第3章 炎の魔女は狼王の甘さに戸惑う
第13話 過保護発動
エルナが薬師として王宮に招かれてから、二ヶ月が経った。
三度目の満月を越えたオルリアは今、廊下を忙しなく歩きながら従者に指示を出している。
薬とエルナのおかげで精神と症状も安定し、今ではすっかり王としての風格を取り戻しているようだ。
「南のソレトの経済状況はどうだ。地代を改めさせてひと月、国民たちの生活に変化はあるか?」
「ええ。ジグルス侯爵から報告が上がっておりますよ。後ほど資料をお渡ししますね。また、ご懸念されていた王都の失業者数についてですが、職業
移動時間すらも惜しむように、彼らはてきぱきと情報を共有する。
叔父らが布いた十ヶ月の悪政は相当ひどかったようで、ここ二ヶ月はずっとそのしりぬぐいに追われる日々だ。
一刻も早く正常な国を取り戻さなければと、彼らは心から思っていた。
「オルリア様、もうひとつ報告でございます。来週の王家の夜会についてですが、新国王に是非ともお会いしたいと、
「ああ……」
と、話が途切れたことを悟ったサイウェンは、不意にそう切り出した。
着手しなければいけない事案の多さに追われていたこともあり、オルリアはまだ戴冠式はおろか、貴族たちへの正式な挨拶すら済ませていない。
オルリアにとっては実に一年ぶりの社交。とても気が重い。
「なっ、なんの、おつもりで……!?」
「!」
だが、精一杯務めると言いながら、廊下の角を曲がったそのとき。
言い争うような言葉と共に聞こえてきたのは、耳慣れた彼女の声だった。
驚いて視線を向けると、濃灰色の髪をオールバックにした男がエルナの手を握り、壁際に追い込んでいる姿が見える。
予期せぬ出来事に、オルリアは目を見開いて駆け出した。
「どういうおつもりですか、叔父上」
低い態勢で素早く廊下を駆け、一気に彼との間合いを詰めたオルリアは、鬼気迫るような怒りを宿すと背後から手を掴んで捩じ上げた。
途端広がる冷酷な気配に、振り返った叔父の表情が凍り、視線を逸らされる。
彼の顔には「しまった」の文字がありありと書かれていた。
「女性に、しかも私の薬師に乱暴をしようとはいただけない事態ですね。どういうつもりか、ご説明願えますか?」
「ぐ……っ、なんでもない。邪魔したなっ!」
にこりと笑っていない目で笑み、腕を捻ったまま問うと、叔父は顔を
強引に腕をほどき、エルナを一瞥した叔父は、逃げるように去って行く。
肩の震えには怒りと、一抹の恐怖が混じっているようだ。
「……っ」
「エルナ!」
だがそれを見送り、言及を逡巡したのも束の間。
足元をふらつかせ、今にも
突然の出来事に恐怖したらしく、彼女の顔は随分と青い。慌てて抱きしめると、否定することなく受け入れられてしまった。
普段はオルリアの不安定な精神を
矢継ぎ早に質問が溢れ、彼女の炎の瞳を覗き込む。
「大丈夫か、エルナ? 一体何があった? そもそもなぜ一人でここに? ベリトリス嬢は一緒ではないのか?」
肩を抱き、もう片方の手で頬を撫でると、エルナはようやっと目を瞬く。
目の前にあるオルリアの相貌に、今初めて彼の存在を悟ったのだろう。
慣れつつあるぬくもりに寄りかかったまま放心していたと気付いた彼女は、頬を染めるとしどろもどろに呟いた。
「すまない。びっくりして放心してしまった。私は大丈夫だ。だから……」
「強がる必要はない。怖かったのだろう。何もされてはいないか?」
「……」
まるで涙を拭うように指を滑らせ、オルリアは再度問いかける。
ここ最近の彼は、前にも増して甘くなったように感じていた。
決して仕事を疎かにするわけではないけれど、時間を見つけては東の塔を訪れ、お茶をしたりエルナの宿題や実験を観察したりして日々を過ごす。
ときに妹のラミィを連れ、一緒に庭園の散策をするなど最早契約範囲外だろう。
その度に金貨につられて丸め込まれてはいるのだが、獰猛なはずの狼に懐かれてしまったような感覚に、エルナは戸惑いを覚えていた。
「大丈夫。何もされてはいない。すれ違いざまに腕を掴まれて、きみの症状を詳細に教えろと迫られた。断ったら壁に押し付けられて動転してしまったんだ」
「症状を? 私の弱点でも探るつもりだったのか」
「分からない。でも声を上げたらすぐにきみが来てくれた。ありがとう、オルリア」
叔父の思惑に顔を
助けられる状況には慣れていないのか、もじもじする姿はとても愛らしい。
思わず見惚れていると、彼女は次に後悔を口にした。
「だが、手を煩わせてしまってすまない。もっと慎重に行動すべきだった。私には魔法があるから、普段は一人である程度のことは対処できていたんだ。だけど、
自嘲気味に呟き、彼女はふいと顔を背ける。
彼女が魔女であることは、オルリアとタングリー、そして正体を見破ったサイウェンしか知らない情報だ。彼らに内密にと言った手前、エルナ自身、人前で魔法を使う気はないのだろう。
慰めるように幾度か髪を撫で、オルリアは笑う。
「情けなくなどないさ。お前のことは私が守る。たまには素直に頼るといい。叔父上にはあとで釘をさしておくから」
「ん……」
「それにしてもベリトリス嬢やタングリーは何をしているんだ。こういうときの警護だろうに」
最後の言葉だけ呆れたように付け足し、オルリアは肩を
この場には資料の束を抱え、生暖かい目でこちらを見守るサイウェン以外誰もいない。
アーリャたちは一体何をしているのだろう。
「彼女らを責めないでくれ。私がオルリアへの報告くらいひとりで行けると言ったんだ。実は、勝手に街へ出掛けていたのをアーリャ嬢に見つかってしまって……」
「ん?」
「ちゃんと報告して、馬車で出掛けた方が安全だからと、彼女は馬車の手配をしてくれている」
すると、ここに来てようやく、エルナは王宮の廊下にひとりでいた理由を白状した。
勝手に街まで出ていたとは初耳だが、確かに風の精霊にでも頼めば、人知れず王宮を抜け出して用事を済ませ、帰ってくることくらい造作もないだろう。
彼女が学ぶ魔法基礎の本に、飛行に関する項目があったと聞いていたオルリアは、納得したように話を呑み込む。
だがそれ以上に、オルリアには気になることがあって……。
「街まで何をしに行っているのだ? わざわざ出向かなくても必要なものがあれば何でも用意させる。王都はまだまだ安全とは言い切れない。エルナだけで街を歩かせるのは心配だ」
生活雑貨、薬の精製に必要な備品、果てはドレスや宝飾品まで贈り、彼女が不自由しないよう努めていたはずなのに。何が足りなかったのだろうと言いたげな顔で、オルリアは不安の眼差しを向ける。
過保護かと言いかけて、エルナは大きく首を振った。
「薬屋まで行っているんだ。私の作った薬を売ってもらったり、魔法草を用いない一般の薬について教えてもらったり。あとは薬草も買っているぞ。地域の薬屋と関係を持つのは大事だからな」
「なるほど……」
「それに、店主のコーウェル殿は良い人だ。知識も豊富で意見交換が楽しい」
わくわくと知識欲に溢れた顔で、エルナは理由ごと説明する。
確かに契約を結んだ薬師が、他に仕事をしてはいけない決まりはない。きちんと仕事を取りに行く彼女の行動力には驚嘆だが、最後の言葉はなんとなく許容できなくて。
気付くとオルリアはまた彼女を抱きしめていた。
「まったく、私の前で他の男を褒めるな。嫉妬させたいのか?」
「嫉……? 何を訳の分からないことを。素晴らしい人を褒めるのは当然だろう」
「それでもお前は私の薬師だ。私だけを見ていればいい。今日もそこに行く気なら、一緒に行って、どんな奴か確かめたい」
「街や人を見るのは良いことだと思うが……」
まるで嫉妬深い恋人のような口ぶりに戸惑いながら、エルナはぐいと彼を押しのける。
残念だが正気に戻ってしまったせいか、抱擁は却下されてしまったようだ。
相変わらず見えないフィルターで好意を遮断して気付こうとしない彼女に、思わずため息が滲む。
炎の容姿に氷の心を宿す彼女は、どうしたら心を溶かしてくれるだろう。
(いっそ私の恋人にと言いたいところだが、彼女の心や過去を知らぬうちに不用意な行動はできない。早々に彼女が言っていた「王宮に招かれ、その後壮絶な最期を遂げた魔女」の正体を突き止めねば……)
オルリアの安心感が好意に変わるまでは、さほど時間がかからなかった。
けれどエルナのそれには、とてつもなく時間がかかりそうで。暇を見つけては調べを進めているものの、彼女の言う魔女の正体は掴めない。
それでも。
「ふむ。では決まりだ。執務室に資料を置き、準備にかかる。先に行くなよ? ついて参れ」
少しでも傍にいることで糸口と心情の変化を期待して、オルリアは頷く。
やはり過保護になった彼は、エルナを足止めると執務室へ向かって行った。
これは実質デートだろうか。
後ろ姿を見つめたサイウェンは秘かに「ほほ」と笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます