第5話

 屋上には鍵が掛かっていた。毎回律儀に施錠し直しているらしい。

 階段を登った疲労で、私もだいぶん落ち着きを取り戻した。埃っぽい踊り場、カラスの様子を伺う。

 得体の知れないコイツのことだ。何事もなかったかのようにけろっとして__などと言うことは無く、カラスは次から次と溢れる涙を袖で拭いながら、小さく嗚咽を漏らしていた。

 どちらかと言えば被害者は私のはずなのに、こうして泣くのを見ていると、どうにも罪悪感が湧いてくる。涙は女の武器だと言うが、まさか行使される側として実感する羽目になるとは。私はこう見えて、それなりに真っ直ぐ育ってしまったらしい。

 カラスが開けなければ、屋上へ入ることは出来ない。仕方なく、階段に腰を下ろす。せっかく一番端っこを選んだのに、カラスは肩の触れるような距離に腰を下ろした。

 慰めてやる義理はない。とは言えさっきの今でひとり教室に戻る訳にもゆかず、ひたすら気まずい空気に耐える。何と実のない昼休みだろう。

 ややして少し落ち着いたらしいカラスは、包みを膝にちょこんと載せ、結び目を解いた。そうして現れた小さな弁当箱を開くと、いかにも弁当然とした弁当が現れる。彩りも豊かで、料理はからきしの私から見ても手が込んでいるのがわかる。

「好きなの、ある?」

 カラスはそう言って、弁当箱をこちらへ寄せた。ぶっきらぼうにあしらってやっても良いのだが、泣かせた手前、罪悪感が邪魔をする。

「……卵焼きとか?」

 適当に、目に付いたものを言ってみる。カラスは綺麗な箸使いで卵焼きを切り分け、切れ端を私に差し出した。

「いいよ、お腹減ってないし。」

 箸を引っこめる気配はない。相当に頑固であるらしいことは理解しつつあったので、次善で済まそうと手のひらを差し出す。しかしカラスは私の手を無視して、私の口元に卵焼きの切れ端を近付けた。

 やむを得ず、歯で挟むようにして受け取り、咀嚼する。

 甘い出汁巻きだった。冷めているけれど、中々に美味しい。じゅわっと出汁が染み出してきて、惣菜のソレとは全く異なる手作りの味。

 カラスは私が飲み込むまで、黙ってこちらを見つめていた。

「どうかしら。」

「……まあ、普通においしいよ。」

「よかった。じゃあ、次は__。」

「いい、いい。ほんとにもう良いから。早く食べな。昼休み終わっちゃうよ。」

「そう……。」

 カラスはどこか不本意そうながらも、ようやく弁当に手をつけた。私ならひと口で食べてしまうだろうおかずを、丁寧に切り分けてはちまちまと口に運ぶ。小さな弁当だが、食べ終えるのには中々時間がかかりそうだ。カニかエビの食事シーンが重なる。

「……私、戻っていい?」

 カラスは口許を指先で隠してこちらを向き、慌てて咀嚼を早める。よく噛んで食べ、口に物が入っている時は喋らない。教室での件と言い、妙なところで真面目なやつだ。

 小さなひと口をようやく飲み込み、口を開く。

「……佐伯さんは、やっぱり私の事、嫌い?」

 地雷原を歩くような足取りで、一言一言、確かめるように言葉を紡ぐ。

 もちろん、好きではない。構われるのは鬱陶しい。かと言って、嫌えるほど知ってもいない。

「……まあ、正直、なんでここまで付き纏って来るのかさっぱり分からないし、気味は悪いよ。」

 ひび割れた壁をぼんやり眺めながら、答える。それが正直なところだった。それ以上でも、以下でもない。

 また泣かれるだろうか。ここなら誰に見られることもないし、関係ないか。

 何にせよ、自業自得で傷付くのだから、私も少し心を痛める分でおあいこだ__などと考えながら、カラスの反応を待つ。

「……私は、」

 そうとだけ呟いて、また黙る。空気に耐え兼ねスカートのポケットを探るが、携帯は教室に置いてきてしまったらしい。大人であれば、煙草でもくゆらせ間を繋ぐのだろうか。重たい沈黙は、永遠にも思える時間だった。

「__あの日、あなたが、来てくれたから。」

 考えながら、確かめながら、ぽつぽつと言葉を紡ぐ。

「私を見つけて、来てくれたから……。」

 飄々として、掴み所のない奴。カラスに対する私のイメージはそんな感じで、手段を選ばぬ泣き落としも、ある意味では、想像の範疇を超えるものでは無かった。コイツならやりかねない、と。

 しかしながら、今カラスがどんな顔をしているのかは、全く想像がつかなかった。余裕など欠片も見えず、震える声で、言葉をつまらせ、必死に言葉を探している。

 一体どんな表情をしているのか、ほんの少しだけ、気になった。

 目が合うと、カラスは微かに動揺を見せた。心無い拒絶を投げ掛けられることを恐れ、怯えているのだろう。

 白い頬には仄かに朱がさし、潤んだ目許が赤らんでいる。長い睫毛がしっとりと濡れ、涙の粒がきらめいていた。濡れた頬に、幾筋かの黒髪が張り付いている。

「……だから、どうしたいっての?」

 カラスは細い目を少し見開き、薄い唇をまごつかせる。

「だから、ええと、その__」

 顔色を伺うように、ちらと上目に私を見る。

「お話したり、一緒にご飯を食べたり、一緒に帰ったり、できたらいいな、って。」

「友達になりたいってこと?」

「そう、かも……?」

「違うの?」

 慌てて首を横に振る。黒目がちの瞳を右往左往させ、やがて、ぎゅっと私に焦点を定めた。

「佐伯さんと、お友達になりたい。佐伯さんの事、もっと知りたい……。」

 その真っ直ぐな視線に耐え兼ね、目を逸らす。突き当たりの壁を怠惰にぼやけさせながら、のろのろと言葉を組み合わせる。

「……私はね。」

 この真っ直ぐな熱意に応えるだけの熱量を、私は持ち合わせてなどいない。

「私はねえ、毎日を、平穏無事に過ごしたいの。良くも悪くも、感情を動かしたくない。疲れるから。プラマイゼロじゃなくて、ゼロのまま。何も起こらないで欲しいの。ぜんぶ面倒くさいの。」

 それが、私の正直な気持ち。そう言葉を括り、口を噤んだ。私に言えるのはこれだけだ。

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、立ち上がる。

「じゃあ私、行くから。ごちそうさま。」

 階段を下り、スカートの尻を払う。

 折り返し際、視界の端を掠めたカラスは、笑みを浮かべているようにみえた。

 初めて出会った時の、得体の知れぬ笑み。

 多分、これでは終わらないんだろうなあ__と。

 漠然と予感はしつつ、この時私は、心のどこかで諦めてしまったのかもしれない。

 案の定、私の怠惰に起因するその小さな諦めは、今後の私の平穏無事を大きく侵すこととなる。

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