第11話 満月の夜は二人で

 弱さを晒しても構わない。

 あたりまえのように囁く彼女に、オルリアは目を見開いた。


 王族として生まれ、次代の王になるべく育てられてきた彼は、端麗な容姿も相まって常に人から完璧を求められることが多かった。

 女性たちは完璧な理想像をオルリアに乗せ、近付いてくる。


 だがエルナは、弱くてもいいと言ってくれた。


 出逢ったあの日と違い、三日月のようなパールグレイの髪も、宝石と謳われるディープレッド瞳も輝きを取り戻した姿は、文句のつけようがないほど美しいと言うのに。


 薬師として、懸命に寄り添おうとしてくれる姿に、心が惹かれていく。


 唇で額に触れ、そのまま引き寄せたオルリアは彼女の瞳を覗き込んだ。

 今までになく、彼女を欲しいと思ってしまった。

 月明かりの衝動とはまた違う感情に、理性がゆらりと揺れる。


「……そこまでだ」


 だが、求めるがまま唇を近付けた途端、オルリアは伸びてきた指に口を塞がれた。


 ぷにぷにと柔らかい中三本の指が唇に触れ、エルナは赤い顔で力いっぱい押しのける。

 王の顔に遠慮のない行為だと、苦笑が漏れた。


「弱さを受け止めると言った傍から、随分な態度だな。エルナ?」

「むぅ。確かに言ったが、それがキスを受け入れるにはつながらない。百万歩譲って、きみの心身の安寧のため、添い寝は受け入れてもいい。だがそこまでだ。情欲は向けるな」


 仕方なく顔を上げて見下ろすと、エルナは炎の瞳を揺らめかせて明言する。

 言葉の端々に滲む怒気に、彼女の本心が見て取れた。


「好きになってはいけないのか?」


 しかし、今までにないほどあからさまな拒絶に、オルリアは純粋な疑問を彼女に向けた。

 人を受け入れておきながら、自分は受け入れてもらいたくない。

 あたりまえだとエルナは大きく頷いた。


「私は異国の魔女だ。そして、きみが思っているよりもはるかに厄介な血筋だ。私は誰の好意も受ける気はないし、誰かを選ぶことは決してない。……赦されない」

「王族や貴族が嫌いだからか? その割には……」

「平気に見える、か? 私の憎悪には実体験が抜けているからな。私はずっと、祖母に嫌えと教え込まれて育った。そう教え込まれるだけの過去があった……」


 それは思いがけない告白だった。

 過去に何かがあって、異国であるこの地に流れてきたのは察していたけれど、体験を伴わずとも嫌わなければいけないなんて、よほどのことだ。


 彼女は一体……。


「でも結局は、どんな肩書だろうと困っている人を私は放ってはおけない。タングリーのことだって、祖母には必至で貴族であることを隠していた。だからきみのことも精一杯助ける。それで妥協してくれ」

「エルナ……」

「そもそも、私を頼らずともきみの寵愛を受けたい人間などたくさんいるだろう。玄関先で筆頭なんとかと言っていた令嬢とかな」


 最後の言葉だけ悪戯っぽく付け足し、エルナはするりと腕の中から逃れ出る。


 話が逸れてしまったが、今はオルリアが月を恐れる本当の理由を聞いていたのだ。

 話す気がないのなら、これ以上問答していても仕方ないだろう。

 シャドラたちが眠る向かいのソファに腰を下ろすと、オルリアは小さく微笑んだ。


「レオッカか。彼女の言うことは流して構わん。それより、理由を話さねばな」

「無理はしなくていいぞ。誰にだって話したくないことくらいある」


 話しているうちに少しだけ平静を取り戻したのか、それとも完璧に月の見えない地下にいるからなのか。表情を取り戻したオルリアは、許可を得ると彼女の隣に腰かけた。

 長い髪がさらりと揺れて、彼の周囲を美しく彩る。


 気遣いを見せるエルナに首を振ったオルリアは、覚悟と共に語り出した。


「いいや、お前にはすべてを話そう。……私はな、異能を得たあの日、父をこの手に掛けてしまった可能性があるのだ」

「……!」

「正直、記憶はない。だが、私の両手に刻まれた血が、その可能性を示唆していた。生々しくねっとりとした血の感触が、今でもこびりついて離れないんだ……」





 ――そう語るオルリアの脳裏に映るのは、十ヶ月前のこと。

 この日オルリアは、父王と共に庭園の東屋で月見酒をしていた。

 それ自体は時々あることだったが、あの満月の夜は何かが違っていて。


 安全と慢心していた敷地内への急襲に、対応が遅れてしまったのは否定しようもないだろう。


 だが。


 最初の異変は、鼻をくような臭いだった。


 ほんのりと冷たさを帯びた秋の風に乗って異様な香りがしたかと思うと、いきなり狼が低木から飛び出してくる。

 黒みがかった灰色の毛並みに血走った金の瞳。獰猛で、理性を失くしたような姿にオルリアは驚き、父王もグラスを置いて怪訝な顔。敷地内に林はあれど、海に面した王都で狼を見かけるなど、まずありえないことだったのだ。


 そして、ありえない事態に嫌な汗が伝った途端、それは牙をむき出しに駆けだして。

 ダッと地面を蹴り、見事な跳躍を見せた狼は、咄嗟に護身用の短剣を構えるオルリアの腕に噛みつこうとする。


 だが、それを良しとしない彼との攻防が幾度か続き、狼の標的が父王に移ったと気付いた途端、オルリアは無防備に駆けだしていた。

 父を守ろうと、手を伸ばしたのは憶えている。


 だが、その先のことは、記憶からすっぱりと抜け落ちていて。

 何かの衝動に駆られたような気もするが、何をしたのかは覚えていない。


『……?』


 だけど、目を覚ましたオルリアは、血にまみれていた。

 空には太陽が昇り、月はもうどこにもない。

 そして近くにあるのは無残に引き裂かれ、絶命する父王の亡骸だけ。


 指にこびりついた鮮血は、誰のものなのか。

 オルリア自身もひどく怪我をしていたこともあり、この件は王族を狙った殺人事件として大々的な捜査がなされることになった。


 それが今から約十ヶ月前の出来事だ。





「……その翌月、私は誰もいない自室で狼となった。姿見に異形の狼へと変わっていく自分が映り、失せていく理性の狭間で、私は地下へ続く緊急用の脱出口に入り込んだ。おかげで被害は出さずに済んだが、あの日以降、私は恐れのあまりすべてを放棄するようになった……」


 耐え難い苦痛の海を渡るように、震えを懸命に堪えながら、オルリアは語る。


 突然引きこもった王に家臣たちは困惑し、叔父は代理と言って悪政を開始。

 政治が荒れ、国民が困窮し、怒りと失望に「引きこもり冷徹国王」などと呼ばれてなお、彼は動かず閉じこもる。


 自分の異能を恐れたことはもちろんだが、あの姿でまた誰かを傷つけてしまったら。

 過る可能性に勇気だけが萎んでいった。



「これが全貌と私が月を恐れる理由だ。我ながら怯えて手も足も出ないとは情けなく思う。だが、誰にも相談などできなんだ。お前だから、話したんだ……」


 ふぅと深く息を吐き、彼は口を引き結ぶ。

 話を聞いたエルナは、非難するでも嫌悪するでもなく平静と頷いた。


 きっと、こんな風に話を聞いてくれるのは彼女だけだろう。また感情が疼いて、オルリアはエルナに手を伸ばす。


「よく分かったよ、オルリア。それはとても辛い思いをしたな。確かに、その状況ではきみの無実を証明するのは難しいだろう」

「……」

「だが、人を傷つけまいと自分を恐れられるのは立派だ。おかげで他に被害はなかったんだ。きみのことは私が救う。決して、死なせはしない」


 最後の言葉をより強調し、エルナは伸ばされた手を握る。


 契約を決めたあの日以降、アイリスクォーツが何かを見せることはなくなった。

 だけどまだ、あの未来を回避できたわけではない。明日からは薬師としての仕事に加え、彼の体に混じった異能を取り除くための方法も模索しよう。


 もう二度と、異端故に断罪されるような事態を避けるために。


「ありがとう、エルナ。私もお前を守ろう。お前が苦しむことがないように、王宮でも平穏と生きられるように。必ず傍で守ってやる。約束だ」


 そう囁いたオルリアは、自分ではなく過去に思いを馳せて顔を顰めたエルナの髪に、もう片方の手を伸ばしていた。胸の辺りまで伸びる彼女の赤毛はふわふわとして柔らかい。

 撫でると、炎のように揺らめいた。


「……」

「…………」



 そこから先はしばらく無言だった。

 聞きたいことは大方聞いてしまったし、あれこれと詮索する気は毛頭ない。

 だが、夜も十時を回ったころ、シャドラたちの欠伸につられて微睡まどろみだしたエルナに、オルリアは微笑んだ。


「そろそろ限界か?」

「ん……。もう寝る。きみは」

「共に」


 立ち上がり、奥に見える天蓋付きのベッドを見遣ると、オルリアはあたりまえと頷いた。

 月が見えないここで眠るつもりなら、エルナはソファか、もしくは上の階に行こうと考えていたのを見破られてしまったらしい。


 百万歩譲って添い寝を受け入れるなど、言わなければよかったかもしれない。


「言っておくが」

「分かっている。お前の過去は根が深そうだ。ゆっくりと溶かしていこう。今日はただ私の傍で私の癒しとなってほしい」


 心の中で一人後悔を乗せ口を開くと、オルリアは心得ているとばかりに咲笑う。

 たとえどれだけ欲しくても、望まないものを無理強いするのは違うだろう。

 これまで求められるばかりで、求めることなどほとんどなかった彼でも、それくらいは分かる。


 なら今は、彼女が安心して暮らせる環境を、少しでも共に居られる日々を優先したい。


 二人で寄り添い、ただ不安な夜を乗り越えよう。

 満月の夜も、その次の夜もずっと……。


 大きなため息と共に頷き、着替えると出ていく彼女を見送ったオルリアは、顛末を見守るシャドラたちに視線を向ける。


「……お前たちの主人は、どうしたら私に心を見せてくれるかな」


 みゃあと鳴く彼らを見つめる瞳には、確かな決意が宿っていた。

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