第2話
翌日の放課後。帰り際、ふと見上げた屋上に、彼女の姿を見つけた。私を見ていたと言うのもデタラメでなく、随分と目がいいようで、私が彼女を見つけるなり、彼女は手を振った。私はそれを無視して帰った。
その翌日は、移動教室や休み時間のおり、視界にやたらと映り込んできた。昼休みに至っては、誰それさんが呼んでいるとクラスメイトが席まで知らせに来さえした。
知らぬ存ぜぬで貫き通し、その日の放課後は逃げるように帰宅した。屋上へ行く気などさらさらなかった。
そうして迎えた本日。今日はカラスの姿を見ることもなく、穏やかな一日だった。ようやく飽きてくれたのだろう。
放課後、クラスメイトたちはみな、各々の行くべき場所へ向かう。そうして後に残ったがらんどうの教室で、気のすむまでぼうっとする。こうしてのんびりできるのも、随分と久しく感じる。
部活もなければバイトもない。情熱を注ぐ趣味もない。頼んでもいないのに、時間は勝手に進み続ける。そうしてできたただ途方もない人生の空白を、仕方なく”特になし”で埋めている。
長い一週間も明日で終わる。土日を挟めば、全部忘れて元通り。我ながら、単純なつくりでありがたい。
体感十分ほどぼうっとしてから時計を見ると、ほんの数分しか経っていなかった。しかし一瞬の間をおいて、長針が一周したのだと気付く。視界の端を染めていた西日は鳴りを潜め、空の勢力図は暖色から寒色へと移り変わりつつあった。
重い腰を上げ、教室を出る。私のための灯りは無く、日が暮れれば、抵抗もなしに闇に呑まれる廊下。今日のように放心が過ぎた日は、非常灯の灯りを頼ることになる。
誰が為にもなく廊下をはしゃぐ烈しい緑色の光は、案外嫌いではなかった。
のたのたと階段を降り、靴箱から取り出したローファーを、ぱたんとタイルに落とす。
気付くのが遅かった。その音に反応して、街灯の下に黒い塊が蠢く。
「__あら、奇遇ね。」
私は、露骨に嫌な顔をしていたと思う。しかし、カラスは気にするそぶりも見せず、どこか満足げな薄笑いを浮かべていた。
「何をしていたの?」
「……別に。ただ、ぼーっとしてただけ。」
「そう。」
親切に聞き返してやることもなく、会話が途切れた。しかし、カラスは私の前に立ちはだかって退こうとしない。そうして向き合って、私がなぜこの女にここまで苦手意識を持っているのかを理解した。
この女は、ほとんど視線を外さない。私の瞳の中に何かを探すように、常に目が合っている。言葉がなくとも、沈黙にさえ意味を見出そうとするかのように。
私だって、人の目を見て話せないという訳ではない。ただ、本来視線と言うのは単にどこにおいて話すか、一種の癖のような問題であって、しかしこの女は、明確な意図をもって私の目を見ているのだ。
痛くもない腹を探られて、快く思う筈もない。直感と言うのでは気も引けるが、理由を見出した今なら、胸を張って言える。
私は、この女が苦手だ。
そして、これからきっと嫌いになる。
「私は、たまたま本を読んでいたの。帰ってから読もうと思っていたのだけれど、どうしても続きが気になって。」
聞いてもないのにそう言って、カラスは手に持ったものを示すように軽く振った。はじめ、光を飲むような漆黒の板に内心ギョッとしたが、それは黒いブックカバーを掛けられた文庫本であるらしかった。街灯に照らされマットな光沢を放つそれは、レザーで出来ているらしい。
「本、興味ある?」
視線に気づいてか、問いかけてくる。会話の糸口を与えてしまったらしい。
「……ブックカバー、見てただけ。」
本は、割と読む方だと思う。しかし話題に乗ってやるのも気に入らず、天邪鬼をしてみた。が、失敗だったらしい。無機質な笑みに、ほんのわずか色が宿るのがわかった。
「嬉しい。これ、ちょっと拘って選んだのよ。私、レザーが好きなの。」
「……そうなんだ。」
どうしようかと悩んでいたら、たまたま通りがかった教師に、早く帰るよう咎められた。これ幸いと歩き出すと、カラスも当然のように隣を歩きだす。
「家、どっち?」
カラスが話を始める前に、こちらから問いかける。どっちと答えても、その逆を答えるつもりだった。元より、家からの近さで選んだ学校だ。結果として勉強は少々頑張らなければならなかったが、おかげでこうして遅くまでだらだらしようが、遠回りしようが、帰宅に困ることはない。
「どっちでもいいわ。」
私の意図を知ってか知らずか、カラスの回答は私の構える斜め上を抜けて行ってしまった。大暴投もいいところだ。仕方なく、足を止める。
「アンタさあ、」
「私は、」
同じタイミングで口を開き、互いに黙り込む。どうぞ、とジェスチャーされ、気を遣うだけの気力もなかったので、遠慮なく口を開いた。
「アンタ、なんで私に付きまとうのさ。」
「興味があるから。」
即答だった。
「……何を求めてるのか知らないけどさ、私、期待されるほど面白い人間じゃないと思うよ。」
「私は知りたいことを知れれば、それでいいの。」
「何が知りたいの?貯金とか?」
「まずは、名前からなんてどうかしら。」
精一杯の皮肉も、さらりと流される。
「名前を聞く時は」
「つばき。あざひら つばき。」
文字の字に、太平洋の平。木に春で、椿。そう説明しながら、ひらひらと指で宙をなぞり、”字平 椿”と書いて見せた。
「別に、教えてくれなくてもいいの。不誠実なひとだってことがわかるから。」
白磁の笑みは変わらないが、私のように肩肘張って皮肉らずとも、その言葉には柔らかな棘が含まれていた。
溜め息を吐く。
「……さえき、あきら。」
大佐の佐に、伯爵の伯。日を三つ積み上げて、晶。
ぶっきらぼうに並べ立て、気が済んだか、とばかり睨めつける。字平 椿と名乗ったカラスは、ブックカバーの角で口許を隠し、くすくすと笑った。
「収まりのいい自己紹介ね。慣れてるの?」
指摘され、ほのかに耳が熱くなる。大佐に、伯爵。なるほど確かに、言われて初めて気が付いた。
「……他に思いつかないだけ。」
「そうね、あまり使わない字だものね。」
無機質な笑みは変わらない筈なのに、からかわれているような気分になる。
「それが、相手を知るってこと。素敵でしょう?」
思考を読んだような発言に、なるべく反応しないよう努める。読心術なんてものは、汎用の効く当てずっぽうを相手の反応に合わせているだけなのだ。読まれたと思ったことを悟られたら負けだ。この得体の知れぬ笑みに惑わされてなるものか。
「私、得体が知れないだとか、笑顔が不気味だとか、よく言われるの。佐伯さんはどう思う?」
彼女が棘を置いた場所に、私はいた。足から脳天まで貫かれ、字平 椿は再びくすくすと笑みをこぼす。
「佐伯さんは、とっても素直で誠実な人なのね。」
そう言って、彼女は口許を隠していた文庫本を差し出した。
「ブックカバー、試してみて。私のお気に入りなの。」
つい、受け取ってしまう。そうすると彼女は満足した様子で踵を返し、「また明日。」と一方的に言い残して、私の帰路とは逆方向に歩いて行った。
呆然と立ち尽くす。嵐に巻き込まれたような心地だった。
何を考えるでもなく、本の表紙に触れてみる。表面を撫でる分にはさらりとしていて、しかし持つ手には柔らかく、しっとりと吸いつくような。
「ねえ、佐伯さん。」
予想外の声に、肩が跳ねる。字平はほんの数歩進んだ先で立ち止まり、こちらを見ていた。
「私たち、きっと仲良くなれるわ。春と秋だなんて、素敵じゃない?」
そうとだけ言って、手を振り行ってしまった。なんのこっちゃと考え、はたと思い至る。
__木に春で、椿。
春と、あきら?
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