第3話
今日も今日とて、放課後。もう何度目か、込み上げる欠伸をどうにか噛み殺し、目尻に滲んだ涙を拭う。週末ともなると疲れもピークに達し、昼間のことはほとんど覚えていない。
もちろん、本当に意識を失っているわけではないので__今日は怪しいところではあったが__それなりに板書はとっているし、授業の内容もまあ、教科書を眺めていれば段々と思い出してくる。テスト勉強は、基本的に記憶の発掘作業だ。おかげさまで、順位も真ん中あたりをうろちょろする程度で済んでいる。
不真面目になり切れるほど根性があるわけでもなく、真剣に向き合うほどの情熱もない。ほどよく無気力に生きられればそれで良いのだ。
ただひとつ、引っ掛かっていることがある。トイレに立った時だったか移動教室だったかは忘れたのだが、廊下で一度、字平とすれ違ったのだ。
押し付けられた本はいつでも返せるようにと持ち歩いていたから、癪だが声をかけて、さっさと返してしまおうと思っていた。だのに、字平はつんと前を向いたきりこちらを一瞥もせず、すたすた歩いて行ってしまった。
何故私が無視されなければならないのか。
急いでいたようにも見えず、いつもの如くひとりでいた。
今日を逃せば、土日を挟んでしまう。それは非常に面倒くさい。
元より、一方的に押し付けられたものだ。要らないというのならひと思いに処分してやっても良いのだが、お気に入りだと言っていたではないか。
ホームルームが終わり、一斉に動き始めるクラスメイトに紛れ、教室を出る。
通りがけにひととおり教室を覗いてみるも、ホームルームが終わるのは私のクラスが最後だったようで、まばらに残った生徒たちの中に字平の姿は無かった。
人の流れに逆らうのも億劫で、流されるまま、昇降口に辿り着く。
何も、探し回ってやる義理はない。ローファーをつっかけ、表に出る。待ち伏せてもいない。
どこか拍子抜けな気もしつつ、校門へ向かう。もちろん、面倒事は無いに越したことは無い。
噂になるほどなのだから、クラスを知るのにそう苦労はしないだろう。それさえ分かれば、クラスメイトか担任にでも渡してしまえば良い。
だというのに、やめておけば良いのに__つい、屋上を見上げてしまった。
フェンスの向こうの人影が、私に向かって手を振った。
ああ、腹が立つ。
「__あら、奇遇。」
開口一番、字平は聞き覚えのある台詞を口にして、さも楽しそうにくすくす笑った。
「私たち、気が合うのかしら。」
ここはひとつガツンと言ってやろうかとも思ったが、せっかく拵えた怒りも、喉を通る頃には溜め息に変わってしまった。最後にちゃんと怒ったのはいつだったか。
黙って本を差し出す。
渡して、帰る。
帰って、寝る。
疲れた。
「どうだった?」
カラスはそれを受け取らない。「ん、」と再度突き出すと、受け取りませんとばかり、後ろに手を組んだ。腕を上げているのも疲れ、だらりと身体の横に垂らす。
「……今度はなに?」
「お話したいだけ。忙しい?」
「別に、用事は無いけどさぁ……。」
素直に答えてから、適当にでっち上げてしまえば良かったと気付いた。嘘も方便、何を馬鹿正直に答えているのだ。こういうところで容量が悪い。
カラスは、いかにも楽しそうにくすくす笑っている。
「きっと、来てくれると思ってたわ。」
そう思うのなら、なぜこんな回りくどいことを。
先日、大慌てで階段を駆け上がった時の筋肉痛は今も違和感として残っている。だと言うのにまた最上階まで登らされ、太腿が悲鳴を上げていた。日頃の運動不足を恨む。
「……昼間、なんで無視したの?」
不機嫌を隠す気はなく、明確に非難したつもりだった。
「そうすれば、私を探してくれると思って。」
カラスは相変わらずけろりとして、微笑を浮かべている。そんな理由で翻弄されたかと思うと、怒りを通り越してもはや呆れてしまう。結果として、私はまんまと掌の上で踊らされたわけだ。自分の愚直さにも腹が立つ。
「これ、要らないの?」
文庫本を振ってみせる。カラスはやはり答えず、なぜだか、別の文庫本を取り出した。やはり、黒いレザーのブックカバーがかけてある。
「……何?」
「その小説の、二巻。」
そう言って、カラスはちょいちょいと自らの目元を指し示した。少し考え、思い当たる。クマだ。
確かに昨夜、私は試しに開いてみたこの本をつい一気読みしてしまった。
中身は意外にもライトノベルで、普段読まないこともあり、中々新鮮で楽しめた。結果としては夜更かしが祟り、週末とのダブルパンチで一日グロッキーだったわけだが。
とは言え、これを受け取っては今日の二の舞である。シリーズものらしいこの作品が一体何巻まであるのかは知らないが、一度受け取ってしまえば少なくとも巻数分はこのやり取りがあるわけだ。
「要らない。」
毅然として言う。カラスはほんのわずか、動揺して見えた。
「……気に入らなかった?」
「別に。返しに来るの、めんどくさいから。」
有無を言わさず、本をぐいとカラスの胸元に押し付ける。押さえる力を緩めると、カラスは反射的に落ちぬよう手を添えた。
「じゃあね。」
申し訳程度に別れを告げ、踵を返す。
どういった理由で私に構うのかは知らないが、突き放すのだって楽じゃない。私はなるべく、常に凪いでいたいのだ。心地よい風も、吹きすさぶ風も、何もいらない。何の変化もなく、ただ平穏に居られればいい。
あんな顔をしたって、もう振り向かない。
つくづく、心を波立たせるやつだった。
何にせよ、肩の荷は下りた。階段を降りつつ、もう何度目かの欠伸を噛み殺す。明日は休日だ。今夜はぐっすり眠って、来週からはいつも通り。
そうなるはずだったのだが。
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