第35話 気風がいい

 そして続けた。

「これが全部って訳じゃないんだ。まだまだ沢山たくさんあるからいつでも見に来ていいよ。持って帰って写しても構わねぇ。分からねぇとこがあったら何時いつでも聞いてくんな。知ってる限りの事は話すから」

 その日の無尽講むじんこうは何時になくにぎやかなうたげになった。誰もがなかなか帰ろうとしなかった。下手へた今様いまよう幸若舞こうわかまいを踊り、歌舞伎役者かぶきやくしゃ真似まねをして笑いを取る者までも現れて、やいだ初夏しょかの夜はけていった。


「それでは、あっしもこのあたりでおとましやす」

 義三は、佐吉と富五郎に挨拶あいさつをすると席を立った。

「ああ、気付けて帰れよ。今日は無尽講落とした金持ってるんだからな。地震以来何かと物騒ぶっそうだ。提灯持ちょうちんもって呑気のんきに歩いているとバッサリやられるぞ。小走こばしりで帰るんだ。分かったな」

 富五郎が声をかけたのだ。実際、地震以来、強盗の類が後を絶たなかった。富五郎ならずとも昨今の夜道が心配なのは誰も同じだった。

「へい、分かりやした。足にはちょいとばかし自信があるんで、すっ飛ばして帰りまさぁ」

 義三は、自らの太腿ふとももあたりをたたきながら頭を下げて部屋を出て行った。


「四代目、本当によろしいんですかい」

 二人っきりになって、改めて富五郎が聞いてきた。富五郎は、佐吉の本心を確かめたくて最後まで残っていたのだ。

「ああ、本当にいいんだ。今日言ったのはなしの本音ほんねだよ。あの図面はおいらには荷が重過ぎるんだよ」

 佐吉は、躊躇ちゅうちょう事も無く答えた。

「四代目が納得なっとくづくでの事なら、あっしは口ははさみやせんが」

 それでも、富五郎は何か言いたげであった。

「富五郎さん、おいらは、人にはもって生まれた『』ってもんがあることがやっと分かったんだ。浅草寺のことだって、本当のところ普請を外されて富五郎さんに任せた時、正直言って、ほっとしたんだよ。あんな大きな普請はおいらにとっちゃ分不相応ぶんふそうおうなものだった。実際、毎日、胃がキリキリいたんでめしのどを通らなかったんだ。土佐屋の四代目としちゃ情けないが、それがおいらの『分』なんだから仕方が無いってもんよ」

「………」

 富五郎は、黙って聞いていた。

 佐吉は続けた。

「実は、このところの評判で普請の依頼がたくさん来てるんだ。皆断ってはいるんだけど、先様さきさまはなかなか引いちゃくれねぇ。ありがてぇ事なんだが、おいらには無理だってことはおいら自身がが一番よく知っている。そこでだ、先様に納得してもらって土佐屋の一党でなんとかできねぇかと考えたんだ。土佐屋一党がさかえてれりゃ先代も喜んでくれるんじゃないかと思うんだ。四代目の土佐屋ははこのまま細々と続けて行くよ。一時の評判に気を良くして分を越えたことをしたりすりゃ、つぶれて夜逃よにげげ何て始末しまつになりかねないし、そんな事になるよりはよっぽどましだよ」

 佐吉は、思いのたけを語りながら妙な清々すがすがしさを感じていた。

「納得しやした。そこまで考えての事でしたら、あっしはもう口を挟みません。それにしても四代目は、やっぱり江戸っ子だ。気風きっぷがいいや」

 富五郎は、初めて晴々はればらしい顔をした。

「富五郎さんの『気風がいいや』ってのには、いつもやられちまうね」

 富五郎は、人をめる時には『気風がいいや』と云うのが口癖くちぐせである。分かってはいても、この言葉を聞くと誰もが気分が良くなるのだが、今宵の佐吉も同じだった。

 初夏の日の出は早い。外はすで白々しらしらけかけていた。佐吉は縁側に立つと、東の空を見上げ静かに手を合わせた。

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