第一章 第二話 森にて
次の日、森の中はいつもと違った空気に包まれていた。空は低く曇り、冷たい風が木々の間をすり抜けるたびに葉の音がかすかに響いていた。私はいつものように斧を手にし、倒れかけた木の幹に力を込めて振り下ろしていた。
その瞬間、背後から彼女の声がした。
「また木を切っているのね。」
振り返ると、フランシアが木の幹に寄りかかっていた。風に揺れる彼女の紺碧の髪と、青く澄んだ瞳が印象的だった。だが、その瞳にはどこか翳りが見えた。私を見つめるその視線は、暖かさと冷たさが入り混じった奇妙なものだった。
「僕の仕事ですからね。薪を売らないと冬を越せません。」
私は斧を地面に突き刺し、少しだけ肩をすくめながら答えた。彼女は少し歩み寄り、私の顔をじっと見つめた。
「それでも、木を切るときに何も感じないの?」
その問いは、どこか遠くから響いてくるような不思議な響きを持っていた。まるで森そのものが彼女を通じて語りかけているかのようだった。
「感じる?何を?」
「痛みとか。」
「木が痛がるなんて、考えたこともありませんよ。」
彼女は静かにため息をつき、小さな声で「そう」とだけ呟いた。その言葉の中には、深い悲しみと諦めのようなものが含まれていた。私はなぜ彼女がそこまで木々を気にかけるのか理解できなかった。
すると、彼女は急に顔を上げ、不意にこう言った。
「少しだけ付き合ってくれる?」
「付き合うって、何をです?」
「教えたいことがあるの。」
彼女の声はどこか確信に満ちていた。私は答える間もなく、彼女に手を取られた。その手は細くて暖かかったが、少し冷えた風の中でまるで命そのものを握りしめているようにも感じられた。
「この森の奥、まだ行ったことないでしょう?」
彼女の言葉には、私の知らない森の秘密を内包しているような響きがあった。私は戸惑いながらも、どこか引き込まれるようにその手を握り返した。
その瞬間、森が静かに息を吸い込むように感じられた。木々のざわめきは一層静まり、遠くの鳥の鳴き声さえも聞こえなくなった。周囲の空気が少し重くなり、私は思わず斧の柄を握りしめた。
振り返ると、切り倒した木の切り株から細い煙のようなものが立ち昇っているのが見えた。それはただの蒸気かもしれないが、どこか生き物の吐息のようにも見えた。私はその煙が一瞬だけ形を持ち、まるで何かを伝えようとしているかのように揺れた気がした。
森の奥に向かうその道すがら、私はふと彼女の背中を見つめながら思った。彼女が言う「教えたいこと」とは何なのか。そして、なぜ木々に対してそこまでの思いを抱くのか。それは単なる自然への愛情以上の何かが隠されているように思えた。
だが、同時に胸の奥で奇妙な感覚が膨らんでいた。斧を振り下ろすたびに感じていた、薄暗い罪悪感のようなもの。私が否定し続けてきたそれは、彼女の言葉に触れるたび、少しずつ形を持ち始めていた。
森の奥には何があるのか。彼女が言う「命」とは何なのか。それを知ることは、私の信仰そのものを揺るがすことになるのかもしれない。だが、それでも私はその手を離さなかった。森が語らない以上、私たちが語るしかないのだ。
私は戸惑いながらも頷いた。森の奥には危険が潜んでいると村で教えられていたからだ。しかし、フランシアの手はしっかりと私を引いていた。
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