背徳症状-結衣の教師-

アトナナクマ

第1話。美紅と結衣

雨音あまねちゃん。おはよう」


 朝の時間。陽咲ようさき 美紅みくは椅子に座っていた制服姿の陽咲雨音に声をかける。そのまま体を動かして、雨音の無防備な背中に抱きついたのは、失われつつある体の熱を取り戻す為だった。


「おはよう」


 周りの人は雨音のことを無愛想だという。それは彼女自身、理解をしているのか。取り繕うつもりはないようだった。


「すぐに朝ごはんの用意するからね」


 いつもと同じ朝。だというのに美紅の心は昨日よりも少しだけ浮ついていた。胸いっぱいの幸せな気持ちを頑張って抑えながら、二人分の朝食の準備を済ませた。


「なんかいいことでもあったのか?」


 食事の途中に雨音が声をかけてきた。


「んーどうだろうね」


 大切な家族の雨音に美紅は隠し事をするつもりはなかった。それでも、質問の答えをはぐらかしたのは自分でも何が幸せなのかわかっていないから。


「そんなに教師の仕事が楽しいのか」


 雨音が呆れたように言葉を口にする。


「教師っていうか、家庭教師だけどね」


「どっちも同じだろ」


 高校生の雨音が教師に対して、あまり良いイメージを持てないことは理解出来る。だから、雨音の考え方を正すような無粋なことを美紅はしなかった。


「ごちそうさま」


 先に食べ終わった雨音がお皿を片付ける。


「もう行くの?」


「今日は朝練があるからな。あと、部活で遅くなる時は連絡する」


 もうすぐバスケの大会があると聞いていた。バスケ部のエースでもある雨音はみんなから期待されていて、それに応えるように練習も頑張っている。


「やっぱり、お弁当作った方がいい?」


 同じ質問を少し前にもしたことがあった。


「それだと美紅が大変だろ」


「ちょっと早起きすることにはなるかな」


「だったら、必要ない」


 雨音が隣の椅子に置かれていた鞄を肩にかけながら答えた。それは遠慮しているというよりも、めんどくさいから断ったように見えた。


 少し前まで独身だった美紅が雨音と二人で暮らし始めたのは一ヶ月前のこと。親戚同士ということで遠慮するような関係ではないにしても、ある程度の距離を保っていた。


「それじゃあ、行ってきます」


 玄関まで雨音を見送った後、扉の閉まる音と共に一人になった美紅は少しだけ寂しさを感じていた。


「やっぱり、遠慮しちゃうよね……」


 美紅は自分が雨音の母親にはなれないと理解していた。求められていないのに母親の代わりになろうなんて、それはとても愚かで、相手の気持ちも考えられない身勝手なことだと。美紅は自分に言い聞かせて、部屋に戻ることにした。




 美紅が家庭教師の仕事を初めたのは何年も前のことだった。


 元々、教師の資格を持っていた美紅が家庭教師の仕事を受けることに抵抗はなかった。それでも初めは仕事としてではなく、学校に通いたくても通えない子供の為に勉強を教えたのが、家庭教師になるキッカケだった。


 だからこそ、家庭教師の仕事には真面目に向き合ってきたつもりだった。でも、一部の人間から心無い言葉を突きつけられることもあって、美紅は家庭教師の仕事を続けるか迷う時もあった。


「こんにちは。結衣ゆいちゃん」


 そんな人生の中で、美紅は運命と出逢った。


「こ、こんにちは……」


 鹿倉しかくら 結衣。触れたら簡単に壊れてしまいそうな体とおどおどした声。その二つが合わさって小動物的な愛らしさを持つ少女は美紅が受け持っている生徒の一人だった。


「まだ、わたしのことが怖いかな?」


「先生は怖くないです……」


 美紅が結衣の家庭教師として仕事をするのはこれで三回目だった。一回目は軽い顔合わせ程度。二回目からは結衣が落ち着いて勉強が出来るように最初にリラックスさせることにした。


「今日、学校はどうだったかな?」


「楽しかった……です……」


「うんうん。それならよかった」


 美紅は逸る気持ちを抑えながら、そっと差し出した右手で結衣の小さな頭を撫でた。もし、結衣が少しでも嫌がった顔をしたら、すぐにでも手を離すつもりだった。


 けれど、それは美紅の杞憂だったようで。結衣の柔らかな笑顔を見て、自分の行動が間違っていないことに安堵する。


 高校生の雨音と比べても、結衣はまだまだ全然子供だった。後、数年もすれば中学生になるけど、子供のうちは元気に過ごすことが一番だと美紅は考えていた。


「結衣ちゃん。もうお勉強始める?」


「あ……」


 結衣の顔から明るさが消えた。その顔を見て、少しいじわるな質問をしたと美紅は思ってしまった。


「それじゃあ。もう少しだけ、お話しようか」


 結衣に家庭教師を付けたのは母親の方だと、美紅は聞いている。それが大切な娘を想う親心だとしても。まだ幼い結衣からすれば、単純に勉強の時間が増えたように感じてしまうと美紅は思った。


 今、将来の話をしても結衣がすべてを理解してくれるとは美紅も思っていない。それでも勉強をすることをやめてしまえば、誰の為にもならないとわかっている。


「えーと……」


 必死に何か言葉を口しようとする結衣をずっと眺めていたいという気持ちもありながら、美紅は助け舟を出すことにした。


「結衣ちゃんの学校では何が流行ってるのかな?」


「流行り……」


 何か思い浮かんだのか、結衣の顔が赤くなった。


「あれ、なんか変なこと聞いちゃったかな?」


「ち、違います……」


 結衣が何を考えたのか想像もつかないけど、子供の間で何が流行っているのか美紅は純粋に興味があった。


 美紅は結衣の心を開く為にも、結衣の手を握って出来るかぎりの笑顔を作った。すると、ますます結衣の顔が赤くなったように見えた。


「結衣ちゃん。顔がタコさんみたいに真っ赤になってる」


「だって、先生が……」


「ごめんね。嫌だったよね」


 美紅がゆっくりと手を離すと、すぐに結衣が握り返してきた。両手で必死に掴む姿を見て、美紅は余計に笑顔になってしまう。


「全然……嫌じゃないです……」


 このまま続けてもいいと美紅は思った。けど、結衣が茹で上がってしまう前に手を離すことにした。


 だけど、一度繋がれた手が離れれば、結衣が凄く残念そうな顔をする。それを見て、美紅はズルいことを考えた。


「結衣ちゃん。もっと、わたしと手を繋ぎたい?」


「先生が……嫌じゃないなら……」


「それじゃあ、今日のお勉強を頑張ろうね」


 美紅は家庭教師の仕事を投げ出すつもりはなかった。結衣をやる気にさせてから、勉強を始めさせる。そうすれば苦手な勉強でも続けられるから。


「先生、これで合ってますか……?」


「えーと、それはね……」


 結衣に勉強を教えている間、美紅は嫌なことを全部忘れて幸せな気持ちでいられた。それは雨音と一緒に居る時の何倍も幸せで、結衣の代わりなんて存在しない。


「……っ」


 だけど、そんな小さな幸せは長続きしなかった。


 美紅が結衣に勉強を教えている途中で仕事の連絡を受け取った。結衣の集中を切らさないように美紅がこっそり内容を確認すると、明日の昼頃から家庭教師の仕事が入っていた。


 その相手は美紅が受け持つ二人目の生徒。結衣の家庭教師を初めてから半年後に新しく受けるようになった仕事だった。


「先生?どうしました?」


「ううん。なんでもないよ」


 今は結衣の勉強を優先して、仕事のことは考えないようにした。そうでないと美紅は自分の心が少しづつ崩れていくような感覚があったから。


 家庭教師の仕事を始めたのは自分の意思だ。それでも、すべての仕事を受け入れられるかは別の問題だった。


 もし、それは自分の覚悟が足りないだけだというのなら、美紅は世の中が理不尽だと考えた。幸せになる為には不幸になる必要があるなんて、とても理解が出来なかったから。

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