第3話。美紅と黒猫
「
その日、
「あ、先生……」
結衣の姿を見つけたのは、近道の為に通った公園の中だった。少女の後ろ姿を見て、通り過ぎようとした時に、その少女が結衣だと美紅は気づいた。
土曜日の昼間。最近の小学生はネットが普及して、あまり外で遊ばないと聞いているけど。こうして公園に居るのなら、何か目的があるからだと美紅は思った。
結衣に近づいてみると、結衣の足元で黒い物体が動いていた。
「子猫……?」
それは小さな黒猫だった。
「あの……この子は……」
子猫は必死に鳴いている。見た感じ、野良猫のように見えるけど、周りに親猫は見当たらない。
「猫ちゃん、飼いたいの?」
結衣が顔を横にぶんぶんと振った。
「お母さんが猫アレルギーで……動物はダメだって……」
「そっか」
知り合いに猫アレルギーでも猫を飼ってる人は居るけど。それはよほど猫が好きじゃないと難しいと美紅は知っていた。
「結衣ちゃん。猫ちゃんに触りたい?」
ここで気をつけるのは結衣の方。結衣にも同じように猫アレルギーがあった場合、触ることは絶対に避けるべきことだった。
だけど、このまま何もしなければ結衣が子猫の誘惑に負けて触ってしまいそうだから。自分が見ているうちに触らせようと美紅は考えた。
「こっちにおいで」
美紅は手を伸ばして子猫の体を掴もうとする。
「……痛っ」
「先生?」
今になって美紅は思い出した。昔から動物が嫌いな理由。どれだけ優しく触れようとしても、動物は不意に牙を剥く。
指先が赤くなっている。強く噛まれたと感じたけど、血が出るほどとは美紅も思わなかった。
「やっちゃった……」
美紅は血が体に触れないように手首を掴んだまま移動することにした。近くの水道を使って、噛まれた部分を洗う。本当は消毒もしたかったけど、カバンの中には絆創膏しか入ってない。
水から手を離すと、傷口から血が溢れる。
見た目以上に深い傷なのか、美紅は急いで治療をすることにした。
その間、後ろについてきた結衣が心配そうに見ていた。美紅はなるべく傷を見せないように隠そうとしたけど、カバンの中を確かめている間は意識が逸れてしまった。
「結衣ちゃん?」
気づけば、結衣が美紅の腕を掴んでいた。
その掴む手は弱々しく、動かすだけで簡単に離れてしまいそうだった。もし、美紅に拒絶する意思があれば結衣の動きに合わせるようなことはしなかった。
結衣の小さな口に美紅の指先が取り込まれる。
花の蜜を吸うように結衣は美紅の指先を唇で挟んで見せる。それが間違っていると気づいたのか、結衣は舌を使って美紅の指を舐めて、止血をしようとする。
「結衣ちゃん、ありがとう」
すぐに美紅は指を引いた。指先に残った唾液を美紅は汚いとは思わず、カバンから取り出したハンカチで手を拭くにした。
「ご、ごめんなさい……」
「どうして謝るの?」
「勝手なことしたから、怒ったのかなって……」
美紅はなるべく結衣に配慮して対応したつもりだった。水で洗った後と言っても、猫に噛まれた部分を口に入れる、なんてことをさせたくないから。
それでも、美紅は結衣の行動を止めようとはしなかった。それが悪いことであると理解しながらも美紅の中で結衣を拒むことにわずかな抵抗が生まれてしまった。
「結衣ちゃんのおかげで痛くなくなったよ」
きっと、この傷はお風呂に入った時に思い出すことになる。簡単に治るような傷ではないけど、結衣の行動が正しいことであると、理解してもらうためには我慢も必要だった。
「ごめんね、猫ちゃん逃がしたみたいで」
美紅の視界の中に猫の姿は無かった。
「あの猫さん……いつも居ますから……」
「そうなんだ」
あの猫を抱き上げて、結衣に触らせようとしたのは見事に失敗した。警戒心の強い野良猫を飼い猫のように扱うのは間違っているし、結衣が噛まれなくてよかったと美紅は思っていた。
「あの……先生、何か用事があったんじゃないですか……?」
短い沈黙が結衣を不安にさせたのか。
それとも、目的の猫が居なくなったからこそ、思い出したのか。偶然通りかかった美紅には別の目的があったことに結衣は気づいた。
「お買い物に行く途中かな」
「ご、ごめんなさい……」
「ううん。急ぎじゃないから大丈夫」
美紅が嘘をつかなかったのは切実ではないと思ったから。それでも、結衣が謝った時、美紅は少しだけ悪いことをした気分になった。
「結衣ちゃんは公園に猫ちゃんと遊びに来たの?」
「あ、そうだった……」
結衣が慌てて小さなカバンから紙を取りだした。
「お母さん、お使いを頼まれてました……」
美紅はその紙を覗き見するつもりはなかった。だけど、結衣は美紅の質問の答えを返すように紙を差し出していた。
紙に書かれた文字を美紅は心の中で読む。内容は家で足りない物を結衣にお願いするようなものだとわかった。
「結衣ちゃん。これって夕飯の材料だったりするのかな?」
「はい。昨日買い忘れた物とかを頼まれて……」
まだ時間的にも余裕があった。
結衣が寄り道をすることを母親は想定したのだろうか。美紅は紙を結衣に返して、決めたことを口にする。
「お買い物。一緒に行こうか?」
「いいんですか?」
ずっと、おどおどしていた結衣の表情は一気に明るくなった。それが喜びの顔であることがわかった美紅はつられて、少しだけ素直に笑えた。
「私も同じ場所に行くからね」
美紅は手を差し伸べる。
「手、繋ごうか?」
「お願いします……」
その手を結衣が握り返す。
二人の手が繋がれて、歩き出した。
公園から出て、二人で向かうのは近所のスーパーだった。そこに向かう為にはいくつか信号を渡る必要があり、美紅は結衣の安全の為に手を繋ぐことを選んだ。
「あの、先生って……妹がいたりしますか?」
結衣の質問で
「どうして、そう思ったの?」
「私に合わせて歩いてくれてますから……」
美紅は自然と結衣の歩幅を合わせていた。
「私はただ、結衣ちゃんのことをよく見てるだけだよ」
その言葉で結衣が顔を逸らした。少し結衣の顔が赤くなっているように見えたから、余計なことを口にしたと美紅は反省する。
話しながら歩いていると、目的のスーパーが近づいてくる。時々足を運ぶ場所で、美紅も見慣れていた。
「あら?結衣ちゃん?」
その声は美紅ではなかった。
前から歩いてきた女性が結衣に声をかける。結衣は急な出来事に驚いたのか、美紅の体に身を寄せた。
「えーと……」
結衣が戸惑っていると、女性の視線は美紅に向けられる。女性の警戒と言うよりも疑問を抱くような視線に美紅は笑顔を返した。
「はじめまして。私は結衣さんの家庭教師をしている
家庭教師をしているから、結衣とは無関係な人間ではなかった。それでも手を繋いでいるところを見られたら、変な勘違いをされてしまう可能性もあった。
「あ、あの……」
結衣が前に出たのは誰の為か。
「先生は私のお買い物に一緒について来てくれて……車が危ないから手を繋いでくれてたんです……」
それは美紅が口にしなかったことだ。
結衣の必死な訴えに女性も戸惑っていた。
「ええ、ちゃんとわかってるわ」
そんな言葉を口にして、女性は焦るように立ち去った。無垢な結衣の言葉を向けられて、責められたと感じたのだろうか。
「結衣ちゃん、今の人は知り合いの方?」
「お隣の……」
美紅は今の対応が失敗したと思った。
自分ではなく、結衣の家族が責められるような結果になっていけない。近所付き合いの難しさはよく知ってるつもりだった。
ただ、もうどうすることも出来なかった。結衣の純粋な気持ちが相手に伝わったのなら、悪いことにはならないと美紅は思っていた。
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