第一章 第四話 祈り
私はあれから朝あの森の大きな切り株のところまで行って祈りをするのが日課になっていた、夜明けの静かな気配を感じながら、一人膝を降り、目を閉じてその空気に身を溶かしていると、不思議と心が透き通る様だった。
やがて日が昇り、森の隙間から差し込む光は、まるで天井から降りる金色の柱のように一本の筋を成し、私を優しく包み込む。そしてその光が指すたび、私は主の存在を感じる。
「ねえ、もう立って。」
その声は、静かな朝霧の中をすり抜ける風のようで、私の心を驚かせもし、慰めもした。彼女の手は温かく、確かだった。
「何をそんなに祈ってるの?」
彼女の問いに、私はさも当然の様に答えた。
「私は敬虔な信徒ですから、主に感謝を。」
彼女は少し微笑んで、木々を見上げた。
「植物に命があるって教えたのに、まだ信仰を捨ててないんだ。」
彼女の言葉は静かだったが、その響きは私の胸の奥をかすめていった。
私は切り株の上に置いた手を少し握りしめながら、目の前に広がる森を見つめた。木々の影が揺れ、朝の光が葉の隙間をくぐり抜けている。その光景は、私の中の迷いにそっと触れるようだった。
「信仰を捨てる…そんなこと、考えたこともないよ。」
私がそう答えると、彼女は足元の草を指先でなぞりながら、ふっと微笑んだ。
「でもさ、祈りって何だろう?君がその言葉を紡ぐたびに、私はその意味を考えずにはいられないの。」
彼女の声は、森に漂う朝露のように澄んでいて、その言葉にどこか儚さが滲んでいた。
私は少しだけ考えてから答えた。
「祈りは、主に私はここにいるということを宣言している様なものだと思います。」
彼女はその答えを聞くと、目を閉じて小さく息をついた。そして、切り株に腰を下ろしながら言った。
「それなら、祈ること自体が君の信仰なんだね。でも、私は思うの。祈りが本当に届く相手は主なんかじゃないんじゃないかって。」
「どういうこと?」
私は驚いて彼女の顔を見た。
「ねえ、君も知ってるでしょ。この森の木々が君の声にそっと耳を傾けていることを。土が君の足音を覚えていることを。光が君の肩を照らし、葉の影が君の思いを包み込むことを。」
彼女はゆっくりと目を開け、私を見つめた。その瞳には、森そのものが映り込んでいるようだった。
「君の祈りは、この森のすべてに届いてる。君が何か大きな存在とつながりたいと思うなら、主なんかじゃなくて、この場所そのものを感じてみればいい。」
その言葉に、私は一瞬言葉を失った。風が木々を揺らし、鳥たちの小さな声が遠くで響いていた。彼女の言葉は、まるでこの森のささやきそのもののようだった。
「それでも僕は、主の存在を信じたい。」
そう言いながら、私は自分の胸の中にわずかな迷いが生まれたことを感じていた。
彼女は私のその迷いを見透かすように微笑むと、そっと立ち上がった。そして、木漏れ日の中に一歩踏み出しながら言った。
「いつか君も気づくよ。この森の声が君に何を語りかけているのかを。そして、その時には、祈りの意味がもっと広がるはずだよ。」
彼女の背中を見送りながら、私は切り株にそっと手を置いた。彼女の言葉は心に刺さりながらも、どこか納得できない部分が残っていた。森は確かに美しく、そして力強い。しかし、それが私の祈りを受け止める何かだとはどうしても思えなかった。
祈りの先には主がいる——その思いは揺るがない。主がすべてを創り、私たちにこの世界を与えた。その恩恵の一つが、この森なのだと私は考える。それならば、森そのものに感謝を捧げることも、主への信仰の一部ではないだろうか。
ふと見上げると、木漏れ日が再び一本の筋となって私の肩を照らしていた。柔らかな光が暖かく、私は自然と目を閉じた。
「主よ、私はあなたを信じ続けます。この森も、この空も、この地も、すべてあなたの創られたものです。」
私の声は森の中に静かに響き、消えていった。
彼女の言葉には彼女なりの真実があった。私が感じる畏敬の念や感謝は、確かに森そのものへのものかもしれない。しかし、私はそれを主の存在と切り離すことはできない。なぜなら、森の美しさも、その中に宿る命も、すべて主の創造の一部だと信じているからだ。
「この森は語りかけたりはしない。ただそこにあるだけだ。それでも、私がこの森に感謝することは、主への感謝と同じことだ。」
自分にそう言い聞かせると、不思議と心が軽くなった。森に祈りを捧げることも、主への信仰の一部として受け入れられる気がしたのだ。
立ち上がると、朝の光が全身を包み込むように感じられた。彼女の言葉が私の中に小さな変化をもたらしたのは確かだった。しかし、その変化は信仰を揺るがすものではなく、むしろ信仰を深めるものだった。
「主よ、あなたが与えてくださったこの森と、その中で生きるすべてのものに感謝します。」
その言葉を口にしながら、私は森の奥へと一歩踏み出した。木々のざわめきが微かに聞こえる中、私の心は確かに静かだった。そして、光の筋の中で祈りを続けることで、私はこれからも主と、この世界と向き合っていくのだろうと思った。
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