第6話

 二組のカラスを泣かせた。

 噂は瞬く間に広まり、今頃は尾鰭に背鰭がついて泳ぎ回っていることだろう。実際、あの後教師に呼び出されたし。のらりくらりと躱したけれど、目は付けられてしまったはずだ。

 何にせよ、築かれつつあった私の立ち位置は、今回の件ですっかり破壊されてしまったらしい。

 朝イチ、教室へ入った時の雰囲気で、嫌でも実感させられた。

 積極性はないけれど、足を引っ張ることもなく、誰かと揉めることも無い。誰からの誘いにも首を振らず、誰の悪口にも頷かない。

 消極的な八方美人。どこの陸にも接しない浮島。それが私だった。

 派閥に引き込もうという女子特有の動きもようやく無くなり、安寧が実現されつつあったのに。

 __そして、彼女が私に齎した禍いを知ってか知らずか、カラスはその日も教室を訪れた。

 昼休み、私はいつも通り机に突っ伏していた。普段はろくに話さない隣の生徒が、小声で「字平さん、来たよ」などと耳打ちしてくる。

「佐伯さん、呼んでくれる?」

「でも……。」

 教室が静まり返っているせいで、離れた会話も丸聞こえだ。話しかけられているのは、昨日も席に呼びに来たヒヨコちゃん。字平はなおも食い下がり、ヒヨコちゃんは言葉に詰まる。

「__字平さあ。」

 荒っぽい声が響き、教室の空気が張り詰める。声の主は、熱血チワワだ。

パシんの、止めてくんないかな。友達なら自分で呼べば?」

「カホちゃん、大丈夫だから。起こしちゃうの悪いかなって思っただけ。ごめんね、今呼んでくるから……。」

 ぱたぱたと、まめまめしい足音が近付いてくる。

「……佐伯さん、どうする?断る?」

 顔を寄せ、囁く。狸寝入りが当然の如く看破されているのは良いとして、その提案は意外だった。

「……行くわ。ごめんね……。」

 教室中の視線を一身に受け、字平の元へ。

 通り際、チワワと牛へ顔を向ける。

「お昼、邪魔してごめんね。」

「……別に。」

 チワワはバツが悪そうに顔を背け、牛の方は黙ってスマホをいじっている。瓶底メガネの向こうで黒目が動き、一瞬、目が合った。

「佐伯さん、あのね……。」

 話は聞かず、黙ったまま肩を掴み、ぐりんと後ろを向かせた。そのまま押して教室を離れる。

「屋上まで行くの、しんどいんだけど。」

「別に、屋上じゃなくってもいいのよ。中庭のベンチなんてどう?陽も当たって暖かいわ……。」

「勘弁してよ、あんな人目に付くところ。」

「じゃあ__体育館裏とか?」

 余計に変な噂が立ちそうだ。考えるだけで嫌になる。

 して。例によって屋上扉の踊り場までカラスを運び、向き直る。

「で、今日は何?昨日の話、忘れたの?」

「もちろん覚えてるわ。だから、今日は佐伯さんの分もお弁当作ってきたの。」

 そう言って、カラスは自分のものよりひと回り大きな包みを私に差し出した。

 頭の中が疑問符で埋め尽くされる。『だから』で一体何が起こってしまったのだろう。私が何か間違えているのだろうか。

「……えっと、昨日の話は覚えてるんだよね?」

「覚えてるってば。」

 カラスは、心外だと言うように眉根を寄せた。

「ちゃんと卵焼きも入れたわ。他にも、得意なのを色々詰めたの。」

 昨日の会話を要約するとしたら、そこは真っ先に削る部分だろう。コイツは成績も良いはずではなかったか。

「……他には?」

「他?……ええと、ご飯には興味が無くって、寝るのが好き。私のことは嫌い。座右の銘は平穏無事。」

 だいぶ脚色はされているけれど、大筋は合っている。そこから何がどうなって、弁当を拵えてくるという話になるのか。

「栄養が偏ってるんじゃないかと思って、献立も工夫したのよ。普段は余り物なんかも詰めちゃうんだけど、折角だから。丹精込めて作ったわ。夜から仕込んで、早起きして……。」

 言いつつ、カラスは再び差し出した。

 分かれ道に立っている。もうひと息だと思った。

 ここで突き放さなければ、これまでの頑なの全てが無駄になる。何が起こるかわからない、目まぐるしい変化の日々が始まってしまう。

 しかし、次いだ字平の言葉は、身構えていた筈の私を後頭部から見事に撃ち抜いた。

「__だからね、このお弁当、捨てて。」

「……は?」

 理解が追いつかず、思考が停止する。夜から仕込み、早起きして、丹精込めて作ったの。『だから』__捨てて?

「私の目の前で捨てて。包みを解いて、確かめて、この場で床に引っくり返して。掃除は私がしておくから。そうしたら、私は二度とあなたの前に現れない。」

「……んで、そんなこと……。」

「そうでもしなきゃ、あなたを諦めきれないから。だから__ね?」

 コイツの『だから』は、すごく嫌だ。押し付けるように差し出され、ついに弁当を受け取ってしまう。

 カラスは、そのしなやかな指先で、私の手にある弁当の包みを解いた。

「ほら、美味しそう……。」

 丹精込めてと言うだけあって、品数が多く、彩りもあり、手の込んでいるのがひと目でわかる。カラスはそのひとつひとつを指さし、説明を始めた。

「この煮物はね、昨日作って、染ませておいたの。こっちのお浸しにも、同じお出汁を使ってるのよ。出汁調味料も試してみたんだけど、やっぱり自分で引いた方が美味しいから。こっちのきんぴらはね、妹たちの好物だからよく作るの。ちょっとピリ辛だけれど、平気かしら。近頃は冷えるから、根菜類をたっぷり使って__ああ、でも、捨てられちゃうんだった。」

 心臓が重たく鼓動し、呼吸が浅くなる。口の中がひどく乾いていた。

「ほら、美味しいって言ってくれた出汁巻き。今日は上手く焼けたの。」

 視界が回るような感覚。腹にぽっかりと虚が開き、血の気が引いて、指先から冷えてくる。

 __さあ、遠慮しないで、捨てて頂戴……。

 字平の声がやけに遠い。ぐわんぐわんと頭が揺れる。そして__ぷつんと、何かが切れた。

 階段に腰を下ろし、息を吐く。

 膝の上に、弁当があった。

 見たこともないような、手の込んだ弁当。

 私のために拵えたという、弁当が。

「……箸、ちょうだい。」

 立ったままのカラスを見上げる。戸惑ったように私を見ていたカラスは、箸入れが自分の手に握られている事に気付くと、慌ててそれを差し出した。

 箸を手に取り、「いただきます」と口の中で呟く。胸のうちが靄がかるような感覚。この言葉に意味などない。単なる習慣だ。歯車が狂い始めている。

 ほうれん草のお浸しをつまむ。

 ちょっぴりまぶされた鰹節がいじらしい。茹で加減も、程よく食感が残り絶妙だ。華やかな出汁の香りも、限りなく近しいものは知っているのに、全く異なるものに思える。

 次いで、煮物に手をつける。人参、ごぼう、蓮根に、鶏肉。

 人参は煮崩れていないのが不思議なほど柔らかく、コンポートのように甘い。舌に残るいやらしさはなく、人参本来の甘みなのだと分かる。

 小さく切られた鶏肉も、むね肉なのにしっとりと柔らかい。全体に優しい味わいだけれど、しっかり味が染みて、物足りなさは欠片も感じない。

 ごぼうはほくほく。蓮根はしゃきしゃき。食感の違いがまた楽しい。心做しか、風味も少しずつ違う気がする……。

「佐伯さん……?」

「見んな。」

 カラスは、いつの間にか隣に座っていた。顔を覗き込もうとするのを、肘で押し退ける。

「口に合わなければ、食べなくても……。」

「見ないでってば。」

 私は今、どんな顔をしているのだろう。

 自分だってわからないのだ。名状しがたい何かが込み上げ、今にも破裂しそうに苦しい。

 カラスはしばらくおろおろしてから、きゅっと唇を引き結び、膝の上で指を絡め、上目遣いに口を開いた。

「……おいしい?」

 おずおずと、どこか腰の引けた問い掛け。拒絶に怯え、それでもまだ諦めていない。

 コイツは一体何を求め、ここまで私に執着するのだろう。

 私の何が、こうもコイツを突き動かすのか。

 私は、とっくの昔に諦めてしまったと言うのに。

 どうして諦めたのだったか、今となってはもう、思い出すことも出来ないけれど。

「……美味しいよ。」

 吐いた言葉で喉が締まり、歯を食いしばる。

「よかった……。」

 力が抜けたように呟くカラスは、心底「よかった」ように見えた。少なくとも私の目には、彼女のつくる表情、声音、仕草の全てが、同じ方向を向いて見えた。

 安堵、あるいは喜び。

 つまり、彼女は報われたのだろう。「美味しい」だなんて、チープな言葉ひとつで。

 不意に、烈しい衝動が込み上げた。残りの弁当を床に叩きつけ、罵詈雑言を浴びせかける。怯えるだろうか。怒るだろうか。少なくとも、喜びは塗り潰されるだろう。

 もちろん、私にそんな大それた事ができる筈もなく。

 私は弁当を完食し、ごちそうさまを言って、教室へ戻り、授業を受け、帰宅してから__自室でひとり、少しだけ涙をこぼした。

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