが想うくらいにははしゃいで結局、座席に膝ついて窓にかじりついていた。
吸血鬼が出た阿蘇に向かうということで客が少なかったことだけが幸いであったことだろう。
さて宮地駅前は、夜も近づく頃合いと吸血鬼のせいか出歩いている人はいない。
「いるね。まだいる。匂いがする」
「無駄足にならずに済んでよかったですね。それで、どうするんですか?」
「うん、とりあえずホテルかな」
「珍しいですね。すぐに行かないんですか?」
「うん、だってハルカさ、臭うよ。お風呂入った方がいいよ」
は、ここでそれを言う? 死ぬ? 死ぬ? と殺意が一瞬で湧き上がった悠花であったが、駅前で人を殴ることはいけないと思う程度の分別はあった。
ここが密室であれば、容赦なく殴りつけていたところだ。
「良いとこ泊ろうね。釣り場になるんだから」
「釣り場……?」
「そう、釣り。ボクは上手いよ」
「?」
●
阿蘇を騒がせる吸血鬼――
音夢は自分を幸運だと思っている。彼女は吸血鬼から血と力を与えられて成ったばかりの転化吸血鬼だった。
ある夜、学校帰りに吸血鬼と遭遇した。
それで殺されるのだと思ったが、吸血鬼は何を思ったのか音夢に血を与えて闇の眷属として覚醒させたのである。
人外としての力を得た音夢が想ったことは一つ。
――自分は選ばれた。
吸血鬼という素晴らしい生き物になるという幸運に選ばれたのだと彼女は思った。
転化でなったがために彼女の力は通常の半分程度であったが、阿蘇にて毎夜毎夜人間の血を吸うことで一人前の吸血鬼と呼べるほどに成長していた。
そこまで成長できたことも、これまでハンターと遭遇しなかったことも己が幸運であると実感する一助となっていた。
簡単に言うと、調子に乗っている。
自分だけは大丈夫だとか、そんな思いのままに暗闇の中、ふわりとした黒のツインテールを揺らしながら赤く染まった大きな瞳に夜景を映す。
「さあて、今日の獲物はどんな娘が良いかしら」
狙うのは決まって若い女だった。
幼女から美女まで。老齢の女は好みではない。だいたい三十代くらいまでが美味しいし肉も柔らかくて良いのだと彼女はこれまでの吸血で学習した。
偏食であり大喰らい。それが音夢という吸血鬼であった。
「あっ……」
そして、見つけた。今日の獲物。
一目見た瞬間に心奪われるほどに美しい少女だった。
髪は見る角度によって色が変わって見える澄んだ色味で、はむはむしてみたいと音夢は強烈に思った。
肌は白く誰一人踏んだことのない新雪の雪原のようでこれから自分があの首筋に牙を突き立て赤い血を吸うのだと考えると腰が砕けそうになるほどに興奮が湧き上がって止まらない。
何より匂いだ。脳を刺激する甘ったるいほどかぐわしい芳香が鼻孔を擽って我慢という理性は消え失せた。
「決めた、あたし、ぜぇーったいあの子を吸う!」
音夢は決めるとビルの壁を蹴って少女の近くに降り立った。
「ねえ、あなた、あたしと良いことしましょう」
二つの瞳に魅了の力を乗せて、少女の瞳を見た。
まるで綺麗なアレキサンドライトのような青みがかったグリーンの瞳を見た瞬間、音夢の方が魅了されてしまったのではないかと思うほどにくらりと来た。
「良いよ。ボクのホテルに来る?」
「ぐっはぁ!? 声綺麗! ボクっ娘! 属性過多! でもそれが良いですわ!」
鈴なりのような声を聴いた瞬間、びたんびたんと地面を転げまわる羽目になった音夢であったが、魅了は成功していると確信する。
近くのホテルに泊まっているということですぐにホテルの部屋に招いてもらう。
「ベッドに座って、服を脱いで! あ、はだけるだけで良いの! あとは自分で脱がしたいわ!」
「わかった」
ばくばくと爆発しそうな心臓を堪えながら、少女が首筋を出すのを待つ。
黒いコートを脱いで、上着を脱いでとあまりにもゆっくり焦らしてくるもんだから、そのままベッドにダイブしそうになったほどだった。
それでもようやく首筋を出してもらえた。
「ふお、おおぉ……ごくり…………」
その美しさといったら、高級レストランの――音夢はとくに高級レストランなんぞいったことがない庶民中の庶民であるが――最高級食材を使ったお高い料理のようだとすら錯覚する。
何よりこの匂いだ。花のような、あるいはもっと別の香しい香り。
彼女が首筋を出してから強まった香りに音夢はふらふらと引き寄せられるように寄って行って。
そして、その首筋に背後から噛みついた。
「あっ……」
艶やかな少女の声に心臓でもなんでも燃え上がっているのかと思わんばかりで――。
「う、ぐ」
そして、最悪のエグみでもってすべての味覚が汚染された。
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