第一章 第三話 森の奥へ
森の奥は、やはりいつもの場所とは異なっていた。木々の幹は一層太く、まるで長い年月を重ねた賢者たちのような威厳を放っていた。風が木々の間をすり抜ける音さえ、何か古い歌を唄っているように思える。木漏れ日はあちらこちらで地面に模様を描き、足元に咲く小さな花々は、まるで森そのものが私たちを歓迎しているかのように揺れていた。
フランシアは少し先を歩きながら、振り返って笑った。
「ねえ、ここに座って。」
彼女が指さしたのは、どっしりとした大きな切り株だった。私は少しだけ警戒しながら腰を下ろすと、切り株のひんやりとした感触が背中に伝わってきた。フランシアはその前に立ち、静かに目を閉じると深呼吸をした。
「ここはね、この森の集会所みたいな場所なの。」
「集会所?」
「そうよ。森の木々は根っこでみんな繋がっていて、その中心がここなの。静かに耳を澄ませてみて。」
彼女の言葉に従って目を閉じ、耳を澄ませる。最初は風の音だけが耳を満たしていたが、やがて不思議な音が聞こえ始めた。それは、木々の幹が微かに軋む音、葉が擦れ合う音、さらに地面の奥底から伝わる低い震え。これらがまるでひとつの楽章を奏でるように重なり合っていた。
「これが…森の声?」
私がそう尋ねると、フランシアは目を開けて微笑み、嬉しそうに頷いた。
「そう。木も草も、みんな生きているの。そして、森の中ではみんなで話し合っているのよ。」
私は言葉を失った。だが、耳を澄ませているうちに、それが単なる音ではなく、何か抽象的な概念や感情として直接頭に伝わってきていることに気づいた。まるで言葉を持たない者たちが、その代わりに心そのものを伝えようとしているかのようだった。
「でも、どうして僕にこれを教えるんですか?」
フランシアは木漏れ日の中で一瞬黙り込み、ふっと微笑んだ。
「あなたはね、森に嫌われていないから。」
その言葉に戸惑いを覚えた。
「僕は木を切っているんだ。それなのに森に嫌われていない?」
「そうよ。あなたは木を切るとき、いつも祈っているでしょう?感謝の気持ちを込めて。」
彼女の言葉で、私は幼い頃から続けてきた習慣を思い出した。木を切る前や薪にする前に、両親に教えられた通り「ありがとう」と手を合わせて祈る。それが、いつの間にかただの形式に感じられていたことを思い出して、少しだけ胸が痛んだ。
「それが森にとってはとても大事なことなの。」
その日から、私は斧を振り下ろすたびに、それまで以上に木々を見つめるようになった。樹皮の模様が何か古い文字のように思えることもあれば、切り株から立ち昇る蒸気が、まるで木の魂が立ち去っていく姿のように感じられることもあった。
フランシアはそれからも何度か私を森の奥へ連れていき、いくつもの秘密を教えてくれた。どの木がどんな声を持っているのか、どの花が夜になると開くのか、どんな草が薬草として使えるのか。彼女が教えることすべてが、どこか物語のようで、私は彼女と過ごす時間が特別なものに思え始めていた。
ある日、彼女はぽつりと言った。
「ねえ、この森は人間の森じゃないのよ。」
「人間の森じゃない?じゃあ、誰のです?」
「この森は、森自身のもの。人間はただ借りているだけなの。でも、ほとんどの人はそれを忘れてしまっているの。」
その言葉は不思議と胸に残った。斧を振り下ろすたびに、そして切り倒した木を薪にするたびに、彼女の言葉が脳裏をよぎるようになった。
木を切る音が響くたびに、森がほんの少しだけ黙り込むような気がした。それは怒りではなく、悲しみでもない。ただ「理解してほしい」という静かな願いに思えた。
私は次第に、自分がしていることの意味を考え始めた。そして同時に、フランシアという少女がただの人間ではないのではないかという疑念が頭をよぎるようになった。彼女の笑顔、声、そして森の中での振る舞いすべてが、この場所と溶け合っている。まるで、彼女そのものが森の一部であるかのように。
だが、そんな疑念もまた、森の静かな声に溶かされていくようだった。私はただ、彼女のそばにいると、不思議な安心感に包まれていた。
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