第9話
私は、夢を見ている。今の今まで忘れていた、ずっと昔の夢。私がまだ幼い頃、何も知らず、無邪気に笑えていた頃の夢。
そこは、夏の縁側だった。数えるほどしか行ったことのない、父方の祖父母の家。涼やかな山風の吹き抜ける縁側で、私は祖母の膝に甘えている。父母の提案する遊びのどれより、祖母の語る古い話が好きだった。
節くれだったしわくちゃの手が、私の頭を撫でている。祖母の手からはいつも、仄かに酸いような、香ばしいような、なんとも不思議な匂いがした。
祖父は朝早く目を覚まし、父と母に挟まれた私をそっと起こして、外に連れて行ってくれる。私は山や川が好きだったけれど、危ないからと親の目なしには連れて行ってもらえなかった。その代わり、牛におはようの挨拶をして、ひんやりと空気の湿った畦道を歩き、帰り道には大きなトマトをもいでくれた。朝露をはじくトマトに齧りつきながら、朝の野菜は、良い夢を見ているから甘いのだと、しわがれた声で語る祖父の顔を見上げる。祖父の選んだトマトはいつも甘くて、私は幼い頃から野菜が好きだった。
そこは私にとって、柔らかく、温かな場所だった。
東の空に藍が滲み、西の空が燃え上がる。私は、昼と夜との境目を探す。あの燃えるような赤が、どうして青に変わるのか、私は不思議で仕方がなかった。赤。橙。黄。白__そして、夜の藍へ。その間の色を、私は知らない。順に並ぶ色鉛筆を探しても、その色はどこにも無い。
蜩が鳴いている。帰らなきゃいけない。あの冷たい、張りぼての家に……。
◆◇◆◇◆
瞼を透かす鋭い西日に、晶は目を覚ました。眇めつつ、夢も現に瞼を開く。最初に目に入ったのは、コンクリートのタイルだった。
惚けた頭でぼうっと眺める。私は何をしていたのだったか。
不意に冷たい風が吹き抜け、身を縮こめる。意識が覚醒するにつれ、鈍っていた感覚が徐々に輪郭を取り戻してゆく。
寒い。腰が痛い。ここは何処だ。寝返りをうち、仰向けになる。
頭上には、カラスの顔があった。俯きがちに目を瞑り、耳を澄ますと深く穏やかな呼吸が聴こえる。
垂れた髪のひと房が瞼を擽り、晶は目を眇めた。
呆けた頭はどうにも鈍く、眼前の寝顔を眺めながら、ゆるゆると記憶の糸を手繰り寄せる。
ええと、まず__私はいつも通り、カラスと屋上でお弁当を食べていた。
今日の献立は、焼き鮭、だし巻き玉子、ほうれん草のお浸しに、いんげんと厚揚げの煮物。今日は魔法瓶に豚汁まで拵えてきた。
その豚汁がまた具沢山で、器に取るのに苦戦していたのを覚えている。人参、ごぼう、玉ねぎに、里芋。根菜類は身体を温めるとか何とか。里芋がとろとろで美味しかった。
それから、確か__そうだ。食後、カラスに膝枕を提案された。
その素頓狂な誘いは当然断り、私は壁にもたれ、目を瞑った。
そして今、カラスの太ももで目覚めた。
何故。
「……カラス?」
呼びかけてみるも、全く反応がない。よほど深く眠っているらしい。
起きろ起きろと念じながら、その安らかな寝顔をしばし睨む。
一片の曇りもない、大理石の如き滑らかな肌。その無機質なまでの端正は、爪で弾けばかつんと乾いた音を鳴らしそうにさえ思える。
起きないのだから仕方ない。やむを得ず、ゆるりと腕を持ち上げ、宙空をすこし彷徨ってから__指先で、頬をつついてみた。
果たして触れた指先は、吸い付くようにその真白い頬へと沈み込む。
__もちもちだ!
予想外の感触に、瞬く間に目が覚める。
そうっと指を離せば、寸分違わず元通り。もう一度、今度は指の背で、確かめるようにそっと撫でる。
乾燥気になるこの季節に、潤いたっぷりしっとりもちもち。それでいて撫でる指に抵抗は一切なく、さらさらと心地よく滑ってゆく。そのキメ細やかさたるや、シルクなどてんで目じゃないだろう。
目元を指先が掠めると、カラスは小さく呻き、瞼を震わせた。
慌てて手を引っ込め、緊張しながらカラスの様子を伺う。
晶の脳裏に思い出されたのは、幼い頃の情景であった。
白熱灯の下、真白いバスタオルに包まれた卵。つぶさに見つめる視線の先で、ひとつがひび割れ、微かに揺れる。少しづつ、少しづつヒビを拡げたかと思えば、突然動かなくなる。
助けようと手を伸ばした晶の手を、祖父が窘め、首を振った。
カラスはやおら瞼を開き、しばし私と見つめあってから、ゆったりと頭を巡らした。
ぽやぽやと力の抜けた表情で夕日を眺め、艶やかな欠伸をする。目尻に薄く涙が浮かび、潤んだ眸に夕日が煌めく。
それから再び私に視線を落とし、
「……ね、よく眠れたでしょう?」
そう言って、カラスは蕩けるように微笑んだ。
「……なんで、膝枕されてるわけ?」
「佐伯さんが、自分から倒れ込んできたのよ。」
「本当に?」
「本当よ。」
半分は。
曖昧に付け足したその一言を、晶は聞き逃さなかった。半分ってなんだ、半分って。
溜息をつき、西日から逃れるように、手の甲を額に載せる。指の隙間越しに見るカラスは、何だかいたくご機嫌に見えて__寝起きが良くて何よりだ。もはや怒るのも馬鹿らしい。
「……授業、寝過ごしたんだけど。」
「あら、奇遇……。」
「……。」
のっそりと身体を起こす。硬い床に横たわっていたせいで、すっかり錆び付いてしまった。冷え切った身体の内側を、鉛のように重たい倦怠感が満たしている。
十一月の屋外で爆睡とは、我ながら大したものである。私はいつか、どこぞで気ままに眠っているうち、そのままポックリ死ぬのかもしれない。酔生夢死。それも悪くはないだろう。
「髪、潰れてる……。」
カラスのおもむろに伸ばした手を、濡れ犬よろしく思い切り頭を振って拒否する。
余韻で流れる視界もそのまま、晶はよろめきながら立ち上がった。よたよたと千鳥足で扉を目指し、続く気配がないことに気付いて、振り返る。カラスはその場に座り込んだままで居る。
「何やってんの。閉じ込められるよ。」
「立てない……。」
「はあ?」
初めはまた揶揄われているのかと思ったが、しかしどうにも様子が違う。晶は呆れを隠そうともせず、つっけんどんに問い掛けた。
「なに、今度はどうしたっての。」
「……足が、痺れて……。」
真っ先に頭をよぎったのは、「置いて帰ろう」だった。
刹那と言うにはあまりに長い逡巡の後、渋々カラスの傍に戻る。つくづく私は学習しない。
しかしまあ、不可抗力とはいえ、原因は数時間にわたる膝枕と言うことになるのだろう。
「ほら、頑張って。」
手を差し出す。カラスは何度か私の手と顔とを見比べて、露骨に表情を伺いながら、おずおずその手を取った。
その瑞々しい頬とは対照的に、カラスの手はやや荒れていた。
乾燥気味の皮膚は固く、節々にはあかぎれの跡。指先は冷たく、爪は短く切り揃えられている。
私は、この手を知っている。
その仄赤く染まったこぶしを、親指の腹でそっと撫でる。
「……寒くなると、荒れちゃって……。」
カラスは恥じらうように目を伏せって、腕を引っ込めようとする。晶は考えるより先に、その手をしかと捕まえていた。
「佐伯さん……?」
晶は、ゆっくりと椿に顔を向けた。眉根を寄せて目を細め、唇を固く引き結び__強ばったその表情は、怒っているようにも、今にも泣き出しそうにも見えた。
「……アンタさ。」
吐かれたきり融けてしまうような、輪郭のない言葉。椿は見えもせぬ言葉を見逃さぬよう、晶の口許をつぶさに見詰めた。
「……私のあたま、撫でた?」
佐伯さんの、頭を、撫でたか。
撫でた。
「……起きてたの?」
沈黙。
力が緩み、手が解放される。晶は項垂れ、深く息を吐いた。それから椿に背中を向けて、すとんとその場にしゃがみ込む。
怒っているのだと、椿は思った。私たちは、「そういう仲」ではないのだ。
「……おんぶ。立てないんでしょ。」
その投げやりな声音は、微かに湿り気を帯びていた。
椿には、何が何やら分からない。分からぬまま、椿はおずおず、晶の肩に手を置いた。厚手の生地越しにも、細く、やや骨ばった華奢な感触を感じる。
「……いい、の?」
返事は無い。それは椿にとって、十分すぎる受容であった。
そっと首に腕を回し、静かに身体の重みを委ねる。その背中の小さく、薄いこと。なんて健気で、心許ないのだろう__椿は、耐え難い愛おしさに胸を潰した。
晶は、背にのしかかる質量の柔さに面食らった。その長髪が、肩口を流れるように垂れ落ちる。匂いが、体温が、境界を失い、混ざり合う。パーソナルスペースなどあったものじゃ無い。早鐘を打つ心臓を抑え、その太腿に手を添える。
指先が沈み込む感触に、じわりと熱を帯びるのが自分でわかった。
晶は、ぐっと脚に力を込めた。
「おッ__」
重い、と口走りかけ、歯を食い縛って噛み潰す。
「__しゃ、いくぞ……!」
よもや、日々の階段昇降の成果が活きる日が来るとは。
椿が背中越しに手を伸ばし、ドアノブを捻る。灯りひとつなく、冷たく沈んだ踊り場。埃の匂いに混じって、嗅ぎ慣れぬ烟った匂いが鼻を掠める。脳裏を過ったのは、いつも混雑している駅の喫煙所。タバコの匂いだ。
「大丈夫。知ってるひとだから……。」
椿は心を読んだかのように、耳元で囁いた。吐息のこそばゆさに、思わず目を眇める。
「なあに、アンタ、やっぱり不良なの?」
片足ずつ階段を降りながら、問いかける。
「不良……。」
椿は少し悩んでから、また耳元に口を寄せ、吐息たっぷりに小声で囁いた。
「……あのひとは、悪いひとでは無いと思う。私は少し、苦手だけれど……。」
背筋を舐め上げるような悪寒。身体が強張り、呻くような声が漏れる。危うくバランスを崩しかけた。
「ねえ。やめて、それッ。」
「なに……?」
「だからぁ!」
結局、これ以上は危険と判断し、晶はそれきり口を閉ざした。椿も口を開くことはなく、その肩口に顔を埋め、ただじっと目を細めていた。
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