第5話 契約と約束を結んで
ふわぁ、という大欠伸と共にタングリーが起きると、室内には朝日が降り注いでいた。
久々の雑魚寝は身体が痛くなるものの、エルナの魔法と風の精霊によって空調管理された屋内は、夏であっても快適だ。
懐中時計を見ると、朝七時を指していた。
「起きたか、タングリー」
すると、不意に玄関が開いて、
作業がしやすいよう、ブーツがほんの少し覗く丈のドレスには、クリーム色のリボンがついている。見慣れた貴族令嬢たちのような華美な服装ではないけれど、かわいい、とタングリーは心の中で呟いた。
「おはようエルナ。随分早いが、出掛けていたのか?」
「ああ。誰かさんたちが居座るせいで食料が枯渇したのでな。街の市場まで行ってきた。朝食くらい食べるだろう? そこの寝惚けている国王殿を起こしてくれ」
後ろ手に玄関を閉め、一直線にキッチンスペースへ向かったエルナは、抱えたバスケットを見せると、タングリー経由でオルリアに目を向けた。
仰向けでソファに横たわり寝息を立てる彼の胸には、黒シャドラのクリュエが乗っている。一度は喧嘩した仲だと言うのに、オルリアを気に入ったのだろうか。
「起こして大丈夫なのか? 疲労で力尽きたんだ。自然に起きるまで待った方が……」
「夜中にあれだけできれば問題ない」
「え」
「それに体を回復させるためにも、食べてもらった方がいい。口に合わんなどという文句は受けつけないが」
寝息に合わせ微かに上下するクリュエから目を逸らしたエルナは、バスケットから新鮮な卵やミルク、パンなどを取り出すと、どこか不機嫌そうに昨夜のことを回顧する。
やっぱりあんな話、しなければよかったと一抹の不満が疼いていた。
「え、夜中、何してたの……? え? まさか……」
一方、昨夜のやり取りなど知る由もないタングリーは、妙に焦った様子で呟いた。
不審な挙動にエルナは首を傾げたものの、彼の視線は一心にオルリアに向いている。
と、ピクリと手が動いて、オルリアが自然と目を覚ました。何度か目を瞬いた彼は開口一番、
「ああ、私の胸にいるのはエルナかと思えば、またお前か、猫……」
「は!? お前ら人が寝てる横で何してたの!?」
まるで、追い打ちの如くため息を漏らす。
ソファの上でうーんと伸び、仕方なしにクリュエの背中を撫でた彼は、フンと鼻を鳴らすエルナをまっすぐに見つめていた。
「国王殿よ、寝言は寝て言うものだ」
一方、彼のおかしな物言いに顔を
そして卵を器用に割り、火をつけると、淡々とオムレツを作っていく。流れるような手つきを見るに、慣れているのだろう。
エプロンをつけた後ろ姿を見つめ、オルリアは笑う。
「一度は収まっただろうに」
「あれはきみが急に引っ張るからだ」
「契約の証がよほど気に食わなかったのか?」
「当然。きみのあれは魔法族にとって……いや、これ以上変なことを言うなら、契約書にサインしないからな。口約束だけなら何とでも覆せる」
リスのように頬を膨らませ、エルナは不機嫌になりながら、三人分の朝食を用意する。
白いシンプルな丸皿に、オムレツと
王宮の食事とは比べ物にならないくらい質素だろうが、それでも精一杯を用意してテーブルに並べると、エルナは大きくため息を吐いた。
脳裏に、昨夜の出来事がありありと浮かんでくる。
――昨夜、水晶が見せた残酷な未来に、悩んだ挙句、幾つかの約束と切り出したエルナは、頷くオルリアを見つめ、静かに内容を口にした。
本当は夜が明けてからでもよかったのだが、なんとなく切り上げるタイミングを見失ってしまって。ダイニングの椅子に腰かけ、彼女は
「まず、私が魔女であることは王宮の者たちには黙っていて欲しい。身を偽るリスクもあるが、やはり彼らの反応を考えると怖い。魔女ではなく、ただの薬師としてなら考える」
怖いと呟いた彼女の口調は、先程までと変わらないように見えて微かに震えていた。
気付いたオルリアは彼女の過去の重さを悟って頷く。不用意に言及する気はないが、やはりよほどの事情を抱えているのだろう。
「分かった。私自身、異能は何が何でも隠したい項目だしな。それで王宮に招かれることへのハードルが下がるなら、お前を癒し係の薬師として扱おう」
「癒し係……? まぁ、いい。そして次に。契約期間はきみの体に混じった狼の異能を取り除き、普通の体に戻るまで。ずっと傍にいる気はない」
謎の係りに眉を
「可能なのか、それが」
知識を持たないオルリアは純粋に驚き、身を乗り出すが、正直、成功した事例はない。だが、それが一番確実に未来を回避する方法だ。試してみる必要性はあると思った。
「おそらくな。私よりも数百年と経験のある先生方に意見をもらってみるよ。成功すれば、私はもう必要ない」
「……」
「もちろん、その前に私が魔女だと露見し、身の危険を感じた際には遠慮なく逃げるからそのつもりでいてくれ。私は、……の二の舞にはなりたくない」
可能性を示唆し、最後の言葉を消え入るように付け加えたエルナは寂しげに俯いた。
もしかしたら彼女の言う「王宮に招かれ、その後壮絶な最期を遂げた魔女」とは、エルナにとって近しい存在なのかもしれない。
オルリアはもう一度、分かったと頷いた。
「重要なのは以上の二つ。あと契約金と月々の報酬だが……」
「金は好きなだけくれてやるから安心しろ」
沈黙があったわずか数秒の後。報酬の話を切り出したエルナに、オルリアは心得ているとばかりに咲笑う。
色々条件付きで妥協してもらった分、弾まなければと思っていた。
「違う。報酬は働きに見合った分でいい。私につぎ込むくらいなら、国のために使えと言おうとしたのに。フン」
しかし彼の決めつけに、エルナは不機嫌そうに頬を膨らませた。
金に目がないのは事実でも、時と場合に合わせた分別はあるのだろう。彼女の性格をまたひとつ呑み込んで、自然と笑みが深くなる。
「ほう、渡した二十コルドー金貨をすべて懐にしまうような娘がよく言ったものだ。だが安心しろ。決して不自由はさせない。それより、言いたいことは以上でいいか?」
「ん……」
「ならば私からもひとつ確認だ。お前は私の薬師、私を癒やす存在。心身を癒すためなら私の願いには極力応える。共通認識で問題ないな?」
頬をつつき、空気が抜けて不満そうな目だけを向けるエルナに、オルリアはまっすぐな視線で問いかけた。
彼女の条件はもちろん呑み込むつもりだが、オルリアにも呑んで欲しい願いがある。
上手くオブラートに包んで言うと、彼女の首が傾いた。
「……適宜薬くらい処方してやるが、なぜそんなに強調する?」
「そこは気にしなくていい。可か否かで答えてくれ」
「む、そうだな。私にできることなら可。無理難題は否と言っておこう」
一抹のよく分からなさを抱えつつ、エルナはうんと首肯する。
魔法は人間たちによく万能と思われがちだが、実際は精霊たちの力に自らの魔力をプラスして事象を起こしているに過ぎない。それを補うための魔法草や魔法薬にも限度がある。
それを理解してもらおうと言うと、彼の笑みが殊更深くなった。
薬と睡眠のおかげで随分とよくなったディープレッドの瞳に浮かんでいるのは何だろうか。
「それではこれで契約だ。契約書は明日用意する。よろしく頼むよ。私の癒し」
すると、エルナの答えに納得したらしいオルリアは、どこか甘さのある艶美な声音で癒しと告げた。そして徐に彼女の手を取り、抵抗する隙さえ与えず再び抱き寄せる。
腕の中に収めると、ハーブとシトラスのような爽やかで甘い香りに包まれた。
自分が人狼と知り、それでも一切恐れることなく適切な対応をしてくれた彼女に、安心している自分がいるのだろう。
おいと言って不機嫌な声を出す彼女を離したオルリアは、そのまま右手の指先に口づけを。唇にも同じことをして契約を確固たるものにする。
「……!」
指先は、魔法族にとって身の内の
その二つに口づけることは特別な意味を持つと祖母が言っていた。
彼が分かっていてやったとは思えないが、突然触れた唇にエルナは呆然とし、
「な、なんてことをするんだ……! もうやだ、もう知らん、もう寝ろ! か、風の精霊
一拍置いて湧き上がる羞恥と怒りに、思わずテーブルに置いていた杖を振り回す。
願いに応えた精霊がオルリアを取り囲む中、彼女は寝室へと駆けていった。
――これが契約となるまでの経緯だ。
「えぇ……」
その話を聞いたタングリーは朝食のパンを取り落とした。
隣で紅茶を飲むオルリアは平然と、エルナも不機嫌だが引き
だが、自分がぐっすり安眠している横でそんな事態になっていただなんて。
二人を交互に見遣った彼は、思わず項垂れて呟いた。
「お前ら、キスしたの……?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます