第7話。美紅と田橋

 東雲しののめ 晴久はるひさ。彼の家庭に問題があると美紅みくが気づいたのは、家庭教師として初めて仕事をした日のことだった。


 これまで美紅は晴久の父親とは一度も顔を合わせていない。聞いた話によれば、出張の仕事で家を空けていると言っていた。


 だけど、晴久ではない男の人が家から出てくる姿を美紅は見てしまった。晴久の母親と仲良くしている男の人。とても親戚の人間には見えず、疑問は増えるばかりだった。


「私は何も見てない」


 結局、見て見ぬふりをするしかない。


 誰に告げ口をしても、待っているのは最悪の結果だけ。他人の家庭の事情に首を突っ込む理由は美紅にはなく、黙ってることを選んだ。




 そして、何度目かの家庭教師の日。


陽咲ようさき 先生、テストが返ってきた」


 以前、話していたテストのこと。晴久に渡されたテストを確認すると、赤点をギリギリ回避と言ったところだった。


 それも、ほとんどが当てずっぽう。勉強で教えた部分は忘れているのか、ところどころが間違っている。


 元々、家庭教師を呼んだ目的は勉強の遅れを取り戻すという話だったけど、そもそもの晴久の成績が悪いことは勉強を教えている最中に気づいていた。


「この部分、教えた時は解けてましたよね?」


「なんか、ド忘れしちゃって……」


 美紅は顔に出さないようにして呆れる。


 よく考えれば解けるような問題でも間違っているのだから、ため息が出そうになった。晴久は覚えられるから大丈夫だと言っていて、美紅はそれを信用して別の部分を教えていた。


 信用。いや、結果がわかっていることを信用するとは言わない。美紅は晴久に期待することすら出来ていなかった。


 だけど、やることは今日も同じ。丁寧に勉強を教えて、家庭教師としての仕事を問題なく終わらせる。


「それじゃあ、今日は……」


 晴久に次の勉強範囲を伝えようとした時、扉がノックされる音が聞こえてきた。


「陽咲さん」


 外から聞こえた声は晴久の母親だった。


「東雲さん。少し席を外します」


 美紅は立ち上がり、部屋の扉に近づいた。


 扉を開けると、そこには晴久の母親が立っていた。何か話があるのか、彼女は扉から離れて行く。それを見て美紅は部屋から出て、後をついて行くことにした。


 移動したのは一階のリビングだった。


 そこで待っていたのは見覚えのある男性。


 随分と若く見えるけど、大人っぽい雰囲気と体格が彼の存在感を強くしているように美紅は感じた。


「初めまして。わたしは東雲くんの担任をしている田橋たはしといいます」


 丁寧な挨拶と共に美紅に手を差し出す。


「ご丁寧にどうもありがとうございます」


 その手を美紅は握り返した。


 自然と美紅の視線は田橋の顔に向く。


「わたしの顔に何かついてますか?」


「いえ……」


 美紅は手を引いて、視線を逸らした。その視線の先には晴久の母親がいる。呼ぶ時は晴久と同じように苗字で声をかけるようにしているけど、二人いる時は少しだけ困ってしまう。


「東雲さん、これはどういうことですか?」


「田橋先生に家庭教師の話をしたら、是非お会いしたいということで。陽咲さんをお呼びしました」


 意見交換を求められているのだろうか。母親が晴久に対して積極的な対応をするとは美紅は少しも考えていなかった。


「不登校だった東雲くんが、もう一度学校に通えるようになったのは陽咲先生のおかげだとわたしは思っています。本来はわたしがやるべきだったと、わかってはいますが。陽咲先生にはとても感謝しています」


 素敵な笑顔を見て、美紅の頭によぎったのは雨音あまねとの会話だった。美紅が教師という存在を苦手としている理由なら確かにある。それを雨音との会話で再認識したせいか、目の前に居る人間の対応に美紅は裏があるように思ってしまった。


「私はただの家庭教師です。学校に再び通い始めたのは、東雲晴久さんが頑張ったからで、私は何もしていませんよ」


 実際のところ、どうして晴久が学校に通えるようになったのか美紅もわかっていなかった。


「わかりました。東雲くんが頑張ったということで、今は納得させていただきます」


 話がわかる人でよかった。変に感謝をされても気持ち悪いと美紅は思っていた。


「ですが、他にも問題があります」


「私に解決出来ることですか?」


「東雲くんの成績に関することです」


 田橋は真面目なのか。とても母親の前でする話ではない。しかし、担任の先生と家庭教師が揃ったのなら、生徒の勉強に関する話題が出るのは当然なのかもしれない。


「一年生の時と比べても、今の東雲くんの成績は順調に上がっていると判断しています。ですが、東雲くんのお母さんは成績がさらに上がることを望んでいます」


 田橋の言葉だけでは彼女を納得させられなかったのか。今の以上に詰め込むとなれば、最低限授業の内容は理解してもらう必要があった。


「是非、陽咲先生の意見をうかがいたいのですが」


 本人のやる気次第だと美紅はわかっている。しかし、うかつに口にすれば親子関係に亀裂を入れてしまう可能性があった。


 美紅の思考の中で一つの疑問が浮かんだ。


 担任の先生がわざわざ一人の生徒、その母親の意見を取り入れようとしている。真面目な人間という言葉で片付ければ何も問題はないけれど、何度も家に足を運ぶほど熱心になれるのだろうか。


 今、目の前で行われていることは、まるで浮気のアリバイ作りをしているようだ。教師としての仕事をまっとうしている姿を他人に見せつけている。


 ここから先も美紅の妄想でしかない。


 本当は晴久の成績なんてどうでもよくて。田橋はこの家に足を運ぶ理由を求めている。その上で田橋が何をしていようが、美紅には関係のない話だった。


「でしたら、田橋先生も個人的に東雲さんに勉強を教えるというのはいかがでしょうか?」


「プライベートの時間を彼に使うということですか?」


「ええ。そうすることで、授業の内容をより理解出来ると思いますから」


 美紅は最大限の答えを出した。


 田橋の望みと、晴久の母親が望む答えを。


「素晴らしいです。陽咲先生の意見を参考にしてます」


 すべてが上手くいくとは美紅は思っていない。


 それでも、今は田橋が納得したのなら話はまとまったと言ってもいい。美紅は軽く挨拶を済ませてから、リビングから立ち去ることにした。


「陽咲さん」


 リビングから出たところで東雲に声かけられた。


「田橋先生のこと、どう思います?」


 何故、そんな質問をされないといけないのか。


「いい先生だと思いますよ」


「陽咲さんの好みということですか?」


 嫌な視線を向けられる。それでも美紅はいつも通りの表情を作ってみせる。教師としてふさわしい顔。


「すみません。私には心に決めた人がいるので、そういった話には興味がありません」


「そう。ならいいです」


 やっぱり、妄想なんかじゃない。


 田橋と会話をした時に気づいたことがある。わずかにシャツの下にアザのようなものが見えた。それがいつ出来たものなのか、考えてもわからない。


 だけど、それはきっと、この家の中で出来たものだと美紅にはわかった。少しばかり迂闊に感じてしまうけど、初めから隠すつもりもなかったのかもしれない。


 誰が望んでそうなったのかはわからない。それでも確かに二人の関係はただの担任の先生と生徒の母親ではなかった。


 田橋が会いに来ているのは晴久じゃない。


 彼は晴久の母親が目的だった。


 まさか、現実にそんな話があるとは美紅は想像もしていなかった。それでもお互いが求め合うのなら、誰にも止められはしない。


 だから、美紅は相変わらず見て見ぬふりをする。


 どんな結末が待っていたとしても、美紅は最後まで無視を続けることにした。

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