第7話 豊三の卒中

 江戸時代前期、歴史的には何のかわりもなく流れていると思われるこの時代においても、個々の人々の上には、世の浮き沈みは容赦ようしゃなく訪れていた。

 佐吉はお美代の婿むことなった。それからはしばらく何事も順調で、三人の子宝こだからにも恵まれた。

 仕事の方もお美代と所帯を持った翌年、三代将軍徳川家光の威信をかけた日光東照宮の大改築が始まりその多くを豊三が請け負ったので、てんてこ舞いの忙しさだった。日光と江戸の往復も何度もしたし、何月も泊まり込んでの仕事もした。

 だが、その無理がったのか、豊三が卒中で倒れてしまったのだ。東照宮の仕事もほぼ一段落した頃だった。大黒柱が倒れてしまったことは痛かった。東照宮の大改築の後は、さすがの幕府も財政が底を突きかけていた。幕府の改革という名の引き締め政策が行えるようになって、徐々に仕事は減ってきた。宮大工は、無論、神社・仏閣を造る仕事である。神社・仏閣は、ある意味では現実の生活には直接のないものであるから、まず、これらにかかる予算が減ずられるのは、至極当然しごくとうぜんの成り行きである。

 御多分ごたぶんれず、最初に皺寄しわよせが来たのが、佐吉たちの仕事だった。佐吉は、仕事を選ばず働いた。宮大工の四代目としての誇りも半ば捨てていた。食うためには、どうのこうのとは言ってられない状況だったのである。赤字覚悟で落札したこともある。当然、土佐屋の米櫃こめびつには金はほとんど残っていない。

 だが、江戸の宮大工の中で一軒だけ特別に繁盛している棚があった。それは、木曽きそ屋と云う名の梅二の棚であった。引き締めの最中とは言え仕事が無い分けではない。大名家の菩提寺や大きな神社・仏閣の工事も少なくなったとはいえ、そこそこあった。それらのほとんどを木曽屋のところが請け負っていた。佐吉は気にならないと言ったらうそになった。やはり、同じ職人としてうらましくもあり、嫉妬心しっとしんいた。だが、大きな仕事を受ける余力は佐吉にはもう残っていなかった。また、梅二の仕事は抜かりのないもので、実際に出来上がったものを見ても、文句の付けようのないものばかりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る