第四十三話 月下に語らう

 開け放った引き戸の向こうに、欠けた月がぽっかりと浮いていた。

 長屋の中からぼうっと星空を見上げるのは、真也だ。畳の端に腰をかけ、土間に足を投げ出している。彼は片手に持ったさかずきを口元に持っていって、ひと息に煽った。


「月を見ながら飲むお酒っていいよねぇ」


 傍らに置いた徳利を傾けて、盃へとさらに酒を注いだ真也は、ほのかに赤らんだ顔で振り返る。


 彼の視線の先には、寝間着姿の晴時がいた。

 畳の上には布団が敷いてある。明らかに寝ようとしていたところだった。


「自分の長屋でやればいいだろう」

「僕のところからじゃあ、見えるのは向かいの長屋だけなんだよ。ここ、見通しがいいし広いし」


 間宮家本邸の裏手にある祓守師の長屋は、前後に長い家屋が軒を連ねて二列、向かい合うように並んだつくりになっている。それだけで町の一角と思えるような規模だ。

 晴時がここで暮らすと決めてからは、彼のために長屋が一軒だけ追加された。最も上座の、二列の長屋が奥まで見通せる位置だ。扉を開けたときに邪魔をするものがないので、今宵のように月がよく見える日がある。

 真也はそれを気に入って、こうして酒を持ち込んだわけだった。


 晴時からすれば迷惑千万である。


「晴時も一緒に呑まない?」

「勝手にやってろ」


 帰れと再三言ったのだが、根が生えたように座ったままなので、晴時はとうとう諦めた。真也が言い出したらきかない人間だということは充分に思い知っている。


 外から堂々と吹き込んでくる夜風が気味悪かった。

 特別寒いと思うほどではないが、湯浴みをしたあとの肌には毒だ。晴時は羽織を引っ張り出してきて肩にかけた。


「……話はさっさと済ませろ。何か言いたいことがあるんだろう」

「あれ、どうしてわかるの」


 真也が目を丸くする。反対に、晴時は目を細めて眉間にシワを寄せた。


「白々しい。月を愛でながら酒が飲みたいなら、月が満ちているころに来るだろう」


 満月のときには一切声をかけてこなかったのに、わざわざ月が欠けた日を選び、月見酒だと押し入ってくるとは、不自然にもほどがある。


「思いついたのがたまたま今夜だったんだ」

御託ごたくはいい。志乃の話か?」

「なんだ、わかってるじゃないか」


 真也が盃を置いた。体を回して、開け放った引き戸にもその向こうの月にも背を見せる。


「また、志乃ちゃんに何も言わずに出ていくつもりかい?」


 彼の目が向いたのは、部屋の隅にまとめられている荷だ。旅装束も畳んで傍らに置いてある。きちんとした旅支度だった。

 晴時が本邸を長く離れる気でいることは明白である。


「いっそ、志乃ちゃんも連れていったほうがいいんじゃないかって、僕は思ってるんだけど」


 真也の視線が晴時へと移る。


「……詠月様にも同じことを言われた」


 晴時は苦々しい顔で言葉をこぼした。


 晴時が詠月に、しばらくの暇を乞うたのは、志乃が神力に抵抗して倒れた直後のことだ。

 御神体にふさわしい品を融通してもらうためには、母親に会いに行かねばならない。しかし、彼女のもとへ行くには、祓守師の任務で行って帰ってくるような数日の旅ではとうてい足りない。間宮家の蔵を漁るなんて迂遠な方法を取って、一度志乃を危険な目に遭わせてしまった以上、今度こそ早急に行動するべきだ……とは、晴時も固く決意したことだ。


 それで晴時は、思い立ったが吉日とばかりに、詠月のもとへと提案に行ったのである。


 志乃のことはすずや詠月、羽麻子に任せておけばいい。晴時は病人の世話などはさっぱりだから、傍にいる必要はないだろう。晴時にできるのは、一刻も早く御神体を用意することである。

 だから最初は、暇を取りつけた翌日に出立するつもりだった。手早く支度を済ませて、任務に赴くような気安さで、詠月にだけ断って出ていこうと思っていた。


 しかし意思に反して、晴時の腰はどこまでも重く、いくら叱咤しても動こうとしない。


 そのときはまだ意識を失ったままだった志乃のことが、気がかりだったのである。

 結局、彼女が起きるまではと三日ここに残った。


 彼女が目覚めたと聞いたときは安心したが、様子を聞けば、寝込んでいたせいで体がすっかり弱っているという。そうすると、今度はきちんと元気になるかが気になってしまった。羽麻子が毎日面倒を見にいっているらしいと聞いて、問題ないとはわかっていた。わかっていても、晴時の足は門を超えてくれなかった。


 己の判断が後に響かなければいいと祈りつつ、出立をさらに一週間遅らせた。

 このときの晴時の判断は、ある意味正解だったといえる。


 晴時は深いため息をついた。今朝がた聞いた志乃と篤保の話を思いだすと、頭が鈍い痛みを発するようだった。


「羽麻子殿は、すごい剣幕だったと言っていたな……妙に嬉しそうだったのが気にかかるが……」

「昨日の志乃ちゃん? すごかったらしいね」


 真也がからからと笑った。よほど愉快だったのか、徳利を逆さにして、残っていた酒を一滴残らず盃に空ける。そして惜しむ間もなくひと息に煽った。


「志乃ちゃん、本当に晴時のこと好きだよねえ」

「は?」


 どうしてそうなる、と晴時は唸った。

 剣呑な空気にも微塵も怯むことなく、真也はさらに声を立てる。


「だってさ、あの、誰かに怒鳴ったりするような性質たちじゃないだろ。まだひと月にもならない付き合いだけど……それくらいはわかる」


 たしかに、志乃が他人に激しく反発するところは、晴時も見たことがない。

 強いて言えば初対面のときだろうが、あれは数のうちに入らないだろう。突然見知らぬ者に縄をかけられて、抵抗しないほうがおかしい。


(いやなものを思いだしてしまった)


 晴時の胸に苦いものがこみ上げた。志乃と初めて会ったときの自分の対応は、下策中の下策だった。女子おなごにいきなり縄をかけるなど、平時ではあり得ない対応だ。自分がいかに焦っていたのかがよくわかる。


 とにかく、志乃が声を荒げたのはそれきりだ。

 見ず知らずのひのわのくにに来てしまったと聞いたときも、自分の身に神力が宿ったと聞いたときも、ただ静かに耳を傾けるばかりだった。物置小屋を抜け出したときだって派手に暴れたわけではない。


 志乃の意思表示はいつだって、どこかとぼけたような静かな声とともにある。


「その志乃ちゃんが」


 晴時が呑みこむまで待っていたのか、真也はやや間を空けて口を開いた。


「篤保様に詰め寄って、声を荒げて反論したんだ。晴時の叔父上を怯ませるほどなんて、なかなかじゃない?」

「楽しそうだな」

「楽しいというか、嬉しいんだ」


 真也は徳利を振った。酒はもうない。ちょっと口を尖らせた彼は、徳利も盃も脇に置いて、畳の上に上がってきた。


「晴時の味方がまた増えただろ」

「やめろ」


 晴時は渋面のまま、傍まで這ってきた真也の額をぴしゃりと打った。真也が大袈裟に痛がって、畳に転がる。


「志乃は間宮の問題には関わりのない人間だ。深入りさせるつもりはない。今度の旅に帯同させる気もない」

「詠月様にまで言われたのに?」

「それは……」


 迂闊なことを真也の前で言うのではなかった。晴時は少し前の自分を呪った。

 昨日の騒ぎを詠月から聞いたとき、彼から言われたのだ。


『志乃の身もなかなか厄介なことになってしまいましたね。篤保が黙っているとも思えませんし……』


 前置きをした上で、詠月は晴時の顔色を窺ってきたのである。


『ハル、お母上に会いに行く此度の道に、志乃を同行させてはどうですか。間宮の屋敷に置くよりかは、彼女の身の安全も保障されると思うのですが』


 詠月の言い分は理にかなっているようにも聞こえるが、晴時の此度の旅は、普通とは違う。母親に会いにいくのだから、道中が穏やかであるはずがない。

 晴時が指摘すると、詠月はやや困った様子で、なおも食い下がってきた。


『それもそうですが、ハルが自分の手で志乃を護れるでしょう。彼女を手元に置いておくことで、あなたも安心できるはずでは?』


 これが、今朝の詠月とのやり取りである。


 真也に対して詳しく話して聞かせると、「ほれ見ろ」とつけ上がるのが目に見えている。晴時はむっつりと押し黙り、少し考えてから言葉を選んだ。


「危険な旅路になることは詠月様もわかっていらっしゃる。無理強いはせんだろう。だいいち、想定したものとは逆の効果……志乃をかえって危険にさらす羽目になるやもしれぬ」

「……ま、たしかにね」

「なんだ。言いたいことがあるならはっきりしろ」

「いんや、別に?」


 真也は、楽しそうだった様子とは打って変わって、にやにやといやらしい笑みを浮かべていた。

 今度は晴時が身を乗り出す番だった。酔っぱらいを己の長屋から追いだしてやろうと、胸倉を掴んだときである。


 晴時は、ぴたりと動きを止めた。


「どしたの、晴時」

「しっ、黙れ」


 耳を澄ませる。

 声が聞こえたのである。本邸のほうからだ。


「志乃の悲鳴だ。あれの部屋が騒がしい」


 晴時は、真也の襟からぱっと手を離した。枕元に置いてあった刀を引っ掴んで立ち上がる。


「え、聞こえたの? ここから?」


 真也のすっとぼけた声には答えなかった。

 晴時はただひらりと土間に下り、そのまま長屋から飛びだした。

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