第5話。美紅と母親

陽咲ようさきさん」


 結衣ゆいの家庭教師の日。


 いつも通り家に行くと、出迎えてくれたのは結衣の母親だった。これまでに母親とは何度も顔を合わせており、初対面というわけではなかった。


 それでも美紅みくが毎回緊張しているのは、母親の柔らかな表情から悪意のようなものを一切感じないから。自分の悪い部分が、余計に浮き出る気がした。


「先日は、ありがとうございます」


「えーと……」


 突然のことで美紅は戸惑ってしまう。


「あの子と一緒に買い物に行ってくれたんですよね」


 それは公園で結衣を見かけ、一緒に買い物に行った日の話だとすぐにわかった。ただ、それなりに時間が経っていたせいで、美紅も忘れていた。


「結衣さんからお話を聞いたのですか?」


「いいえ。ご近所さんからです」


 スーパーの前で出会った、あの女性のことだ。その時の対応について美紅は失敗したと考えていたけれど、その結果を今になって知ることになった。


「あの子、凄く人見知りで、何度か顔を合わせてるはずのご近所さんでも怯えてしまうことがあるんですよ」


 美紅自身、今でも結衣からは怯えられている気がしていた。それでも最初に比べたら話すようになってくれたし、怖がっているのは家族以外の他人に対してだとわかっていた。


「でも、陽咲さんが居てくれたおかげで、あの子がハッキリと言葉を口にしたみたいで。その話を聞いて、わたしは嬉しかったんです」


「嬉しかった……」


 娘の成長を母親が喜ぶのは当然なんだと美紅は思った。


「もし、陽咲さんさえよければ、家庭教師のお仕事だけではなくて。普段から結衣と関わってほしいと思っています」


 美紅の中にあった罪悪感。家庭教師として結衣と関わることで、その罪悪感が薄れるような気がした。


 だけど、それが無くなった時。美紅は自分の罪悪感に押し潰されないか。不安になってしまった。


「それは……」


 迷いながらも、美紅は答えを決めた。


「今は家庭教師の仕事に集中したいと、私は思っていますから」


 先生と生徒。その関係の先に行くのは、まだ少し早いと美紅は思った。あまり距離が近くなれば勉強に関しても甘えが生まれてしまう。


「でしたら、結衣が強く望んだ時は、もう一度お考えいただけますか?」


「わかりました」


 この人は強制したりはしない。母親として、娘が成長する方法を手に入れようとしているだけ。


 それが嫌なくらい伝わってくる。


「あの……」


 美紅は間違いを口しようとした。


 家庭教師として割り切るなら必要のないこと。勉強だけを教えて、プライベートには極力干渉をしない。そのつもりだったのに、いつからか美紅は自分で決めたことも守れていなかった。


鹿倉しかくらさんは……娘さんにどうなってほしいと思っていますか?」


 母親ではなく、人間としての考えを聞きたかった。


 美紅にとって、親という存在は今でも理解に及んでいない。だから、子供を育てる人間の意見として知っておきたかった。


「もちろん、幸せになって欲しいと思っていますよ」


 真っ直ぐとした本音の言葉。優しい笑顔に裏を感じることすら出来ない。結衣の母親は本気で娘の幸せを願っている。


 美紅は彼女の言葉を胸にしまい、結衣の元に行くことにした。今の結衣を幸せに出来るのは家族であることを決して忘れないようした。




「結衣ちゃん?」


 結衣の授業中のこと。


 勉強の途中に結衣がそわそわしていることに気づいた。トイレならいつも勉強の前に行ってるみたいだから、別のことだと美紅は気づいた。


「あの……お母さんと何を話してたんですか……?」


 先程の会話を結衣に見られていた。


 結衣の言い方からして、悪いと思ったのか会話を盗み聞きはしなかった。だけど、ほとんどが結衣の話だったから、自分の話だとわかってしまったのかもしれない。


「結衣ちゃんのお話をしてたかな」


 美紅の言葉で結衣の体が小さく動いた。


「私……何か悪いことをしましたか?」


「結衣ちゃんは自分が悪いことした心当たりがあるのかな?」


 結衣が顔を横に振った。


「なら、そんな不安そうな顔しなくても大丈夫だからね」


 その時、美紅は手を動かして、結衣の頭を撫でようとした。不安にさせてしまったことを詫びる気持ちを抱きながら、自分の行動を寸前まで止めようと考えなかった。


 美紅が触れる前に手を止めたのは、先程の会話で自分が結衣と距離置こうとしたことを思い出したからだった。


 結衣に懐かれるほど、いつか来る別れの日が辛くなってしまう。きっと、結衣の母親は娘に辛い思いをしてほしくないから、家庭教師としてではなく美紅が人として結衣と関わることを望んだ。


「どうして……頭を撫でてくれないんですか?」


 失敗だった。


 いつもなら結衣に気づかれないように美紅は自分を抑えている。どこかで線引きをしなければ、家庭教師としての仕事に甘えが生まれてしまうと考えていたから。


「勉強中だから、邪魔するのはよくないと思ってね」


「じゃあ……勉強が終われば頭を撫でてくれますか?」


 ここで下手に断って結衣を傷つけるわけにはいかない。後悔しても、それだけは優先するべきことだった。


「もちろん、勉強をちゃんと終わらせたら。結衣ちゃんの頭を撫でてあげるからね」


 結衣は素直でいい子だから、今まで勉強の対価を要求したりしてこなかった。ただ、子供をやる気にさせる為には、時にはご褒美が必要だと美紅は考えていた。


 それから、予定通りに結衣の授業が終わった。


 勉強に集中していたのか、結衣は不必要な会話を求めてこなかった。ただ、その姿を見て、美紅は少しだけ不安になってしまった。


「それじゃあ、先生……お願いします……」


 結衣は美紅に背中を向けていた。


 意識して他人の頭に触れた経験は美紅にはなかった。それもあり、結衣の頭に触れることに戸惑いが生まれてしまった。


 小さな結衣の背中。呼吸の度にわずかに動き、美紅の視線が吸い寄せられる。頭を撫でようとした手は宙に浮き、逸らせない視線を目を閉じて強引に伏せる。


 そして、美紅の頭の中で声が聞こえた。


 結衣なら大丈夫。美紅を否定しない。


 だから、好きなようにすればいいと。


「……っ!」


 次に美紅が目を開けた時、既に体は動いていた。


「先生……?」


 美紅の腕の中にある結衣の体。触れた場所から伝わってくる熱。嗅いだことのない香り。一つ一つの感覚が美紅のやったことを証明していた。


「結衣ちゃん……」


 自分が結衣の体を抱きしめていると美紅が気づいた時。すぐに離れようとしなかったのは、美紅の中にある幸福感のようなものが満たされ続けていたからだった。


 初めて結衣と出逢った時から美紅は結衣のことを何よりも大切にしたいと思った。でなければ、この関係は簡単に終わってしまうのだから。


 まだ結衣は子供で、美紅の行動のすべては理解出来ない。だからと言って、好き勝手にしていいわけがなかった。


「ごめんね……」


 美紅は結衣の体が離れることを選んだ。心が満たされるほど、後悔をしてしまうから。幸せだったはずの時間も嫌な思い出に変わってしまう。


「待ってください」


 しかし、結衣が美紅の腕を掴んで止めた。


「もう少しだけ……このままじゃダメですか……?」


 それは許しの言葉ではない。


 結衣の口にした言葉は母親の温もりを求めることと何も変わらない。美紅の不順な動悸と違い、結衣のモノは純粋な気持ちだとわかっていた。


「頭は撫でなくてもいいの?」


「それは……また今度お願いします……」


 自分の間違いに気づきながら。


 美紅は時間の許される限り、結衣の体を抱きしめ続けた。こうして、結衣を抱きしめている間は嫌なことを全部忘れられる気がした。


 後で後悔することになったとしても。

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