第9話。美紅と雪子
窓ガラスに映る自分の姿を見て、
もうすぐ、今日の目的地に着く。
いつも通っている場所なのに初めて足を運んだ時のような不安を美紅が抱いたのは、これから起きることが想像もしていなかったことだから。
「やっぱり、
美紅が出かける時間になっても、雨音が部屋から出て来ることはなかった。元々、雨音は休みの日にはずっと寝ているから、わざわざ起こすのも悪いと美紅は思ってしまった。
歩いているうちに見えてくる住宅街。まだ出来たばかりの戸建て住宅が並んでいて、人が想像するような住宅街という言葉に相応しかった。
「
考え事をしているうちに着いた場所。家の前で立っているのは、美紅が何度か会話を交わしたことのある結衣の母親だった。
「おはようございます」
「もうお昼過ぎですよ」
この場には彼女の他にも美紅が顔を合わせたことのない人間が何人もいる。そのうちの何人かが準備をしていて、美紅も今日のイベントに呼ばれたうちの一人だった。
結衣のことを迎えに行ったお礼に、日曜日にバーベキューをするから来てほしいと言われてしまった。
元々、予定されていたことで、美紅が後から加わるという形になる。ただ、結衣の親戚等が集まることを美紅はあらかじめ聞かされていた。
それでも美紅は誘いを断りきれなかった。
「もう準備を始めているんですか?」
「みんな張り切ってるみたいですね」
既にお酒を飲んでいる人もいる。バーベキューは夕方から始めると聞いていたけど、今集まっている人達は先に楽しむ為に集まっているとわかった。
「
名前を呼んだのは何度目か。結衣さんのお母様なんてかしこまった呼び方を止められた結果、名前を呼ぶしかなくなってしまった。
「なんでしょうか。美紅さん」
同じように名前を呼ぶ雪子。それほど歳が近いわけでもないのに美紅は雪子のことを昔から仲の良い友人のように感じることがあった。
関係は割り切るべきだとわかっている。ただ、今の格好をしていたら説得力もなくなる。仕事服を着て行くわけにもいかず、美紅は棚にしまわれていた服を引っ張り出してきた。
「結衣さんは家の中ですか?」
「そうですね。子供たちはゲームで遊んでますよ」
子供の姿が全然なかったのは、外に居たら退屈だからだとわかった。バーベキューが始まるまではそれも仕方ない。
美紅は雪子と一緒に家の中に入ることにした。
玄関には大量の靴が脱ぎ捨てられている。ほとんどが子供の靴で、踏まないようにして美紅は家に上がった。
「美紅さん、こっちですよ」
美紅が足を運んだのはキッチンだった。隣のリビングの方では子供たちがテレビのゲームで遊んでいるみたいだけど、ゲームはあまり詳しくない。
「アンタが陽咲さん?」
既にキッチンに立っていたのはご年配の女性だった。雪子と雰囲気が似ているのは、二人が親子だからとわかった。
「はじめまして。陽咲美紅です」
「いつも孫が世話になってるな」
結衣のおばあちゃん。今日、バーベキューの食材の下ごしらえをするのは雪子とおばあちゃんの二人だと聞いた美紅は、自分から手伝うと申し出た。
子供たちの母親は別の場所で集まって日曜日を過ごしているそうだ。後から手伝いに来てくれる人もいると言っていたけど、あらためて集まる人数を見れば早いうちから始めた方がよさそうだった。
「これを切るんですね」
「だいたいで大丈夫ですよ」
クーラーボックスに入っていた肉の塊。雪子が買ってきた物で、ある程度の大きさにカットするらしい。
肉の他にも野菜だったり、バーベキューの食材は色々とあった。美紅は気合を入れて、作業を終わらせることにした。
「美味しい……」
夕方になり家の前でバーベキューが始まった。バーベキューグリルは二つ使っているみたいだけど、子供たちはの食べる勢いもあって次々と肉が焼かれていた。
あれだけの肉が本当に無くなるか不安だったけど、余計な心配だったようで。美紅は折りたたみの椅子に座って、紙皿の上に乗っている焼かれたタマネギを食べていた。
「先生……」
そんな時、結衣が声をかけてきた。
「結衣ちゃん、どうしたの?」
「お肉食べないんですか……?」
美紅の紙皿に乗った野菜たち。肉と同じくらい切っていたけど、子供にはあまり人気がない。それでも大人達が子供たちに食べさようとする姿はあった。
「お肉も食べてるよ」
グリルの前にずっと立って肉を焼いている男性の方にも肉を進められた。それでも肉が野菜よりも少なかったのはあまり食べる気がしなかったから。
それにお肉とは別に結衣のおばあちゃんが作ってくれたおにぎりもある。おにぎりを一つ食べただけでもお腹がいっぱいになりそうだった。
「これ、食べませんか?」
結衣の持っている紙皿に乗っているモノ。嫌いなものでもあったのかと、美紅が確かめてみると紙皿に乗っているのは手羽先を塩コショウで焼いたものだった。
「結衣ちゃんは手羽先嫌いなのかな?」
結衣は顔を横に振った。
「好き、だと思います……」
「なら、結衣ちゃんが食べてもいいんだよ」
あの状況を見れば、同じ肉を食べられる可能性も低い。油っこい肉でなければ、美紅はなんでもよかった。
「今日、先生が手伝うところをずっと見てました」
包丁を使うから子供はキッチンの立ち入り禁止にされていた。結衣もそれを守っていたのか、リビングの方に居るところを見た。
「私も手伝いたかったです……」
普段から結衣が家事の手伝いをしていることを美紅は知っている。今日、雪子が結衣を手伝わせなかったのは子供たちの輪から外すのがよくない考えたからだと美紅は思った。
それでも、結衣が孤立気味だったことにも美紅は気づいていた。だからと言って、大人が口出しするようなことでもなかった。
「結衣ちゃん。私が今日手伝いに来たのは結衣ちゃんに喜んでほしかったからだよ」
「私にですか……?」
「そう。雪子さんがね、私が来れば結衣ちゃんも寂しい思いをしないからって言われてね」
結衣の体が動いた。美紅の腕に結衣の小さな手が触れてくる。でも、紙皿を片手で持っているから落ちそうになった。
「危ないよ、結衣ちゃん」
それを見て、美紅は手で支えた。
「ごめんなさい」
結衣はキッチンペーパーに包まれた手羽先を掴んで差し出してくる。ここまで結衣にされて食べないというわけにもいかず、美紅は一口だけ食べることにした。
「美味しい」
少し塩辛いけど、それでも食べられた。
「先生、口に……」
結衣が紙皿を近くのテーブルに置いて、手を伸ばしてくる。結衣の指先が美紅の口に触れたのは汚れを取る為だとわかっていた。
けれど、結衣の指は動かされ、美紅の唇に触れることになった。指先で唇の感触を確かめるように這わせていく。
「結衣ちゃん?」
「……っ!」
声をかけると結衣が離れた。
「ごめんなさい!」
「平気だよ」
美紅は自分の唇に触れる。
いったい結衣から何をされていたのか。
「結衣、おいでー」
その時、結衣が雪子に呼ばれた。
「お母さんが呼んでるよ」
「……行ってきます」
美紅の傍から結衣が離れて行った。
「それにしても……」
結衣の家族を見ていると、美紅は自分の家族のことを思い出してしまう。決して、不幸を感じるような家庭環境ではなかったけれど、そこに幸せがあったのか今でも疑ってしまう。
幸せの満ちた結衣の家庭。
娘の意志を無視する雨音の家庭。
子供と親の関係が複雑な晴久の家庭。
比べたところで何かが変わるわけでもない。
それでも、美紅は自分の家庭よりも幸せな家族を見て羨ましいと感じてしまった。自分には手に入れられない幸せが目の前にあった。
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