第2話 蛍の海
彼女の死から五年一か月と二十一日。
常冬の北方諸国には季節の変遷が無い。だからどこへ行っても盛り上がりの無い寂れた街並みや景色が続く。集落から少し離れただけで手つかずの大自然が広がるほどには、北方諸国は広大で、それでいて孤独な国だ。小さな集落が互いに助け合うために作られた国だから、民族も文化もそれぞれの集落で違う。最低限の協力と敬意がこの国を形作っている。その歴史も、故に寂れているのかもしれない。
固い地面、石造りの地面を歩いていると後ろから、こつ、こつと音がする。それは冷たく乾いた音で、何より悲しかった。
「すまんの、弔いの御方」
振り返ると、老婆が立っていた。片手には古びた杖、黒い外套に黒い帽子、喪に服しているのだろう。その表情はどこか暗く、また陰が落ちている。
「私はフィリンツ。葬弔者です。――もしかして、依頼の人ですか?」
葬弔者の使命は、亡くなったものの魂を連れていくことだ。触れて、連れていく。それが天国への道だと信じられているから。忘れられないという誓いこそが、死にゆく者にとってのせめてもの手向けだから。
「はい。葬弔者殿。」
老婆は足腰が悪いのか、ゆっくりと、ぎこちない歩みでこちらへとやってくると、慈愛、あるいは喪失に満ちた瞳をこちらに向けた。
ひどく、それは胸を締め付けるようで苦しい。まるで、それは僕に似た感情を思い起こさせるから。リセをなくした時は同じ感情で、ひどく苦しかった。だから分かる。老婆にとって、亡き夫は忘れられない、ずっと一緒に生きていたい人だったと。過去形で語るには、余りにも惜しい。
「この
老婆は言葉少なく遺品を、皺の刻まれた細い手で渡す。
「少しばかり、老婆の思い出話に付き合ってくれぬか。」
最愛の、それも何十年も連れ添った家族だ。その思い出を、誰かに語って、誰かに引き継ぐ。自らの家族が、死してなお人の心で生きるように、言葉で伝える。
「もちろんです。それが私の使命です。」
老婆はゆっくりと腰を下ろし、遠くを眺めるような瞳で、追憶を語る。
一言、一言が枯れた木のように乾いた声で、絞り出すように老婆は話す。十年前のことでも、二十年前のことでも、大切に想っているからまだ覚えているのだろう。
「この町は…斯様に村は錆びれとるがの、昔は賑やかじゃった。極霜祭の時期になると鏡翠花がよう咲いておっての。夫には極霜祭の花渡しの時に花を渡されての。鏡翠花が淡く雪の野原に咲いて、それはもう綺麗じゃった。」
老婆の瞳は、憧憬に満ちている。左手にはめられた指輪は少し傷が入っていて、まるで老婆の心のように思える。傷ついてなお、輝き、けれど次第に失われていく輝きが、残りの時間を表しているようにも思える。
「——もう半年で極霜祭の時期じゃ。このくらいの時期に毎日、夫と鏡翠花を大切に育てたのじゃ。鏡翠花は満開じゃった。葬弔者殿。もしも旅路に時間があったら、夫の愛した鏡翠花の花畑で、弔いの祝詞を唱えてはくれんかの。」
老婆の願いは、忘れていた記憶を、不意に想起させる。
鏡翠花。極霜祭。
ずっと前の話だ。
僕にはもう聞くことが無いと思っていた。彼女と旅をしなければ、あんなにも賑やかで、僕にとっては目を細めるほどの眩しい祭に行こうなんて思わなかったから。
それは北方諸国、冬至の時期の、とある夜だった。
七年前。
その時はものすごく頭が重かった。体がまるで、鎖につながれたように動きにくかったのを覚えている。喉も少し痛かったが、彼女が無理やり僕を引っ張って連れてきた。そんな記憶が、時間、場所、香り、色といった知覚した情報全てを想起させる。
荒くなる白い息を吐きながら方で呼吸して走った。そんな、自分らしくないことをしていたのに、どこか楽しかった。まるで、僕が僕じゃない、そんな風に思えるほどにはしゃいで、遊んで、笑っていたから。心から笑える。そんな簡単なことだけど、僕はできないのに、リセとともに旅をしているとなぜか、そんな気がして自分が変われる気がしたから。
「——ねぇ、フィリンツ!これすごいよ!海みたい!きれい!」
ばかみたいにはしゃぐ声。どさ、どさと雪をかき分けて走っていく。どんどん遠くなっていくその後ろを、僕は大人ぶって、子供みたいだなんて言いながら追いかけていた。
「この花、もしかしてこれ、"きょうすいか"だ!村長さんが言ってた花だ!おまつりの時期になると咲く花だよね!」
やっと追いついたかと思えば、彼女は子供みたいに花に顔を近づける。花弁の一枚一枚が鏡のように、宝石のようになっており、それが翡翠色の光を互いに反射している。
「少し落ち着けって…まったく。…この花は鏡翠花。確か冬至の時期に咲く花だったかな。」
僕は目を細めた。極夜の候、吹きすさぶ風は冷たく、満開の鏡翠花の光は昼の野のように明るい。
その時は思わなかった。冬の野の蛍の、短い一生を彼女が羨んでいることを。永遠の命など、捨ててしまいたいのだと、そう言いたかったのだと。
「ね、フィリンツ。」
しゃがみ込んだ彼女は、双眸に星屑を散りばめたように光を反射している。星空の、無数にある星と鏡翠花の花弁の一枚一枚の光が、彼女の双眸をきらきらと照らしている。
彼女の瞳は少し儚げで、けれどいつものように明るかった。光が、彼女の奥に隠れている闇を、照らしていたからそう見えたのかもしれないし、それが当時の彼女の感情だったのかもしれない。
「この景色――ほたるのうみ、みたいじゃない?」
彼女が、ちいさく、そう答えた。
力のない、弱い子供のように。
「……え?」
その時の僕は、そのちいさな声が、余りにも彼女らしくなかったので、一瞬耳を疑った。小鳥のさえずりやら、冬野の精霊の幻聴だろうと、そう勘違いするほどに。
「蛍の海みたい。ここみーんな、鏡翠花で埋め尽くされてる。。来た甲斐があったよ。村長さんには寒いから行くな!とかなんとかいってたけど、ね。」
彼女は、こういう時がよくある。なにかを問いかけるような。でも、誰かに問うてるというわけでもない。ただただ、孤独な響きで投げかけるような。こういう時、僕はつい気まずくて黙り込んでしまう。彼女が何かに浸っている様子は、僕にとっては言葉を失うものだった。その瞳と表情の微妙な変化に、繊細な何かを感じたから。今思えば、それが彼女なりの弱さを見せている時だったと分かる。生前、彼女は僕から見れば僕よりもずっと強い人のように思えて、その存在が大きすぎたから。
鏡翠花に、僕よりも二回り小さな手でそっと、淡く、ふれる。煌めきがさらに増し彼女の瞳は潤むように見えた。
「蛍の海か、いいな。それ。」
「え?」
「その例え、好きだな。なんか、リセらしくないし、すごい綺麗だから。」
そんな曖昧な表現でしか、彼女を言い表せなかった。彼女の儚さをどうやって形容すれば、その思いが伝わるのかわからなかった。
「ふふ。いいでしょ。私らしくないかんじ。私だって、ちょっとはフィリンツみたいにいい感じないいまわし、できるもん」
照れるわけではなく、えっへんといった表情で彼女の双眸が僕を見つめている。心底安心した表情で、太陽のような温かさで。
「——ありがとね。フィリンツ。風邪ひいてるのに無理やりついてきてもらって。」
「別に気にしてないよ」
強がって、そんなことを言った。
そうだ、あの時は風邪をひいていたから、ものすごく頭が重かった。体もすこし怠くて、熱かった。――でも、それでも。なぜか、君と一緒の方が、気が楽になるなんて思った。
「急にかしこまってどうしたんだよ。俺、無理してないし。俺だって、美しい景色の一つや二つぐらい、この瞳に収めておきたい。…思い出になるし。」
その少しの思い出が、まだ僕にとっては大切でひどく下らない。
その時の僕は彼女のありがとね、という言葉に違和感を感じた。なにか、僕と彼女の旅には、明確な違いがあるように思えて、だから他人のように感じてしまっていた。
「ろまんちすと、なんだね。意外と。」
「そういうんじゃない。ただ――」
「ただ?」
彼女が頭に疑問符を浮かべたような表情をこちらに向ける。その表情を遠ざけるように空を見つめた。彼女と、心の距離を開けるように。突き放すように。彼女の言葉に距離感を感じていたのではなくて、自分が彼女から距離をとっていることを、暗に自覚した。
「ただ――自分にとって、僕はここで生きた。そう自分に言い聞かせたかったんだ。だから、ロマンチストなんかじゃない。この風景を見て一言、なにか洒落た言葉は並べられない。僕は、そんな風になれない。」
彼女は少し哀しそうな、儚い表情をしていた。僕はここで生きた。そんな遺言を残すようなこと、彼女はしたくなかったと思う。むしろ、今生きている。そう自覚して、前に進み続けたかったと思う。残された時間を忘れて、ただ、純粋に今を生きることを選びたかったのだと。
突き放すような言葉の刃で、彼女の心を傷つけた。そのことにさえ、僕は気づけなかった。
「そう……」
そのあと、少し沈黙が続いた。
鏡翠花で煌めく雪野は、細かな星々のように煌めく。沈黙する中、聞こえないはずなのに、きらきら、と煌めきの音が聴こえる気さえする。まるで光の粒が語りかけてくるような感覚になる。
僕は、そんな沈黙を心地よいものだと感じ、感傷的な感情に浸った。——僕が、あとどれだけの時を過ごして、どんな旅をしていくのか。その中での一期一会に、どんな感謝と別れがあるのか。僕がどう人々の記憶に残るのか。離別の悲しみと、無事とはいかない再会。そんな様々な記憶を巡り、感傷的になった。
「ね、願い事、いっこしてみよ。」
沈黙を破り、彼女は僕の隣、その近くに座った。温もりが分かるくらいには近くに彼女が居る。そんな状況が僕にとって少し奇妙で、無意識に遠ざけていた彼女との距離が縮まったというのに、心地が良いものだった。
「急にどうしたの。いいけどさ。」
白い息が空を漂う。冷たく、凍てついたそれが。
リセの瞳に天の星霜が映る。散りばめられた星々を見つめる彼女は明明、天の姫さながらの天の御子のように思えた。儚くて、哀しくて。そんな崩れてしまいそうなほどに小さな灯を、爛と輝かせているようで。
「流れ星と蛍の海。綺麗じゃない?すっごい。」
冬の夜空には二涙星が並ぶ。七年に一度、神話の天の姫と星の王子を象った二つの星々は重なり合う。それは、長い永い彼女たちの出逢いの物語で、遠く儚い出逢いの物語だ。
一年に一度しか、彼と彼女は逢えない。
――どれだけそばにいたくても、それは叶わない。そんな風に、運命づけられている。
そんな孤独と哀愁に似た感情が、どこか他人事のように思えなかった。
「うん。」
星々の壮大と夜空を描く線に圧倒され、雨の降り始めのように言葉を途切れるように紡ぐ。
気づけば、幾つもの星々が、流れては消え、流れては消えていった。
流れ星という一瞬の出来事が、時を忘れるほど繰り返された。
感嘆の声を僕は思わず漏らし、彼女はその壮大さに圧倒されながら目を輝かせる。その表情は、太陽のようだった。夜の果て、あるいは最奥から世界を照らすような瞳を見つめることしかできなかった。
「これだったら、願い事、叶うかな。」
両手の指を胸の前で組みながら、彼女は願い事をしていた。目を瞑り、何を彼女は願っていたのだろうか。繊細な瞳が閉じて、祈る姿は星々の静謐そのものだ。太陽のような瞳が、今は夜の月の精のように切なく煌めいていた。
――僕も、その時にとある願い事をした。本当に些細な。
「叶うも何も、何個でも、何でも願えばいい。こんなにたくさん、星があるんだ。わがままなぐらいが、ちょうど良いと思う。」
彼女は虚を突かれたような表情、あるいは物陰で見つかった猫のような表情をした。そして、彼女は腹の底から笑った。
「あはは!フィリンツ!それは、わがまますぎるよっははは!」
雪の積もった地面をぱんぱんと叩いて粉雪が舞う。硝子のように光を反射し、それは例えば宝石の粒子のように煌いた。
「なんでそんな笑うんだよ。いいじゃないか。わがままで。」
何か変なことを言ってしまったと思い、僕は少し赤くなったのだろう。まだその時の恥ずかしかった感情が思い出される。少し焦ってしまい、頭が少し真っ白になった感覚は、今でも覚えている。
ひとしきり笑ったリセは笑涙を拭き取りながらこう言った。
「いやーフィリンツからそんなわがままな言葉が出てくるなんて思いもしなかった。びっくりしたの。私。冷たくて真面目なタイプだと思ってたから」
彼女はいまだに笑い続けている。
段々と自分らしくないことを言ったと思い、恥ずかしくなってきた。
「笑わないでよ。真面目に、そう思ったんだ。」
そんな子供みたいに恥ずかしがる僕は、いつもとは違って、楽しいと感じていた。いつもは退屈だと思っている彼女との旅だったが、その時から、彼女との旅は次第に僕にとって楽しくて仕方がないものになっていた。
彼女もそうだったのならいいな、と今になって思う。
「分かってる。ありがと。――なんか安心した。以外と私に似てるね。フィリンツ。」
彼女は僕にそう言うと、立ち上がって雪を払った。鏡翠花の光は弱まることなく、寧ろ僕たちを祝うかのような光に満ちていた。
宿に帰るなり、体調が悪化した。風邪だったらしい。
やはり冬の、それも夜更けに外へと赴き体調を崩さないわけがない。でも、どこか心地がいいような感覚がする。ばかみたいにはしゃいで、星を見て感傷に浸って。そんな、少し違う、自分らしくない日常が僕の心を溶かしているのを感じる。
「そういえば、フィリンツは願い事、したのー?」
寝床の上で転がりながら足をばたつかせて暇そうにしているリセが問う。
「うん。した。」
聞くや否や、彼女は寝床から飛び上がり、こちらへ近づいてきた。
「なになに!なに頼んだの!」
興味津々、といったところだ。こう言う時、大抵彼女はしつこく聞いてくる。
「なーんでもないって。くだらない願い事だ。それに、願い事は秘密にしておかないと。僕だけが願ったことを知ってる。その方が面白いじゃん。」
読んでいる本の上から、右から、左から。はたまた下からひょいと出てくる彼女を避ける。
「えーいいじゃん!」
その次には、おねがいおねがい~などと言われる。彼女のいつもの出方だ。
はいはい、と軽くあしらうも、彼女はそんな簡単に引かない。
「まったく、いいでしょ。秘密で。それに――」
「それに?」
猫のような双眸をした彼女がひょい、と近づく。
そんな彼女の瞳は、星空を映すことがなくても輝いていた。
疑問は――謎は、そのまま変わらないから美しい。そのまま、隠され続けるから、楽しいし美しいと思う。
少し微笑む。暖炉の焚火はまだぱちぱちと音をたてている。
「——いや、何でもない。忘れて。」
「えー!なんで!な、なんでー!」
再び子供のように暴れ出す彼女を尻目に、紅茶を一口と、本の一頁を捲った。
願い事は、君が笑いますように。
そう、小さく口ずさんだのを、まだ覚えている。そんな願い事をしていた折、彼女がとびきりの笑顔で笑ったものだから驚いた。
そんなくだらない彼女との思い出の中で、僕は、この旅が、ただ死者を弔うのではなく、その思い出の中で、人の生き方を、人生を、その一匙の星の砂のような欠片を集める旅だと。
「ご主人は、きっと願い事をしたのだと思います。鏡翠花の花言葉は、星に願いを、です。きっと、あなたの幸せを願っていたのだと思います。」
過去への逡巡だろうか。天を仰ぎ、老婆は何を思ったのだろう。
――たぶん、それは美しい一つの愛の形で、何気ない日常の切れ端なのだろう。その日々の中で、愛する夫は妻が幸せであれということをずっと、ずっと想っていたのだ。
遺品として渡された鏡翠花の種には、老婆と夫との思い出が詰まっている。そう思えた。
葬弔者は亡者の魂に触れ、死者の国へと連れていく定めだ。その歩みはきっと、リセとの記憶をなぞるように進んでゆくのだろう。その歩みの中で何かを見つけられたのなら、僕にとってそれが旅路の意味だ。
散ってしまった花びらを、そっとなでるように、少しずつだけど拾い集めていきたい。
記録:鏡翠花
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