第4話 真夜中の一件。エルナ、遂に折れ……
血の、臭いだ。
欲しい。
誰でもいい、襲ってしまいたい――。
理性の欠片もない感情が、体を巡る。
異形の狼に噛まれてから、精神はときに大きく不安定となった。
駆け巡る感情は常ではなく、一定の周期で起伏する。
獰猛な自分が、人間ではなくなる自分が、とてつもなく怖かった。
「うっ……」
心地の悪い夢に
ピンとヒゲを張ったそれは、薄く汗を浮かべるオルリアをじっと見つめている。
今まで感じていた息苦しさは、クリュエとかいう猫が胸の上に乗っていたせいだろう。
猫のクセに恐れ知らずだと息を吐いた途端、隣から少女の声が聞こえてきた。
「起こしたか。気分はどうだ、国王」
「……エルナ」
そこにいたのは、オレンジ色の炎を傍に従えたエルナだった。
水の入ったコップと薬瓶をローテーブルに置いた彼女は、不遜な態度で問いかける。
気分は、無駄に重量のあるクリュエのせいもあって最悪だ。
「気分は、悪いな。ああ……」
「じきに楽になる。今精霊たちの力を借りて、無理やり薬を飲ませたところだ。月光がわずかに入り込むだけでもこうとは、重症だな」
口の端を上げ、エルナは何気ない口調で笑う。
正確な時間は分からないが、おそらく今は真夜中を過ぎた辺りだろう。
首元や袖口にフリルをあしらったAラインのネグリジェ姿を見上げ、オルリアは彼女がわざわざ様子を見に来てくれたのだと察した。
「どうやら私は、話し合いの途中で尽きたようだな」
「ああ、気を失うが如くな」
クリュエを持ち上げ、ゆっくりと体を起すと、エルナは呆れ混じりに肯定する。
だが、彼女の背後に見えた月明かりに、オルリアは気付くと手を伸ばしていた。
「おい!?」
意識とは関係なく手が動いて、彼女を傍に抱き寄せる。
噛みつきたい――衝動に胸の鼓動が早くなる。
「……!」
しかし、膝の上に乗る彼女を抱きしめ、首筋に舌先をかすめたオルリアは、ここでようやく、自分が何をしようとしていたのかに気付いた。エルナが飲ませた薬のおかげで気分は随分と軽くなっていたが、また衝動に襲われていたのだと、
手の力が緩んで、エルナははぁと息を吐いた。
「きみはよほど月に耐性がないらしいな。念のために補足してやるが、人間の姿で噛んでも相手に害はないよ。
「……」
随分とやせ細った彼の体に手を回し、エルナは背中を優しく撫でる。
不安なことがあると、祖母がよくこうして撫でてくれたものだ。
真似をしようとしても、タングリーはいつも顔を赤くして逃げてしまうので実践したことはなかったが、夜くらい、安心して眠れるようにしてやりたかった。
「……無自覚とはかくも恐ろしいものだな、エルナ」
すると、鼓動が落ち着くまで彼を撫でていたエルナは、興味深げに笑うオルリアの言葉に顔を上げた。落ち着いたらしい彼は、ディープレッドの瞳でエルナを見ている。
瞳の持つ雰囲気が変わったことに、彼女は気付いていない様子だ。
「どういう意味だ?」
「いや気にするな。タングリーはどうした」
「タングリーならそこに転がっているよ。一旦屋敷へ帰ればいいものを……。心配だったのだろうな、きみが」
夜着で、膝の上で、手が背中に回ったままであることにも頓着せず、エルナは毛足の長いカーペットの上にシーツと布団を敷いて丸まるタングリーを指差した。
たぶん彼の心配はオルリアに対してではないのだろうが、
赤髪が揺れて、彼の視線を引き寄せる。
「……してエルナ。私が眠っているうちに、薬師契約について考えてくれたか?」
夏だというのに、すっぽり布団に丸まって芋虫になるタングリーから意識を逸らし、オルリアは膝を降りた彼女に改めて問いかけた。
振り向いたエルナはリスのように膨れ、目を細めている。答えは確実に否だろう。
だがそれ以上に、大人びた口調とはまるで異なる子供っぽい表情を目にし、自然と笑みが零れていた。
「逆に聞くが、あれだけ嫌がって心変わりがあると思ったのか」
「思うな。お前はどれだけ取り繕っても人を心から無下にできないと見た。現に月明かりを気にして、来てくれたのだろう?」
「……」
「どこが妥協できない?」
コップを手にし、キッチンスペースへと向かう彼女を見つめ、オルリアは続ける。
ぼんやりと周囲を照らす魔法の炎はいつの間にか分裂し、部屋一帯を仄明るく照らしていた。もちろん、芋虫タングリーは起きないが、彼女の姿ははっきりと窺える。
「一番妥協できないのは王宮に行くことだな」
すると、水の張った桶にコップを沈ませたエルナは、静かにそう口にした。
なぜと問うと、彼女は悲しげに項垂れて、
「……私は、好意で王宮に招かれた魔女が、その後壮絶な最期を遂げた例を知っている」
「!」
「きみにとって私が安心材料なのだとしても、魔女は誰かにとっての不安材料になりやすい。特に欲と権力に
最後の言葉は小さく、そして切なさを帯びていた。
エルナは幼いころ、祖母に連れられてこの国に流れてきたのだとタングリーが言っていた。
もしかしたら彼女は、自分たちでは測り知れないような過去を背負っているのかもしれない。
それこそ、王族や貴族を嫌うほどの何かが、あったのかもしれない。
気付くとオルリアは立ち上がっていた。
「ならば、不安材料は私が除こう。さすれば……」
初めて見る切なげな表情に傍へ寄ると、エルナは顔を背けて沈黙する。視線の先にアイリスクォーツが映り、水晶はまた
答えないまま、エルナは水晶を覗き込んだ。
「……」
このアイリスクォーツは、七つの精霊が集まってできた代物だ。
エネルギーたる精霊はこの世の流れを視て、時折先を予知する。もちろん、常に見えるわけではなく、大抵は水晶と目が合った者の避けるべき未来や大いなる運命を伝え、切り開くために使われてきたという。
元は東欧の魔法名家である
「……この水晶は、私に何を望んでいるのだ。どうして、こんな……」
「何が見えているのだ、エルナ?」
だが、水晶が
水晶の予知は身の内に
肩越しに水晶を見つめるオルリアを見上げ、エルナは隠すように抱え込んで首を振る。
「なんてことはない」
何気ない口調を装ったけれど、今伝えた言葉は、真実の欠片もない真っ赤な嘘。
震える声を隠し、彼女は水晶を元の位置に戻してひとりごつ。
どうしてこんな未来を見せるのか、頭が混乱して落ち着かなくなる。
でも、間違いない。
――見えた未来は、狼王の残酷な末路だった。
このまま彼を王宮に返せば、彼は家臣に殺される。
異能が露見したせいか、はたまたお飾りの引きこもり王の処分か、そこまでは分からない。
けれど、強引にでもお前を傍に置いておけば、なんて言葉と共に果てる姿を見せられた。
また異能は王家を蝕ぶ。
また関わった人間が消えていく。
聞かされた過去を思い出して、エルナはぎゅっと手のひらを握りしめた。
(お母様……)
「エルナ。何を見たのかは詳しくは聞かないでおこう。だが、見えた事象が未来なら、いくらでも回避できるはずだ。そうだろう?」
「……!」
「申し出を受けることで不幸にならぬ道があるのなら、契約を結んでくれ。今の私には不安を見せ、寄り添い、癒してくれる相手が必要なのだ。王宮の者には決して、私の異能は晒せない」
すると、水晶から目を背け沈黙するエルナに、オルリアはもう一度強く願い出た。
両肩に手を置いて、覗き込むように揺らめく炎の瞳を見つめる。
昼間の強引さは幾分なりを潜め、表情には切実さが滲んでいた。
彼は本当に、魔法薬師としてのエルナを求めているのだろう。
(不幸にならない道……)
そう思うと、エルナにわずかな迷いが生れていた。
(だが、本当にいいのか? 私とは関わらせない方が双方のためだ。私の本当の血筋が、断罪された魔女と王族の娘だということが彼らや世間に知られたら、きっと、あの国から追手がかかる。より不幸を招くかもしれない)
「……」
(そして何より、見えた未来を回避するには、彼を人間に戻す必要がある。彼の中に混じった異能をどう取り除く……?)
次々と浮かぶ不安要素を見つめ、彼女は深くひとりごつ。
何を選ぶのが正解なのかは分からないけれど、殺される運命を見て何もしないほど、心がないわけではない。
それでも拭いきれない不安に、エルナはぎゅっと目を瞑る。
『――いいね、エルナ。あんたは人に、心に、寄り添える薬師になるんだよ。患者は薬だけではない、安心を求めているんだ。あんたは強い。なんだって乗り越えていけるから』
そのとき心に浮かんだのは、聡明な祖母の言葉だった。
祖母ならあの未来を見て、どう行動しただろうか。
エルナとて悲劇を繰り返すことだけは、絶対に避けたい。
でも、これを見捨てて自分は、薬師を続けることができるのだろうか。
たっぷり沈黙した後で、覚悟を決めたエルナは静かに口を開いた。
「ならば国王殿よ、幾つか約束を守ってほしい。それを果たせると言うのなら、考えてやる」
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