第8話。美紅と鹿倉
「こうして二人で出かけるの久しぶりだね」
特に目的地を決めているわけでもなく、ずっと家の中に居る雨音を連れ出す為だった。それでも今は近所のお店になんとなく向かっている最中ではあった。
「美紅、一応私は自宅謹慎になってるんだが」
「先生に見つかって怒られるのが怖い?」
「んなわけないだろ……」
雨音は美紅よりも少し先を歩いている。
その背中に手を伸ばせば届きそうなのに、美紅には遠く見えた。雨音との間に見えない壁を感じる瞬間はいつだってある。
「……っ」
ケータイが鳴っている。鞄の中からケータイを取り出すと、表示される名前を見て驚いた。
ただ、すぐに通話を開始したのは連絡が来るということは大事な話があるからだと美紅は思った。
「
それは
「どうかしましたか?」
「今、お忙しいですか?」
焦ったような声。わざわざ連絡をしてくるくらいだ。美紅も落ち着いて対応することにした。
「いえ。少し、散歩をしていただけです」
「もし、可能であれば結衣を学校に迎えに行ってくれませんか?」
「え……」
結衣に何かあった。結衣の名前を出されただけで美紅は動揺してしまった。顔に出ていたのか、雨音に手を握られて、冷静さを取り戻した。
「何があったんですか?」
「少し前に学校から連絡がありまして、午後の授業を中断して集団下校を行うみたいです。ですが、結衣と一緒に下校する生徒が居ないようで、出来れば迎えに来てほしいと言われてしまいまして……」
結衣の母親の仕事が忙しいことを美紅は知っている。両親共働きで、突然、そんな連絡を受けたのなら仕事を抜け出すのは難しいのかもしれない。
「わかりました。私が行きます」
通話を終了して、雨音の顔を見る。
「ごめん、雨音ちゃん。予定変更」
「気にしなくていい」
にしても、授業を中断してまで集団下校をするなんて大きな事件でも起きたのだろうか。美紅は通話の内容をすべて雨音に話すことにした。
「最近、この辺の学校を狙って、爆弾を設置したってイタズラ電話があるらしい」
「雨音ちゃんの学校でもあったの?」
「ああ。ただ、うちの教師らはイタズラだろうって本気にしてなかったけどな」
結衣の学校は生徒の安全の為に集団下校させるということだろうか。それにしても授業を中断するなんて大げさだとは思うけれど、万が一があれば取り返しがつかない。
「犯人、早く捕まるといいね」
一般人の美紅でも気づくこと。
雨音が言っている通りなら、犯人は近所に住んでいる人間だとわかる。わざわざ自分と関係の無い地域を絞って、イタズラ電話をしている人間なら、目的が薄れてしまう。
きっと、犯人はテレビのニュースなんかじゃなくて直接被害を目にする機会を得ようとしている。周りの人間がイタズラ電話一つで慌てふためく姿を望んでいる。
「美紅。怖い顔してるぞ」
「怖い顔って、どんな顔?」
雨音が呆れた顔で美紅を見る。
「お前、顔が笑ってるぞ」
自分でも気づけない表情に戸惑いながらも、美紅は受け入れていた。
誰かが傷ついたり死んだわけじゃない。
だから、今の状況を喜んでいる自分がいることに美紅は気づいた。結果として美紅は欲しいものが得られてしまったのだから。
「私って、変かな?」
「さあな。でも、母親に似たんだろ」
母親。その言葉一つで納得してしまう。
自分の母親がよく笑顔を見せる人間だと美紅は覚えている。その笑顔を見ているだけで、愛されていると実感してしまう。
ただ、それが母親のことが苦手な理由でもあった。母親は他人の不幸ですら、笑ってしまう人間だったから。
あまり時間も経たないうちに学校に着いた。
校内に入ると、ちょうど目につく場所で結衣が待っていた。待っている時間が退屈だったのか、地面に座り込んでいた。
「結衣ちゃん」
うつむいていた結衣が顔を上げ、美紅に向かって駆け寄る。そのまま目の前まで来た結衣が立ち止まったのは、雨音に気づいたからだとわかった。
「結衣ちゃん。この人は雨音ちゃん。私の……」
「私は美紅の妹だ」
妹にしては雨音は美人だから、あまり似てないと思うけど。雨音が妹扱いを許してくれるのなら、美紅にソレを否定する理由はなかった。
「はじめまして……結衣です……」
その時、結衣が怯えた表情とは別に悲しむような顔をしたように見えた。何か不安なことでもあるのだろうか。
「ふーん。これが美紅の教え子か」
雨音が結衣を見下ろしている。
「あれ?雨音ちゃんって、子供苦手じゃ……」
「苦手じゃない。嫌いなんだよ」
だから、結衣にも冷たい態度を取るかと美紅は思っていた。けれど、今の雨音は優しさを感じるような対応をしている。
「なんか、見覚えがあるんだよな」
「見覚え?」
「コイツ、苗字はなんだ?」
「
名前を聞いて、雨音が顔を手で押さえる。
「美紅。コイツの父親がなんの仕事してるか知ってるか?」
そういえば聞いたことない。
「高校の教師だ」
「雨音ちゃんはなんで知ってるの?」
雨音は深いため息を吐いた。
「鹿倉はうちの学校のバスケ部の顧問だ」
ようやく話が繋がった。結衣の父親は雨音の通っている高校の教師。それに加えて雨音がやっているバスケ部の顧問でもある。
雨音はバスケ部で問題を起こして、現在は停学の真っ最中だ。こうして出歩いていること自体、本来であればよくないことだった。
「もしかして、自宅謹慎のこと気にしてる?大丈夫だよ、結衣ちゃんは言いふらしたりしないし」
「違う。私が気にしてるのは美紅のことだ」
「私のこと?」
「部活で問題を起こした生徒と一緒に暮らしてる人間に娘の家庭教師を任せたいと思うか?」
雨音は自分よりも他人の心配をしている。美紅はそこまで頭が回らなかった。結衣が言いふらさなくても、噂とは勝手に広がってしまうものだった。
「そんなの雨音ちゃんの杞憂だよ」
言葉を口にしながらも、美紅は不安を押し込んでいた。杞憂で済まないこともあると知りながら、美紅は平然を装っていた。
「先生……」
ずっと口を閉ざしていた結衣が声を発する。
「結衣ちゃん、どうしたの?」
「ケンカ……私の……せいですか……?」
雨音と口喧嘩をしていると思われたのだろうか。
「ううん。結衣ちゃんはなにも悪くないよ」
結衣のせいでなくても、自分の父親の話が出たのなら結衣が気にするのは当然のことだった。
「ただ、雨音ちゃんと会ったことは誰にも言わないって約束してくれるかな?」
雨音のことが結衣の口からうっかり伝わるのが一番可能性としてはありえる。あらかじめ口止めをしたのは、少しでも予防する為だった。
「はい……約束します……」
美紅は雨音と顔を合わせる。
「雨音ちゃん。これ以上私達に出来ることはないと思うけど」
雨音の杞憂が現実にならないように対策する方法は限られている。最悪の選択肢は雨音が家を出て行くこと。それを止める為に美紅は雨音から選択肢を奪おうと考えた。
「私は美紅の考えに従う」
「いいの?」
「ああ。美紅が頑固なことを知ってるからな」
よかった。その言葉を美紅は口にしない。
口にすると、幸せが壊れそうだから。
「雨音ちゃん」
差し出した美紅の手。それを雨音が握り返す。
「結衣ちゃん」
もう片方の手で美紅は結衣の手を握った。
「それじゃあ、行こうか」
美紅は自分の手に掴める幸せくらいわかっているつもりだった。両手から伝わる二人分の熱。これ以上を美紅は求めたりはしない。
今が何よりも幸せだったから。
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