第3話 マラーの死
浴槽で男が死んでいた。会社内で大々的な改革を進めた男だった。他殺だの自殺だの言われているがあくまでも事故死ではないということだ。
そんな会社内の物騒な噂を聞いて、女……ただのOLだが仮の名をシャルロットとしよう……は恐ろしく気分が悪くなった。想像してしまったからだ。男はホテルの浴槽で刺されて死んでおり、浴槽が真っ赤に染まっていたという。吐き気すらした。感受性が高かったのだろう。
シャルロットは社内では大した地位にはいなかった。ごく普通のその辺にいるOLだったが、ひとつだけ他と違う点があった。この殺された男の不倫相手だった。シャルロットは自身のことをこの男の愛人だという認識していた。実際、そこまで確定的なものではなかったのだが。
最初から彼に妻がいることは分かっていたし、この関係になる前に彼を拒絶したかったのだが、彼が直接の上司ではないにしても、同じ会社に彼女よりもずっと上の立場にいることからそうもいかなかった。不倫相手だからといって待遇が良くなったわけでは全くなく、会社の外で彼と会えば服で見えない場所を殴られるのが日常だった。会社内では人当たりが良く評判も良かったが、そこで溜まった不満は彼女に全てぶつけられていたのであった。
会うのは普段はシャルロットの家だが、その日は何故かホテルだった。シャルロットも何故だったのかはよく覚えていない。この関係がバレればお互い不利益を被るはずなのに、この日はホテルでディナーまで予約していた。どんな風の吹き回しかと、考えを見透かされているんじゃないかと少し怖くなった。案内された席に座るとカトラリーが目に付いた。鏡のように磨かれた銀色に光るカトラリーをぼうっと見ていると一つ欲しくなる。何かする予定もなかったが。誰にも見られないようにナイフを膝の上でハンカチに包む。これでは食べれないかと思い、落としてテーブルの下へ行ってしまったとギャルソンに声をかけて、新しいナイフを持ってきてもらった。向かいに座ったあの男はみっともないことはするなよ、と言ってきたのでシャルロットはそれを無視した。食事を終えるとナイフを包んだハンカチをクラッチバッグの中へ滑らせた。
部屋に戻っても居心地の悪さがシャルロットの気分を一層悪くさせた。彼は携帯が鳴ると扉を隔てて隣の部屋に移動した。通話の相手は妻子だろう。この家族は自分の犠牲の上に成り立っているのだと思うとシャルロットはどうしようもなく腹が立った。この関係に利益などない。ただ損失を生まないように続けているに過ぎなかった。この通話が終わったらこの関係も終わりにしたかった。
通話が終わった彼にシャルロットは話を切り出した。関係を解消してくれと頼むと初めて顔を殴られた。口が切れて血が出た。数日経った今でも滲みる。関係を解消するならお前の写真と動画を会社で公開する、と脅してきた。他人の評価を考えれば非難されるのは彼女である。でもどうしてもこの関係を終わらせたかった。彼女が彼と関係を切っても別の誰かが彼女の役割を押し付けられるだけだろう。赤の他人に特段興味はないが、そうやって彼の評判が良いままでいるのが気に入らなかった。顔を殴った後、まずいと思ったのかいつも通り満足するまで腹や背中を殴る蹴るなどすると、シャルロットは吐いてしまった。それを汚いといって彼は風呂に入ってしまった。
彼女は鞄の中から持ってきていたコードレスのヘアアイロンを取り出した。次の日は仕事なので身支度を整える道具はひと通り持ってきていた。それからクラッチバッグをひっくり返す。鈍い音を立てて白いレースと明かりに反射した銀色が床に落ちた。
シャルロットはどうしてこんなにいいホテルを取ったのか疑問だったが、彼女の機嫌を取ろうとしたのではないかという結論に至った。こんなもので機嫌が取れるほど安い女ではないと余計に苛立った。浴室とトイレが別の部屋だったので浴槽に湯を張っていた。そこに他意はなく、ただ彼女自身が面白がってやったことだった。
ヘアアイロンだけを持って浴室を開けると浴槽に浸かっていた男は嫌な顔をしていた。何をしにきたと言うように。彼女は服を着たままだったのでシャワーを浴びるようでもなかったからだ。後ろ手に隠していたヘアアイロンを思いっきり男の頭を目掛けて振り下ろす。何度か繰り返した後、男の意識がなくなったことに気づいた。湯の中に沈めても良かったが、ふとあの鏡のようなナイフが頭をよぎった。浴室から出て床に転がっていたナイフを手に取ると、意識を失った男の首に突き刺した。
会社内の不穏な噂を聞いて気分の悪そうなシャルロットに彼女の上司が声をかけた。
「大丈夫か?根も葉もない噂も混じってるからあんまり真に受けるなよ」
「……すみません。もう大丈夫です」
「これ、あれだな。マラーの死ってやつ?」
上司の言った単語に聞き覚えがあった。
「マラーの死……」
「革命家が浴槽で殺されたって絵あるじゃん」
「ああ……」
その絵をどこかで見た気がした。あの時、シャルロットはナイフを突き刺すことに抵抗がなかったというより、これが正解だとなんとなく思っていた。あの絵の事件の事の顛末までよく知っているのに何故忘れていたのだろう。
『マラーの死』
ジャック=ルイ・ダヴィッドによって制作された。
フランス革命を描いた有名な絵画の1つで、1793年7月13日にシャルロット・コルデーに暗殺されたマラーが、浴槽に横たわっている場面を描いている。マラーの死後数か月で描かれ、「政治的要素を材料に脚色をすることなく描かれた」初の近代絵画である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます