第2話。美紅と晴久
次の日。
「今日もよろしくお願いします」
玄関の呼び鈴を鳴らすと、扉を開けてくれた女性は生徒の母親だった。いつも最初に挨拶をするのは彼女なりの礼儀作法なのかと勘違いしてしまいそうになる。
女性は生徒の部屋の前まで美紅を案内をする。ここに足を運んだのは今回が初めてではなかったけど、余計な部屋に入らないようにと。そんな意志を彼女から感じた。
「
扉に声をかけ、彼女は離れて行った。そうしないと扉の向こうにいる人間が出てこないことを彼女は知っている。
「こんにちは。
「ど、どうも……」
開かれた扉から姿を見せたのは東雲晴久。彼は美紅が受け持つ二人目の生徒であり、高校生二年生の男子。下がった視線が彼の性格を表すように、お世話でも明るい性格とは言えなかった。
「……」
晴久の部屋。扉が閉じると、先程まで言葉を発することを躊躇っていた晴久が何かを言いたそうな顔をする。
それに気づかないフリをして、美紅は仕事の準備を始める。でも、それも無駄なことだった。
「
「勉強の話ですか?」
「勉強というか、個人的なことだけど……」
美紅は思わずため息を吐きそうになった。
「それじゃあ、話してください」
勉強に集中してもらう為にも話は先に済ませておきたかった。美紅は少しだけ、晴久に耳を傾けることにした。
「今日、久しぶりに学校に行ったんだ」
晴久は高校生であっても不登校気味だった。本人いわく、学校に馴染めないのが原因であり、家庭教師が必要になったのは遅れている勉強に追いつく為だった。
「それは素晴らしいですね」
美紅は出来るかぎり作った表情で心にも無いことを口にする。確かに不登校になっている人間が学校に通うというのは、大きな前進であるけれど。褒められるほどのことなのかと聞かれたら、美紅は疑問を抱いてしまう。
他の人間は当たり前のようにやっている。努力をしている人間を知っているからこそ、晴久の行動を美紅は心の底から褒めることが出来なかった。
「俺が学校に行けたのは陽咲先生のおかげだと思う……」
何かアドバイスをしたわけじゃない。美紅が晴久に与えた言葉は勉強に集中してもらう為に必要だったもの。
「私は勉強を教えただけですよ」
「でも、陽咲先生には感謝してて……」
感謝は行動で示してほしい。その言葉に価値を与えるのは、勉強の成果だと美紅は思った。カウンセラーでもない人間には晴久の行動は正しく評価出来ない。
家庭教師とカウセラーはまったく違う。どれだけ相手の事情を知ることになっても。悩みを解決することは出来ない。
仕事ではないから。そんな単純な理由以上に無知である人間が他人の心に手を出しては駄目だと美紅は考えている。
「理解しました。では、授業を始めましょうか」
準備をしようとした時、美紅の腕が掴まれた。
「……っ」
思わず、美紅は感情を顔に出してしまいそうになった。けれど、この程度で動揺していたら、家庭教師なんて続けられない。
「陽咲先生にはずっと家庭教師を続けてほしい」
この関係に永遠はない。結果が出せなければクビにもなる。その事実に目を向けることが出来ないのは晴久が現実から逃げているせいだと美紅は思った。
「でしたら、東雲さんには勉強を頑張っていただかないと。私が無能で使えないと、依頼主様に判断されかねませんよ」
「わ、わかった」
そこまで言って、ようやく仕事が始められる。
晴久は最低限の勉強なら出来る。もし、毎日学校に通っていたら、授業の内容が理解出来ない。なんて状況に陥っていなかったかもしれない。
「陽咲先生」
「どうしましたか?」
勉強の途中で晴久に声をかけられた。
「来週、テストがあるっぽくて……」
それは先に言ってほしかった。勉強の成果がわかりやすく反映されるのは試験の結果。ただ、勉強をするよりもテストの範囲を考えて勉強した方が少しは成績を伸ばせる。
「テストがある日は登校出来そうですか?」
「たぶん……」
体調不良で休んでくれた方が、結果も曖昧に出来る。美紅にとってどちらが都合がいいのか。そんなの晴久にはわかるわけがなかった。
「でしたら、テスト範囲を予想して勉強しましょう」
せめて平均点は越えてもらわないと、家庭教師の意味がなくなる。雇い主の立場を考えば、適当な仕事をするわけにもいなかった。
「陽咲先生。もし、テストでいい点をとったら、ご褒美的なものが欲しくて……」
それは親に頼むべきものだと考えながらも、目標があるのはいいことだと美紅は思った。しかし、家庭教師である以上、与えられるモノには限りがあった。
「テストの結果次第で。可能な範囲で私が出来ることをしてもいいですよ。ああ、でも。今、何をしてほしいか言ってください」
「い、今?」
「出来ないことを期待させることはしたくありませんから」
晴久が悩み始めた。その間に美紅はあらためて勉強の範囲を考え直すことにした。晴久の学力なら多少、範囲を広げても問題はないと考えながらも出来るだけ絞ることにした。
「ご褒美は何か欲しい」
「何かというのは?」
「何か記念になるものを……」
それを指定して欲しかった。美紅は不満を口にはせず、晴久の要求を受け入れることにした。安物なら金銭的な問題もないけど、買いに行く必要があった。
美紅は憂鬱な気分を押し込み、仕事に集中することにした。
「美紅。こんなところで寝るなよ」
「ねぇ、雨音ちゃん」
「どうした?」
美紅の視界に雨音の顔が映る。
「抱きしめさせて」
雨音に向かって、腕を伸ばしてみる。
「好きにすればいいだろ」
美紅は雨音の体を抱きしめる。暖かくて、いい匂いのする雨音。美紅は幸せを感じながらも、自分の行為に呆れてしまっていた。
「なんかあったのか?」
「何もないなら、こんなことしないよ」
「なら、いい」
雨音は他人を受け入れたりはしない。美紅は雨音に利用される立場だと理解しながら、自分も雨音の存在を求めてしまった。
「ごめんね」
「謝らなくていい」
程よいところで、雨音の体を離した。あまり構い過ぎて、嫌われたくないと美紅は思った。それでも最初に感じていた憂鬱な気分が少しだけ小さくなっていた。
「じゃあ、ご飯の用意するね」
悩んでいても現実は変わらない。
それなら、立ち止まるだけの理由にもならなかった。
「雨音ちゃん?」
キッチンに立ったところで隣に雨音が来た。
「怪我しそうだから、手伝う」
「そんな危なっかしいく見えた?」
「いつもなら、私に甘えたりしないだろ」
そんなことはないと美紅は思った。
「あと、美紅には聞きたいこともあるからな」
「聞きたいこと?」
ご飯を作りながら、雨音と話すことにした。
「今日、誰か来なかったか?」
「来てないと思うけど。仕事中ならわからない」
「そうか。もしかしたら、私の姉を名乗る不審者が来るかもしれないから。無視してくれ」
雨音の姉。何度か話に出たことがあったけど、実際に顔を合わせたことはない。
「私、雨音ちゃんの家族に家の場所教えたりしてないと思うけど」
「アイツなら自力でも辿り着く可能性がある。最近、この辺をうろついてるのを見かけたからな」
それで雨音は警戒してるのだろうか。二人の関係が良好でないのなら、雨音の言葉を否定する理由はなかった。
「何か特徴はないの?」
「私とよく似てる」
「じゃあ、可愛いの?」
「ああ。私の何倍も可愛い」
雨音はこういうところで照れたりしない。よほど自分に自信があるのか。それとも、生まれ育った環境がそうさせたのか。
「とにかく気をつけてくれ」
美紅は何があっても、雨音の味方するつもりだった。例え、雨音の家族が雨音を連れ戻しに来たとしても、美紅は雨音を手放すつもりはなかった。
今、雨音の失って平気でいられるほど、美紅は自分の心に余裕が無いことを理解していた。
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