こがらす、こがらし、こいこがれ。

惠上

第1話

 墨を流したような黒髪に、黒目がちの切れ長な瞳。我が校の制服である黒いセーラー服も相まって、彼女はまさしくカラスであった。

 ひとが彼女を噂するのは聞いていたが、私としては、別段興味もなく。いちど廊下ですれ違ったとき、なるほど確かに、噂通りの美人だなあと思う程度の事であった。なんの接点もなく、おそらくは幾度も耳に掠めているであろう名前だって覚えちゃいない。

 ただ、見かけるときは大抵ひとりでいる彼女に、心のどこかでシンパシーを感じていたようにも思う。

 そんな彼女が私の中に巣食ったのは、別段特筆することもない、ある日の放課後の事であった。

 高校一年、晩秋の日暮れ時。夏は影も見えず、吹く風の肌寒さに冬の気配を感じ始める。つい先日衣替えも終え、赤いラインの入った黒いセーラー服達が、ぞろぞろと昇降口から吐き出されてゆく。

 私はひとり残った教室で、他人事にそれを眺めていた。

 がらんどうの教室で、誰に憚ることもなく大きな欠伸をする。

 文化祭も先月終え、高校生らしいイベントもひと通り消化した。流されるまま流され続けた日々からようやく解放され、自分のリズムを取り戻し始める。

 壁掛けの時計に目をやる。ぼちぼち部活も終わる頃合だ。重たい腰を上げ、教室を出る。昇降口にはまだ、人待ちや雑談がぽつぽつと残っていた。

 校庭では、運動部のひと達が声を上げている。その声に紛れるように漂ってくる、吹奏楽部の奏でる音色。

 私はそんな青春の喧騒に身を投じられず、一歩離れてそれを見ている。ただ、どんなに頭を捻っても、汗をかき、泥にまみれ、必死になって研鑽を積む自分というのは、どうにも想像できなかった。

 見ているだけで疲れてしまうような輝きから目を逸らし、夕陽に照らされる校舎を顧みる。

 屋上の給水タンクに見えたその黒い塊を、はじめ、私は鴉が留まっているのだと思った。

 しかし、給水タンクと比較して、その大きさの違和感に気づくのにそう時間はかからない。瞬きひとつの間に、それが人であると気付く。

「はあ……?」

 思わず眉をひそめ、逡巡する。

 見なかったことにして帰宅。憶測が現実になってしまった場合、私の精神衛生上、非常に良くない。一番簡単なのは、教師に伝えて逃げることか。ただ、何というか__大抵の大人は、やわらかい心に立ち入るとき、往々にして靴を脱がない。そうなれば、もし明日アスファルトが綺麗なままだったとしても、汚れる場所が変わるだけだ。

 不意に強い風が吹き付け、目を眇める。屋上にも同じ風が吹いているようで、長い髪が風に靡き、バランスを取るように手を着いたのが見えた。

 固く目を瞑り、溜め息をつく。奥歯を噛んで、踵を返した。そも、この学校の屋上は閉鎖されていたのではなかったか。

 自然、足が早まる。四階まで階段を駆け上がるころには、すっかり息が上がっていた。立ち止まった途端、一気に汗が吹き出す。パンパンに張った太腿がじくじくと鈍く痛んだ。

 今すぐへたり込んでしまいたい気持ちを抑え、ドアノブに手を掛ける。扉は、存外あっけなく開いた。たぶん、音で気付いたはずだ。教師と思って慌てているだろうか。落下音がしないことを祈り、屋上に歩み出、振り返る。

 思わず声を上げそうになり、すんでのところで悲鳴を飲み込んだ。無理に堪えたせいで、喉から奇妙な音が漏れる。

 巨大な鴉が、私を見下ろしていた。

「__随分、急いだのね。」

 か細いながら妙によく通る、大人びて落ち着いた声。そうしてようやく、視界が正確にその姿かたちを捉えた。

 コンクリートの分厚い庇にしゃがみ込み、光を呑み込まんばかりの暗く、黒い瞳で、じっと私を見つめる、カラスと呼ばれる少女。

 準備していた言葉たちが、瞬く間に散ってしまう。

「目が合ったでしょう?」

 そう言って、彼女は得体の知れぬ笑みをした。白磁の如きすべらかな造形が肉じみた動きをするのに、奇妙な違和を覚える。

 不意に、彼女は庇から飛び降りた。二メートル程もありそうな高さから、音もなく着地してみせる。ふわりと膨らむスカートを抑える仕草が、妙に洗練されて見えた。

 漆黒に統一された姿に、肌と上履きの白さだけが、浮き上がるようによく目立つ。

「その慌てようを見るに、自殺志願者とでも思われたのかしら。」

 カラスは目を伏せって、スカートを払う。

「……そりゃあ、あんな所に居たらね。」

 たっぷりと汗を吸った髪を掻きあげ、ため息をつく。そんなことを聞くのなら、そうではないのだろう。慌てて損したと、彼女の横をすり抜け、今度こそ帰ろうとした。

 彼女は、すれ違いざま、私の手首を捕まえた。細く、意外にも温かい指だった。

「せっかく来たんだから、少しお話ししましょうよ。」

「……嫌。」

 掴まれた腕を引く。彼女は手を離さない。

「腕、取れちゃうわ。」

 彼女なりの冗談なのだろうか。しかし、ぴんと張った彼女の細く軽い腕には、なるほど、これ以上力を加えたら容易く捥れてしまうのではと思わせるだけの心許なさがあった。

 諦め、引き寄せていた腕を渋々戻す。

「……あんな所で、何やってたの?」

「あなたを見てたの。」即答だった。無機質な笑みを動かさぬまま、しれっとして言う。

「帰っていい?」

「本当よ。みんな、意識はどこかへ向いているものだから。あなたはとっても目立っていたの。」

「……どういう意味?」

 悪口だろうか。少しむっとする。彼女はあごに手を当てて、考える仕草をした。

「ふわふわ、ふらふら__ぼうっと遠くを見ていたり、かと思えば、何もないところに目を留めたり。何を考えていたのか、私の方こそ是非聞きたいわ。」

 言葉に詰まる。はたから見た私はそんな風に見えているのか。

 何を考えていたのかだなんて、何も考えてないとしか言いようがない。私は、基本的に何も考えていない。何も考えないようにしている。思考の起点には、いつだって迷路の入口がある。

 そこまで考えて、今まさに迷宮に足を踏み入れかけていることに気付き、塗りつぶすように「何も考えてない」と答えた。

「なら、今考えていたことをそのまま聞かせて。」

「何も考えてない。」

 彼女は、「おや」というように少し眉を上げた。しかしすぐ元の笑みに戻って、じっと私を見つめる。

 観察されている、と思った。彼女は、私の内側を探ろうとしている。

「それより、どうやってここに入ったの?確か、施錠されてたよね。」

 うっすらと纏わりつく不安感に耐えかね、話題を変えた。彼女は特に反応を見せず、胸ポケットを探って、何かを取り出した。それは、伸ばされ歪に変形した、二つの安全ピンらしかった。

 泥棒が針金を鍵穴に突っ込み、細工している図が頭に浮かぶ。あれは何というんだったか、たしか__。

「……ピッキング?」

「練習のかいあって、大抵の鍵は開けられるようになったわ。」

 理知的な容姿とミステリアスな雰囲気に呑まれていたが、このひとは案外、馬鹿なのかもしれない。

 再び木枯らしが吹き付け、汗ばんだ肌から温度を掠め取ってゆく。寒気が背筋を駆け上り、粟立つ感覚に首を竦めた。

「......まあ、精々バレないようにしなよ。」

 じゃあ、と今度こそ扉に向かう。こんな所を教師に見つかってはことだし、風邪まで引いたら堪ったものじゃない。

 今度は抵抗することなく、彼女の手はするりと私を逃がした。

 __明日も、ここに居るから。

 扉の閉まる間際、そんな声を背中に聞いた。

 階段を降りつつ、ため息をつく。今日はひどく疲れてしまった。平穏無事がモットーの私としては、この放課後だけで二週間分くらいのエネルギーを使ったような気がする。

 しかしこの日、私は帰路のどこかに肝心要の平穏無事を落としてしまったらしい。

 似合わぬセーラー服に身を包んだ私は、ゴミ袋にでも見えたのだろうか。

 この日を境に、カラスは執拗に私を啄み始めた。

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