五章『鷹の目』――5
「陛下の死は寿命だった」
アイリスは相変わらずのポーカーフェイスで続ける。
「それを受け入れてもらえて、ホッとしました。――しかし、本題はここからと言えます」
「……陛下の御遺体を弄んだのは誰か、ですわね」
「その通り。陛下殺害の犯人は存在しませんが、陛下の遺体損壊の犯人は存在するのです――いうまでもなく、その正体はそこに佇んでいる人物なわけですが」
四人の注目が一度に集まっても、『犯人』は微動だにしなかった。
どうでもいい。アイリスはすぐに視線を戻す。
「しかし、これは実に単純な問題なのです。昨日の朝、皆さんが集まって話し合った内容の中だけで、既に犯人の候補は三人まで絞り込めます――ケルベロスさん、ネクロマンサー閣下、サキュバスさんの三人です。この三人以外は条件に合いません。犯行を行うこと自体は可能かもしれませんが、朝までその事実を隠し通せないからです」
最初に候補から外れたのはケルベロスだった。
一晩中部屋の前に立っており、それが当たり前とされているケルベロスであれば、凶行の機会はいくらでもあった。だからアイリスは彼に疑いの目を向けたのだけれど、しかし、他の二人ほど強烈に注目していたわけではなかった。
というのは、彼にはチャンスがあったとしても、それを生かすきっかけが存在しなかったからである。
魔王の結界はその死と共に消滅したが、しかし、それを外から知る術はない。あの結界は元々周囲からは存在を確認できないものであったため、無くなったとしても傍目には変化が無いように見えてしまうのである。
だから、もしケルベロスが結界の消失に気づくとしたら、彼が何らかの理由で部屋に入ろうと思い至った時であり――そんなタイミングはあの夜にはなかったとアイリスは考えている。
故に、寝室を訪ねて結界の特性を確認した段階で、アイリスはケルベロスを犯人の候補から除外した。
「残るは二人です。これは正直なところ決めかねていましたが、彼の――デュラハン卿の行動が決定打になりました。正確には、その後ネクロマンサー閣下に教えてもらったある情報により、予想は確信を帯びたというべきなのですが」
デュラハンが犯人ではないことは明らかだった――アイリスの当初からの三人の候補にすら含まれていない。
誰かを庇うため、彼は名乗り出た。
では、その誰かとは誰か?
そもそも、彼は何故、庇うべき犯人が誰なのか知れたのか?
「剣がヒントでした。陛下の殺害に使われた、あの剣」
「……四百年前の戦場で戦った、『当時は人間だった』者の持ち物だ」
「なるほど。デーモン殿下はご存じでしたか」
「ああ。死後、その男は幽鬼の騎士となり、陛下の旗下へと馳せ参じた。それがデュラハンだと、いつか陛下に聞かされたことがあるよ」
サラマンダーとセイレーンも頷く。
「やはり、有名な話だったのですね」
「ケルベロス主任もご存じだったはずですよ」
「そうでしょう。――ただ、彼女はそれを知らなかった。いえ、もしかしたら知っていたのかもしれませんが、その剣を使うことの意味にまでは考えが至らなかった」
おそらくデュラハンは、昨日の会議の後、この事件が魔王殺害事件ではなく遺体損壊事件であり、犯人の条件に適う候補は三人である、というところまで辿り着いたのだろう――とアイリスは読んでいる。
同時に、剣の持ち主である彼は気づくことができたのだ。
魔王の寝室にずっと飾られてきた剣は、彼にとって何よりの誇りだっただろう。それを穢すことは、自分ならば絶対にしない。ケルベロスもしないだろう。彼は武人だ、逸話を備えた武器への畏敬の念はデュラハン同様であり、死体を指すのに使うような冒涜は犯すまい。ネクロマンサーはどうだろう。彼も否だ。彼があの剣を使うとしたらその理由は罪を自分に擦り付けるためだろうが、残念ながら自分はかなりの高確率で犯人の候補から外れる立場にある。逆に、デュラハンがあの剣に込める思いを知った上で利用したのではと疑いの眼差しを向けられる危険性を孕んだ行為は、彼の能力に沿わない。
残るは、一人。
彼女は、やりかねない。
あの剣がデュラハンのルーツであると知っていたとしても、それを使うということがどういう意味を持ってしまうのか。武人ではなく、謀とも縁遠い彼女の思慮がそこまで至らないことに不自然はない。
「デュラハン卿はそう思った。だから庇った」
「……その理由は?」
「ありふれたものだろうと私は思います」
「まあ何となく察しはついてますけどね。デュラハン卿って元人間ですし、男女の情ってやつが湧いても何にもおかしくない」
サラマンダーの言葉に、アイリスは頷く。
「故に私は、今回の一件の犯人は彼女であると結論付けました」
※ ※ ※
アイリスは言った。
「サキュバスさん。犯人はあなたしかありえません」
シャノンは言った。
「リーダー。貴女の双子の妹であるサキュバス様が、この事件の犯人です」
※ ※ ※
魔族は、真の名前を名乗らない。
文化というよりは習性といっても差し支えないほどに染みついた、彼らの原則である。
彼らは生まれたときに親から名を貰うが、それを親族以上に親しい者にしか明かさない。だから人間と違って、男女がお互いの真の名を知り合うことが即ち婚姻の証になる。
では、同僚や友人など、家族ではない間柄では何を持って呼び合うのか。
種族で呼ぶのである。
ヴァンパイア、サラマンダー、セイレーン、ミノタウロス――それらは種の名前であり、本来の名は別にある。例外もいくつかあり、元々は人間だったが魔術を極めるあまり人の枠を超えてしまったネクロマンサーが彼の代名詞である死霊使いの通り名で呼ばれているのが代表的な例である。
また、シャノンも少々特殊な事情を抱えている。
彼女はホムンクルスであり、通例であればそう呼ばれるものなのだが、魔王の被造物として彼の魔力を分け与えられた彼女を、凡百のホムンクルスと同列視して一緒くたに呼ぶことに疑問があった。そこでヴァンパイアが愛称としてシャノンの呼び名を与えたのである。だから、本当の名は、生まれた時に魔王から与えられた名が別にある。
水蓮姫のことを、大仰で長々とした皇族らしい本名ではなくアイリスというあだ名で呼ぶのと、感覚的には近い。
しかし、一つの種族には何千何万という個体がおり、それらに全て同じ呼称をあてがったのでは不便ではないか――人間はそう思うけれど、この世に国という概念が生まれるより以前からそうやって過ごしてきた彼らにとっては種の名で呼ぶのは当たり前であり、それがディスコミュニケーションの原因になったとしても、しょうがない、の一言なのである。
だから。
サキュバスと呼ばれる魔王城の女官長が二人いても、彼らは何とも思わない。
城のすべての使用人のまとめ役を務めるサキュバス――アリスステラという本名の彼女は、シャノンからはリーダーと呼ばれており。
魔王の傍付きであり秘書としての役割もこなすサキュバス――ドロシーステラという本名の彼女は、シャノンからはサキュバス様と呼ばれている。
そして、今回。
魔王の遺体を弄んだ罪に問われているのは、ドロシーステラの方であった。
「どうして!」
サキュバス――アリスステラは叫んだ。
シャノンの右手をずっと握っていた彼女の両手に力が入り、シャノンの顔が僅かにゆがむ。が、今それを振り払うほど、彼女は非情にはなり切れなかった。
「あの子が、なんでそんなことを!」
「……リーダー。今から、わたしは酷いことを言うと思います。それでも聞きたいですか」
「シャノン……」
「姫様から、その答えは聞いてるんです。でも、正直……これをリーダーに伝えたい、とは思えません。聞かなくたっていいと思ってます。多分、本人から直接聞く機会だってあるでしょうから」
そっと、シャノンは自身の左手をアリスステラの手にかぶせる。
「どうしますか。書庫の外に出るなら、止めませんよ」
「……」
アリスステラは、シャノンとヴァンパイアの顔を交互に見た。
しばらく逡巡が続いたが、やがて、
「……聞かせて」
「……分かりました。お話しますね」
※ ※ ※
「なぜ彼女がこんなことをしたのかについて説明するには、まず、陛下の死が自然死から他殺になったら何が変わるのか、について考える必要があります――お三方は、何か思いつきますか?」
「そうだなぁ、犯人捜しが始まる、ってこととか?」
「それも正解の一つでしょう」
「関連することだが、葬儀は遅れるだろう。犯人を処断してから、ということになるのが自然だからな」
「ええ。実際、そうなっています」
「和睦の調印式が遅れる、という面もありますわね」
「いいえ。それは違います」
セイレーンはムッとするが、アイリスとしてはその答えを待っていた。
「調印式は遅れません。――確認のためにお尋ねします。本来の予定では、調印式は何日後の予定でしたか?」
「五日後だ」
デーモンが答える。
「今日、使節団が到着し、歓待の宴や諸々の打ち合わせを済ませ、五日後に調印式が行われる予定だった」
「現在、その予定はどの程度狂っていますか」
「……使節団の到着が明日に伸びた」
「それだけですか?」
「ああ。ケットシー達が大慌てでスケジュールを再調整している――俺の戴冠式も済ませないといけないからな。が、五日後の調印式は予定通りにして見せると彼女は豪語していたよ」
「流石だなぁ、ケットシー女史」
サラマンダーが口笛を吹いた。
アイリスはセイレーンの目を見て、
「遅れるのは使節団の到着だけなのです。そしてそれも、犯人捜し――要するに事件の決着をつけるまでの時間を稼ぐため、一日伸ばすのが関の山でした」
「ですわね。……それっぽっちですわ」
「ええ。しかしサキュバスさんにとっては、この一日が大事だったのです」
「……何かありましたの?」
セイレーンはサキュバス――ドロシーステラに目線を送るが、人形のように動かない彼女が反応を寄越すことはなかった。
小さくため息をついて、失礼、とセイレーンはアイリスに向き直る。
「今日この日は、空白の一日になるはずでした」
「空白だと?」
「サキュバスさんにとっては、です。陛下の秘書であった彼女は、その葬儀の取り仕切りを行う責務があります。また、使節団が到着すれば、やはり陛下の名代として接待の矢面に立たざるを得ない。――この二つに共通することは、陛下が他殺であった場合、多少なりとも延期されるということです。空白の一日が生まれる」
「まあ言われてみればそうですけど、それがそんなに大事ですかね?」
「ええ――なにしろ彼女にとっては、数百年ぶりの休日になる予定だったんですから」
サキュバス――ドロシーステラが魔王の傍付きになってから、今年で三百四十二年になる。
その間彼女は、一日も休まず働いてきた。魔王がそうしろと強制したわけではないが、他の誰にも任せたくなかったし、なにより、王自身が休むことなく王であり続けるならば、自分もまたそれに従おうと思ってきた。
苦しいとは、思っていなかったはずだった。
だがあの日――朝の支度のために部屋を訪れ、返事がないことを不審に思い、結界がないことに驚きながら部屋に入ったあの日。魔王の秘書という肩書が過去形になり、ほんのひと時だけかもしれないけれど、何者でもないただのサキュバスに戻ったあの日。
ふと、思いついてしまった。
――『何もない日』が、作れるのでは?
理性が欲求を抑え込むより早く、彼女は具体的な行動に移ってしまっていた。
頭の芯が、甘ったるい痺れに喜んでいた。
「……そんな」
「下らない、というつもりは、私にはありません」
アイリスはサキュバス――ドロシーステラを見つめながら、どことなく優しげに言葉を紡いだ。
「一日だけでいい。いや、一晩だけでいい。ほんの少しだけ、何も考えずに過ごしたい――そう思ったことは、私にもありますから」
「……」
「貴女はただ、行動を間違えたんです。ほんの一言、生きている陛下に『明日は休んでもいいですか』というだけでよかった。それだけで貴女は心の底で望んでいたものを手に入れられたはずだった。裏切者の汚名を着せられることはなかった」
「……」
ゆっくりと。
ドロシーステラは顔を上げた。
「……アイリス様。一つだけ、訂正をお許しいただけませんか」
「ええ。伺いましょう」
「私めはあの時、休みたいと願ったのではございません」
湖面に波紋が広がるように。
彼女の声は、部屋の中で穏やかに響いた。
「ただ――悲しむ時間が、欲しかったのでございます」
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