第16話 王の理性も限界値?

 バタアアン! 壊れそうな勢いで扉が開いたのは、変身薬を舐めたオルリアが小さな狼に変身してすぐのことだった。


 さっと彼を胸の前に抱き上げると、エルナに気付いたレオッカが眉を吊り上げる。

 彼女の足元にはしっぽを太くした三匹のシャドラが食い下がり、アーリャが困ったように様子を窺っている。


 すると、いきなりエルナを指差したレオッカは悪鬼の如き表情で叫んだ。


「この泥棒女! レオッカのオルリア様を奪おうだなんて薬師の分際で最低よ!」

「ごきげんよう、ご令嬢。いきなり大胆な挨拶で。私に何か御用ですか?」

「白々しい……っ! オルリア様をどこにやったのよ!」


 ブンブンと首が痛くなりそうな勢いで周囲を見回し、レオッカは縦ロールの金髪ツインテを振り回す。だがオルリアがいないことに気付くとさらに機嫌を悪くして、


「今すぐ彼を返しなさい! 平民の分際で王をたぶらかすなんて許されないんだから!」

「どこも何も、彼はここにはおられない。ここは私とペットたちとの寝室だ。王が何をしに来ると言う? 何なら自由に見て回って構いませぬ。お目汚しとならなければ、ですが」


 出来るだけ逆撫でしないよう一礼し、予想以上に大爆発を起こしているレオッカに、エルナは冷静を装った。

 本当はこういう高圧的で傲慢で決めつけの激しい貴族は殊更嫌いなのだが、表に出せばより面倒なことになるだろう。


 内心の恐怖を隠すように、エルナはぎゅっと小さな狼を抱きしめる。


 オルリアの髪に似た白銀の狼は、密着する体にピクリと震え、何か言いたげに「グルル……」と鳴いた。

 落ち着かない様子でふさふさのしっぽを垂らす彼は、懸命にこの状況に耐えているようだ。


「……チッ、確かに今は誰もいないようね。だけどレオッカは確かに見たの。オルリア様が夜にこの塔へ入るのを。王たる彼がたかが薬師でも女の元へ通うなんて、あってはならないことだわ。彼の妃に相応しいのは、この高貴で美しいレオッカなんだから!」

「む……。心配せずとも、私と彼には薬師と患者以外の関係はないよ。気が済んだのならお引き取り願いたい」


 そう言って、無駄にを強調するレオッカは、フン鼻を鳴らして胸を張った。

 これまでも陰険な嫌がらせをしてくるような彼女が高貴かどうかは分からないが、確かに見目は美しい分類には入るだろう。

 エルナとしてはだから何だ、なのだが、あくまで逆撫では御法度だ。

 面倒な事態になるのは避けようと、もう一度こうべを垂れる。


「フン! とにかく忠告したわ! もし何かあれば訴えてやるんだから!」


 すると、それ以上何も言わないエルナをつまらないと思ったのか、きつい視線を浴びせたレオッカは荒々しく部屋を去って行った――。





「はぁ。面倒だな。逃げたい」


 様子を窺っていたアーリャの心配げな眼差しに頷き、扉が閉まるのを確認したエルナは、パタンという音と共に狼を抱っこしたまま近くのベッドに腰を下ろした。


 喚き散らすレオッカの言葉は正直ストレスでしかない。

 思わず深いため息が漏れる。


 と、そのとき。

 再びぽんという音がして、変身薬の効果が切れたらしいオルリアが元に戻った。

 だが、無意識に狼と向き合う形で頭をなでなでしていたエルナは、重さに耐えきれず押し倒されてしまって……。


「まったく、私を猫と同じように扱うとは、良い度胸だなエルナ」


 目を開けると、オルリアが上から自分を覗き込んでいた。

 長い髪が頬に触れ、くすぐったい。

 だがそれ以上の問題点に、エルナはすぐさま手で顔を覆うと、困ったように呟いた。


「オルリア、きみの文句はあとで聞く。だから一先ひとまず、服を着てくれ……!」


 動物に変身していた以上仕方ないのだが、彼の服は変身薬を舐めた地点に放置されたままだ。その状態で覗き込まれるのは流石に恥ずかしい。

 乙女らしく声を絞り出すと、やや間があって頭上から気配が消えた。

 近くから衣擦れの音が聞こえ、ちゃんと整えようとしているのだと思う。


 それでも、程よく筋肉がついた胸や肩のあたりが視界に入ってしまったエルナは、どうしたらいいか分からず、じっと動かない。

 薬師として、人の上裸くらい診察のために見たことがあるはずなのに、なぜかとてもどきどきしていた。





「……もういいぞエルナ。手をどけてくれ」


 ミイラのようにじーっと動かないまま沈黙するエルナに再び声がかかったのは、それから五分ほど後のことだった。

 そろりと手を外して見ると、なぜか先程と同じ位置に、服を着た彼がいる。

 エルナを覗き込んだ体勢から再スタートする必要性は微塵もないと思うのだが、彼は何がしたいのだろう。


「してエルナ。色々聞きたいことはあるが、まずあの変身薬の効果は何だ。てっきり通常サイズの動物になるかと思っていたぞ」

「それは……私の薬が未熟だったのだろう。でも、モフモフしていてかわいかった」

「それもそれで問題だ。たとえ体が小狼になろうとも私は私なのだぞ。あんなことをされて、理性が持つと思うか?」


 ぐいと腕を曲げて顔を近付け、オルリアは彼女に詰め寄る。

 エルナはただ距離の近さに戸惑っているだけのようだが、胸の前でぎゅっと抱きしめられていた以上、その感触ははっきりと残っていて。

 柔らかなそれに、我慢していたものが崩れそうになる。


「だが、ああしなければ困っただろう。万が一あのご令嬢に目をつけられたり、必要以上に探られないようにするためにも、ペットを印象付けるのは大事だった」

「それも否定はしまい。だが同時にお前は相手の心情を考えるべきだったのだ。今ここで無理強いしない私を褒めて欲しいものだぞ」

「……?」


 今にも額が触れそうな距離でエルナをじっと見つめ、オルリアは眉根を寄せる。

 相変わらずエルナには上手く伝わっていないようだが、邪魔だと蹴飛ばされないのをいいことに、もう少しだけ近付きたいと思ってしまった。


 彼女が無意識にでも、オルリアを受け入れようとしているなら万々歳だ。

 ふわりとした甘い香りに酔いながら、柔らかな頬に唇で触れる。

 咄嗟に目を瞑る彼女に、理性の欠片が零れ落ちそうになるのを我慢して、頬にもう一度。


 少しでも彼女の心が甘く溶けてくれたなら……。

 願いを込め見つめていると、不意にオルリアの視界が揺らいだ。急速な眠気に襲われるような感覚に、力が抜けて。


「うっ」

「……!」


 ついにどさりと倒れ込んでしまう。


(……副作用か。咄嗟だったとはいえ、初めて作った薬をいきなり人に舐めてもらうのはまずかったかもしれん)


 ギリギリで顔を背け、首筋にかかる吐息にくすぐったさを覚えながら、エルナは心の中でひとりごちる。

 取りえず呼吸も脈拍も正常のようだし、薬の残り香が眠気を引き起こしているだけだろう。

 確認した後で、自在に大きさを変えられるよう成長した虎シャドラのマーティに手伝ってもらい、エルナはよいしょと彼を転がす。

 長い髪がさらりと広がって、弧を描いた。


「まったく、私の薬のせいだが世話が焼ける。……それにしても」


(どうして私は、あんなに近くを許していたのだろう。今までなら即座に文句を言うか、風の精霊に願って強制退場させていたのに。話なら、起き上がってからの方がしやすいだろうに。解せん……)


 目を閉じると殊更目立つ長い睫毛と整った相貌を見つめ、頬を膨らます。

 今日は薬屋でコーウェルに恋人に近い存在と間違われ、さらに子供たちに旦那だと揶揄からかわれ、そのうえレオッカに王を誑かしていると指摘されたことが影響しているのかもしれない。


 まだ無意識の領域だが、着実に心が傾き始めているのだろう。

 うーんと唸った後で答えを諦めたエルナは、気晴らしにもう一度教科資料を検めようと上半身を起こす。


「どこへ行くのだ?」


 だが、その行動は、気配に気付いたらしいオルリアに手を掴まれ阻止されてしまった。

 うっすらと目を開けた彼は、どこか寂しげにエルナを見ている。


「眠っていていいぞ。私はもう少し実験を……」

「いいや。ここにいてくれ。お前は私の癒しだろう? もう夜も遅い。疲れもある」


 半分夢心地なのか、ぐいと手を引いたオルリアは、彼女を抱き寄せまた眠った。

 これでは添い寝でなく抱き枕だ。普段からこっそりその役目を果たしていることを知らないエルナは、もぞもぞと動く。


 しかし予想以上に力のある腕から逃れることはできなくて……。

 諦めたエルナは、炎の精霊に願い消灯すると目を閉じる。


 その頬は、心なしか赤く染まっているようだった――。





 ――だ。


 翌日。

 エルナに届いていた荷物を渡そうと地下に降りてきたタングリーは、精製室の椅子の上にいるリスに目を瞬いた。


 このリスはもちろん、変身薬をきちんと完成させたエルナだ。

 しかしそんなことを知る由もないタングリーは、どこからか動物が迷い込んだのだと勘違いして、追い出そうと手を伸ばしてくる。

 触れる直前、リスはぴょんと椅子を飛び降りた。


「あっ、コラ待て! 入っちゃダメだぞ」


 口が利けない以上、説明叶わず逃げるしかないと思い、リスは必死に逃げ回った。

 だが追いかけて来るタングリーとの鬼ごっこが数分続き、リスは限界を悟ってベッドに潜り込む。


 諦めないタングリーがベッドの布団を持ち上げようとした途端、ぽんとエルナが元に戻り、タングリーを動転させたことは言うまでもなくて。


「うぉわっ!? えっ、ご、ごごごめん、エルナ! えっ、エルナがリスに!? い、いや、それよりあわわわ、今すぐ退くっ!」


(うーむ。変身薬は課題以外で作るのも服用もやめよう)


 顔を真っ赤にして、ベッドから転がり落ちていくタングリーの言葉を端に、エルナは心から誓った。

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