第8話 喧嘩

 佐吉は、梅二が豊三の元を飛び出して以来、二度ほど会ったことがある。一度目は、飛び出して一年も経ない時だった。遠縁の爺さんが死んだと云うので通夜に顔を出した帰りだった。小腹こばらいたので何か食おうかと饂飩屋うどんやに入りかけた時に、食べ終わって出て来た梅二とばったり出会ったのだ。

「こりゃ佐吉兄さん、お久しぶりで」

 梅二はかなり酔っていた。

「お美代ちゃんと所帯しょたいを持ったそうでおめでとうござんす」

「ああ、ありだとよ」

「お美代ちゃん、いい腰付こしつきしてたもんね。毎晩楽しみでやんしょ」

 梅二は酒臭い口を近づけてからかった。

「梅二、お前ぇ何が云いてぇんだ」

 佐吉は声を荒げ、梅二の胸倉むなぐらつかんで引き寄せた。佐吉の大声に饂飩屋うどんやの客がどっと出て来た。

喧嘩けんかだ、喧嘩だ」

 たちまち二人は大勢に囲まれた。佐吉は、それを見て我に帰り、梅二から手を離した。

「なんでぇ、やらねぇのかい」

 野次馬やじうまはやてる。喧嘩が三度の飯より好きだという江戸っ子の気風である。だが、はやしに乗るほど佐吉は馬鹿ではなかった。

「なんでぇ、いつまでも兄貴風あにきかぜ吹かしやがって、おめえの腕なんざ、俺はとっくに抜いてんだぞ。畜生」

 台詞せりふを残して梅二は去って行った。梅二のりは遊び人風で、どう見てもまっとうな仕事をしている様ではなかった。


 ちなみに、江戸と云えば『饂飩うどん』よりも『蕎麦そば』の町としての印象が強い。だが、江戸で『蕎麦』が食されるようになるのは、これよりも時代が下って元禄末期の事である。それも、所謂『蕎麦団子そばだんご』であり、『蕎麦切そばきり』ではない。時代劇に出てくる『夜泣き蕎麦屋よなきぞばや』が登場するのは、さらに時代が下り文化文政の頃になって、やっと『蕎麦切り』が登場する。この物語の時代は三代将軍家光の寛永年間であるから、江戸で食されているのは麺類と云えば『饂飩』であり、それも現在の名古屋名物『きしめん』に近いものだったと想像される。

 このことからは、元禄時代の事件を扱った物語講談、忠臣蔵に出て来る『夜泣き蕎麦屋あたり屋十助』に身を隠し吉良邸の内情を探る杉野十兵衛すぎのじゅうべいの話、また、討ち入りの日に二階に集結したという話は、残念ながらでっち上げということになるのだが、現在の忠臣蔵が完成したのは文化文政の頃だったので仕方ないと云えば仕方がない。やはり、やりの名手・俵星玄番たわらぼしげんばが、吉良邸に討ち入る杉野十兵衛を見るなり『おう、饂飩屋か』と声を掛けたので台詞せりふがしまらない。此処は『おう、蕎麦屋か』ではいけないだろう。

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