霧に潜むもの 後編

 夜の街を霧が覆っている。


 時刻は午後9時を過ぎた。


 霧は8時半頃から濃さを増して、今では数十メートル先の光がぼんやりとするほどだ。


「なんでマイナーな妖怪知ってる前提で話進めんのよってことなんすよぉ!」


 人通りもまばらな路地に荒んだ声が響く。


「分かった、分かった。だが、事前の学びも大切だ」


 月代を背負う灰戸がなだめるように言う。


「資料作っといてくれればいいじゃんって話なんすよぉ! 基本的な共有もできないで、なぁに人を死地に向かわせてんですか! 死地肉林ですよ、そりゃあね!」


「すまんが、何を言っているのか分からん」


 灰戸は腰を上げて月代を背負い直すと、問題の住宅街へと足を進めた。


「灰戸さんだって、不満あるでしょうよ! 使い捨ての駒みたいにされてさぁ!」


「私は別に今の状況を受け入れているからな」


「歯車になっちゃったんですか! それが大人ってやつですもんねぇ!」


 魔王を誘き出すために月代を酔わせる必要があったが、灰戸は今や後悔していた。


「30過ぎたらくるって言うじゃないですか。灰戸さんはきたんですか?」


「まあ、きたといえばきたかな。もうこの身体にも慣れてきたよ」


「30が怖いですぅ!」


「怖がる必要はない」


「やだぁ!」


 子供のように喚いていた月代だったが、突然、灰戸の肩越しに正面を見つめた。


「ん? なんかいますよ。あの空き地のところ」


 灰戸の目には、霧の中にぼんやりと空間が広がっているのが映るだけだ。


 灰戸は月代を下ろすと、肩を貸してやる。


「魔王が来るぞ」


「え、30過ぎたら、ですか?」


 素っ頓狂な返答をした月代が、今度は耳をそばだてる。


「え、待って! なんか声かけられてるんですけど! 客引きキャッチより優しい!」


 緊張感に欠ける月代の耳元で、灰戸が小さく語りかける。


「今聞こえているのは、30過ぎてから来る魔王の声だぞ」


「やだぁ! 私まだ30じゃないのに!」


 駄々をこねる月代目掛けて、霧の中から何かが飛び出してきた。


 かろうじてその何かを蹴り飛ばすと、灰戸は霧の中に目を凝らした。


「おいおい、聞いてないぞ……」


 霧の中の空き地からぬっと姿を現したのは、4、50メートルはあろうかという奇妙な六足歩行の化け物だった。


 それが霧の中に潜んでいたのだ。


 巨大な蹄のようなもののついた足をそろそろと進めて、灰戸の方に向かってくる。


 いましがた飛び出してきたのは、その化け物の蠢く口のまわりに垂れ下がる触手の一つだった。


「あ、あぁ……、なな、なんですか、アレ……!」


 月代が腰を抜かして化け物を指差す。


 灰戸が引きつった笑いを浮かべる。


「映画『ミスト』に登場した化け物だ……」


「ま、待ってください……。そんなことあるんですか、だって、映画の……」


「伝承も怪談も神話も、突き詰めれば人間が語ったもの。人間が語るものは存在するんだ。その形式は問わない」


 すっかり酔いが醒めた月代が後退りする。


「融合していたのは、魔王と『ミスト』……」


 トラウマ映画として名高い『ミスト』は2007年のホラー映画だが、その原作は1980年にスティーブン・キングが著した『霧』という中編小説だ。


「君はすでに奴の条件を踏んだ……。警戒しろ!」


「じょ、条件って……なんの能力ですか……!」


「奴の存在、それ自体だ」


 触手が猛烈な速さで月代を襲う。空き地を囲むポールの1本を引き抜いて、灰戸が触手を薙ぎ払うと、月代を近くの物陰に退避させる。


「どうするんですか! どうやってあれに対抗するんですか!」


「落ち着け。確かに私ではまともに対処できん。特異事象対策室SIROに応援を要請!」


 次の瞬間、伸びてきた触手が月代を弾き飛ばした。


「月代!」


 灰戸は叫んで、手にしたポールを化け物の口に目掛けて槍のように投げつけた。


 奇声が返ってくる。


 口からボタボタと化け物の体液が落ちる。


「月代、大丈夫か!」


 路上に横たわる月代は、静かに親指を立てた。


「き、緊急……通報、しました……」


 腕がおかしな方向に曲がっていた。


「月代、耐えろ。すぐに応援は来る」


「私……たった半年観察官オブザーバーやったくらいで余裕出しちゃってました……。申し訳ありません……」


「反省は後だ。痛むと思うが我慢しろ」


 そう言って、灰戸は月代の身体を抱えて駆け出した。霧の中から飛び出した触手が灰戸の背中に突き刺さる。


「ぐあっ!」


 触手から生える棘のようなものが灰戸の肉をえぐる。


「灰戸さん! ……条件を踏んでないのに、どうして⁈」


 苦悶の表情で民家の間に逃げ込んだ灰戸は脂汗を垂らして膝をついた。


「……条件を満たすと実体化するのかもしれない……。現に私にも奴の姿が見えている……!」


「血が……」


 灰戸の背中から赤いマントをさらに赤く染める血が流れ出す。


 灰戸はそれでも構わずに腰から守り刀の短刀を引き抜いた。


「灰戸さん、無理をしないでください……」


 無事な方の腕で身体を支えて起き上がる月代の肩越しに触手が襲いかかる。


 灰戸は短刀の一閃でそいつを斬り捨てた。


「奴は君を狙っている。条件を踏んだ対象だけを連れ去ろうとしているんだ……」


 別の触手が灰戸に絡みついて、道路の方へ投げ飛ばす。


「灰戸さん!」


 泣き叫ぶような声を上げて、月代がその場に手をつく。


「お願い……早く助けて……」


 涙がその目から落ちて地面を濡らす。


 絶望が彼女を包み込んだ。




 ……──、




「どうせ死ぬのだし、無駄な足掻きよ」


 気怠そうな声がした。


 道のど真ん中に、黒ずくめの女が立っていた。ウェーブがかった長い黒髪をかき上げて、月代を見つめる。


 眠そうな垂れ目は漆黒の瞳。死人のように青ざめた肌。日本人離れした彫りの深い顔立ち。厚い唇から吐息が漏れる。


「必死に生きるなんて、馬鹿馬鹿しい」


 初夏の夜だというのに着込んでいた黒いコートを脱ぎ捨てる。


 黒いレザーのノースリーブワンピース。裾から伸びる長い足には、やはり黒いブーツ。


 そして、左腕には数え切れないほどの悪魔のタトゥー──。


「め、冥姫めいきブラッドベリー……! 来てくれたか……」


 倒れていた灰戸が声を上げる。


 ブラッドベリーの冷たい視線。


「まだ生きていたのね」


「気をつけろ、あの特異事象アノマリーは……──」


 ブラッドベリーはその細い人差し指を唇に押し当てていた。


「そんなこと、どうでもいいわ」


 彼女の手に、大きめの四角い判子のようなものが握られている。


 それをタトゥーまみれの左の二の腕に押し当てる。その器具についた小さなレバーを動かすと、ブラッドベリーの表情が恍惚に蕩けたようになる。


 タトゥーの悪魔の顔から血が流れ出す。


 腕に押し当てた器具からは何枚もの細い刃がせり出す仕組みになっていた──瀉血器だ。


 血の筋が左の指先まで続いて、やがて地面に滴る。


 霧の向こうで触手が蠢いた。


「危ない!」


 月代が叫ぶと、触手がブラッドベリーに猛スピードで飛び出す。


「──あなたもすぐ死ぬのでしょう?」


 ブラッドベリーが指先を弾く。細かい血の飛沫が触手に触れた。


 その刹那、化け物の触手はまるで砂のように崩れ去ってしまった。


「え……?」


 呆然とする月代の視線の先で、巨大な化け物の足の関節が折れ曲がって地面をついていた。


 表皮が剥がれ落ちる。化け物の身体は見る見るうちにボロボロになって崩壊していった。


「こ、これは……」


 痛みも忘れて、月代は化け物の最期を見届けた。


「儚いものね、特異事象アノマリーも」


「あなたは……?」


 ブラッドベリーは応えるのも億劫そうだ。代わりに満身創痍の灰戸が口を開く。


「彼女は冥姫ブラッドベリー。彼女の血は触れた生き物全てを即座に葬り去る……その異常化能力アノマライザーは、刹那九相図ブリンク・オブ・ナイン・フェイズ──」


 ブラッドベリーは笑顔ひとつ見せずに、コートを拾い上げる。


「所詮、私も使い捨ての駒。名乗る意味もない」




◯⚪︎・⚪︎◯




異常史アノマリー・アーカイブから特異事象アノマリーが消失しました……」


 月代が告げた。


 ブラッドベリーは気怠そうにため息をつく。


「歴史が正されようとも、私たちが終焉を迎えることに変わりはない」


 膝をつく灰戸のそばに月代が駆け寄る。


医療班メディックを呼びました。頑張ってください……」


 月代の折れた腕に目を止めて、灰戸は力なく笑う。


「それは君も同じことだ」


 足音を残して立ち去ろうとするブラッドベリーの背中に、月代が声をかける。


「ブラッドベリーさんも、治療を……」


 ブラッドベリーが鼻で笑う。


「痛みだけが死を告げてくれる。治療など私には必要のないこと」


 月代は深々と頭を下げた。


「助けて頂き、ありがとうございます!」


「感謝なんて、いずれは枯れる花みたいなものだわ」


「だから、今が大切だと分かります」


 真っ直ぐとそう言う月代を、ブラッドベリーが振り向いた。


 無表情の瞳が月代を映し出す。


「あなた、名前は?」


「月代凪、観察官オブザーバーです」


 ブラッドベリーはため息をついて、すっかり霧の晴れた夜の街に消えて行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アノマリー・ハンター 〜特異事象討滅官〜 山野エル @shunt13

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ