第四十四話 刺客に襲われる

 慣れない悲鳴はどこまで届いただろうか。


 庭園に響いたのは間違いない。本邸の半ばまではいったはずだ。

 ではその先はどうだろう。たとえば、屋敷の裏手に軒を連ねている祓守師の長屋には、きちんと聞こえたのか。


(ハルさんなら……)


 もう一度声を張り上げようとして、志乃は盛大にむせる。同時に、盾にしていた姿見をひっくり返してしまった。


 倒れた姿見の向こうに、派手にやり合う一匹とひとりが映る。


 片方は、護衛として晴時から遣わされた三毛の猫又だ。全身の毛を逆立てて、対峙する人間を威嚇していた。

 もう片方は、見知らぬ人間だった。布を巻いて顔の半分を隠している。細く開いた障子から差しこむ月明かりで、辛うじて男のようだというのがわかるだけだ。


 男は片手に短刀を握っていた。


 刺客である。

 床についている志乃を狙って、忍びこんできたのだ。


 そのとき志乃は、浅い眠りを漂っていやな夢を見ていた。真っ暗な空間に、心臓の音だけが遠く響いている。鼓動は少しずつ近づいてきて、志乃の鼓膜を苛む。身に覚えのある感覚だ。志乃の体の内に巣くう神力が、むくりと身を起こしたときの――。


 志乃はそこで、猫又に叩き起こされたのである。

 忍び寄る神力の気配は、夢などではなかったのだ。志乃が飛び起きたとき、猫又はすでに、牙を剥き出して刺客に跳びかかっていた。


 仕方なく部屋の隅に引っこんで姿見を盾にし、人が来ることを祈って声を上げたのが、先の悲鳴である。


 ぼうっと見ている場合ではない。

 姿見を元どおり立てようとして、志乃は手を伸ばした。


 とたん、背中に冷やりとしたものが走る。


「小癪な真似を!」


 猫又が声を上げると同時、志乃は咄嗟に手を引っこめた。一拍遅れて、手を置いていた場所に何かが刺さる。やや太い針のようなものだ。


 顔を上げれば、猫又が刺客に爪を立てるところだった。

 刺客の顔に巻かれた布の隙間から、短い筒が覗いている。吹き矢だ。


 ぞっとした。


「小娘! きちっと隠れておれ!」


 鋭い爪で刺客を引っかきながら、猫又が志乃を叱咤する。志乃は今度こそ大慌てて姿見を起こし、裏に隠れた。


 ぎゃん、と獣の悲鳴が聞こえたのはそのときだ。

 小さな影が、ぽおんと部屋を横切った。刺客にしがみついていた猫又が、とうとう振り払われたらしい。


 壁に衝突して落ちた猫又は、唸り声を上げて立ち上がる。さすがに体を痛めたのか、畳についた四つ足がふらついていた。

 とても刺客に挑める状態ではない。


 となれば、あとは決まっている。


 姿見の裏から様子を窺っていた志乃の目と、短刀を構え直した刺客の目が、ぴたりと合った。


 志乃の心臓が、ひときわ大きく跳ねる。

 体じゅうの血が沸々と煮立つような不快な感覚。頭が冴え冴えとしていて、明かりのない暗闇にも関わらず、刺客が握った鍛刀の刃文まで見えるような気がした。


 刺客が畳を蹴る。


 差し迫る刃の向こう、月光が降る廊下に、人影が降り立つのが見えた。

 重力に逆らってなびいたのは、長い紫苑の髪である。


「ハルさんっ」


 志乃が上ずった声を出した直後、部屋の外から抜き身の刀が飛来した。

 刺客の背を正確に狙った切っ先は、肉を穿つ寸前で跳ね飛ばされる。刺客が志乃を狙うのをやめ、振り返って短刀を振るったのだ。


「無事か、志乃」


 言いながら、晴時は障子を叩きつけるように開け、部屋に飛び入ってきた。畳を一歩蹴るだけで、端に飛ばされた刀を拾う。また一歩踏みこんで、刺客に斬りかかった。


 狭い室内とは思えぬほど、鮮やかな刀さばきだった。

 天井や床に切っ先を引っかけることもなく、かといって周囲に気を遣っている様子もなく、晴時は大胆に刀を振るっている。


 そうなると、長刀と短刀ではどちらが優勢かなど、わかりきったことだった。


 晴時に相対しながら首を巡らせた刺客は、おそらく逃げ道を探したのだろうが、もはや遅い。すでに壁際に追い詰められている。


 その頃には志乃も、姿見の裏から抜け出して廊下に出ていた。

 うしろをついてよろよろと歩いてきた猫又が、志乃の足元で丸くなる。毛玉の中から「やってられん……」とか細い不満が聞こえた。


 甲高い金属音が響く。

 刺客が握っていた短刀が宙を舞った。


「叔父上も急ぎすぎたな。時間をかければもう少しまともな者を雇えただろうに」


 晴時の嘲笑が、終わりの合図だった。




 刺客は速やかに捕らえられ、屋敷のどこかにあるという牢へ連れて行かれた。


「怪我はないか」


 それを見届けた晴時が、畳の上にどっかりと腰を下ろす。

 ほんのわずかに遅れて、羽織の裾と長い髪が着地した。祓守師の羽織をまとってはいるが、下は寝間着だ。寝ていたのか、あるいは寝るところだったのか。

 とにかく、彼の住まう長屋から駆けつけてくれたことには違いない。


「私は大丈夫ですけど」


 志乃は視線を巡らせた。


 行灯に火が入り、部屋はほんのりと照らされていた。突き立った吹き矢も、荒らされた布団も、今は綺麗に片づけられている。志乃が盾にした姿見を含め、乱れた家具は所定の位置に戻してあった。


 そのうちのひとつ、埴輪が立った文机の下で小さな影が丸くなっている。

 猫又である。


「志乃を護る役目は果たしたようだな」

「壁に衝突してから、なんだか元気がなくて……」


 志乃が呟くと、晴時の片眉がひょいと上がった。

 何をそんなに驚いているのだろう。


「心配しているのか、あれを」

「一応……私のために体を張ってくれたわけですし、見た目が普通の猫だから……」


 もちろん志乃だって、曇りのない心で猫又を案じているわけではない。心配してしまっている自分の気持ちが受け入れられずにいる。

 だからが収まってから、一度も声をかけていなかった。


 礼についてもそうだ。

 助けてくれたお礼を言いたい心と、以前こちらに牙を剥いたのだから贖罪として当然のことだ、礼を言う必要はないと考える心でせめぎ合っている。


「悩みすぎだ、愚か者め」


 晴時に嘆息された。志乃はよほど沈痛な顔をしていたらしい。


「深く考えずともいい」

「でも」

「怪我をしたあれの身を案じるのも、助けられた礼を言うのも、おまえの勝手だ」


 あの猫又に襲われて命を落とした者は、少なくともこの間宮家にはいない。襲われた碧も志乃も、すでに回復している。猫又に対して情が湧いたとしても、気に病む必要はない。


 晴時にしては珍しく優しい言い分だった。

 志乃の迷いは、「考えが甘い」とかなんとか、叱られてもおかしくないはずなのに。


「それでも不安なら、俺が警戒しておく。もとはといえば、おまえに猫又を押しつけたのは俺だ。おまえは気にするな」

「はあ……」


 強烈な違和感に、志乃は生返事しかできなかった。

 晴時も察したのか、心地悪そうに咳払いをする。


 話題が強引に変えられた。


「それにしてもおまえは、自分が襲われたというのにずいぶん落ち着いている。怖くなかったのか」

「……そういえば」


 死ぬかもしれないという恐怖はなかった。体の内の神力は痛いくらいに反応していたし、刃を向けられたときには冷やりとしたが、それだけだ。

 襲撃に遭ったあとの志乃は、人を呼び、身を隠し、状況を見極めるだけの平静を保っていた。


「慣れ、ですかね? 今まで何度も危ない目に遭ったから……」

「俺に聞かれてもわかるわけがないだろうが」


 ばっさり切り落とされた。仕方がないので、もう少し自分の頭で考えてみる。


「ハルさんなら助けにきてくれるって、わかっていたからかもしれないです」

「は?」

「ほら、大蛇の巣に落ちたとき、ハルさんは遠くからでも真也さんの声を聞いてたでしょ? 足もめちゃくちゃ速かったし。だから、私が叫んだら、真っ先に来てくれるんじゃないかって……思って……ですね、その」


 声がどんどん小さくなる。

 志乃の頬には熱が上っていた。とんでもなく恥ずかしいことを言っている気がする。視線も下がってしまって、志乃は最終的に、畳の目を数えていた。


「……そうか」


 晴時の返事は短かった。妙な沈黙がふたりの間に落ちる。

 やや間を空けて響いたのは、やはり、晴時の咳払いだった。ふたたび強引な話題変更がされる。


「……ひとまず、今夜は寝床を移したほうがいいだろう。羽麻子殿の部屋に行くといい。おそらく、今のおまえにとって最も安全な場所だ」


 先ほどの奇妙な間を払拭したくて、志乃もまた、率先して話に乗った。


「羽麻子さんに迷惑がかかりませんか。私、狙われてるんですよね?」

「問題ない」


 いやにきっぱりと言い切る晴時である。当たり前だが、志乃は納得できなかった。

 それは晴時もわかっているようで、彼は改めて口を開く。


「おまえに刺客を差し向けたのは、十中八九、叔父上だろう。あの人の狙いはおまえだけだ。羽麻子殿までもがいる場所で、同じことをするとは思えぬ」


 志乃は間宮家にとって部外者だが、羽麻子は間宮の家に連なる、れっきとした一族の者である。彼女にもしものことがあれば、そしてそれが篤保とくもりの差し金によるものだと判明すれば、詠月はもちろん、羽麻子の実家が丸ごと篤保の敵に回ることになる。

 晴時を廃して詠月を当主の座に置きたい彼にとって、それでは本末転倒である。


「先日の話を聞く限り、羽麻子殿の立場もやや危ういとはいえるが……少なくとも、ひと晩のうちに二度も襲わせたりはしないだろう。叔父上とて、そこまで愚かではないはずだ」


 晴時は、「は、な」と言い足す。篤保がある程度愚かであることは否定しないらしい。


「詠月様が篤保を間宮から放逐する理由を探していたから、その点は都合がいいといえよう。しかし、あまり悠長に構えてはいられない」


 晴時は難しい顔をしていた。


 志乃が篤保との間に問題を起こした翌日、志乃が刺客に襲われた。

 この事実は、間宮家じゅうに知れ渡るだろう。広いとはいえ、同じ屋敷の中だ。隠しとおすことはできない。たとえ証拠が出そろう前でも、「篤保が志乃を狙って刺客を放った」と思われるのは明白だ。


 となると、今度は何が起こるか。


「覚えているか、来客が絶えなかったときのことを」


 言われて志乃は、間宮家に来た当初――連日、すずとともに対応に追われていた日々を思いだす。あれは篤保が率先して禁を破り、志乃を訪問してきたことが発端だった。

 いやな予感が志乃の胸によぎる。


「まさかとは思いますけど……また同じことが起こるってことですか?」

「……否定はできぬ」


 今回来たのは、志乃のご機嫌取りをする客などではない。命を狙ってくる刺客だ。以前の来客騒動のように、篤保のあとに続く者が出るとしたら。


「私、また命を狙われるってことですか……?」

 

 答えはない。晴時はひとつ唸ったきり、黙ってしまった。顔にかかる髪もそのままに、顎に手を当てて、長く長く考え込んでいる。


「ハルさん?」


 たまりかねて、志乃は声をかけた。

 返されたのは、鉛のように重いため息だ。


「……結局、こうするしかないのか」


 晴時が、くっと顔を上げる。

 苗色の瞳が、行灯の明かりを取りこんできらりと輝いた。


「志乃、俺とともに、ここを出る気はないか」

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