星の王子と天の姫

編虚 桜

第1話 葬弔者フィリンツ




「じゃあね。フィリンツ。大好きだよ」

 彼女はそう言うと、死者の国へ歩いて逝った。



 ——星の王子と天の姫――




 君と出逢う。そのために、生きる。

 もう一度君に巡り逢えるのなら、僕はどんなことがあっても生きる。

 また一歩、踏み出せたのなら、僕は君に逢いたい。


 

 僕は葬弔者そうちょうしゃ、この世界の二涙星にるいせいの神、星の王子に選ばれた人間だ。

 僕たちは、死者の魂を集め、それを死者の国へと届ける。だから、大切な人の魂も、持っていく。


 

  寒暁、もう君が傍にいないことを、僕は認めたくなかった。

 冷たいから孤独だなんて思ってたけど、君がいなくなってからそんな考えは捨ててしまった。

 温もりがないことを孤独だと認めたから。だから、冷たい毎日は孤独ではない。

 冬鶫の鳴き声は、空高く、そして張り詰めた弦のように繊細に、そして力強く響き渡った。

「…もう朝か。……、」

 ため息をつくように、目を開ける。

 静けさだけが、僕の隣で寄り添っている。

 カーテンから差し込む冬の吐息のような冷たい青が朝を告げる。毛布の温かさと対照的に。それは終わらない後悔と離別の感情を混ぜたかのような色で、例えるならば冬の湖底だろうか。

 僕は葬弔者として、使命を全うする。来年、そのまた来年。繰り返す魂の輪廻を繰り返すために、僕は旅を続ける。ただ、死者の魂を拾い集め、届ける。それが、僕の役割で、すべきことだから。彼女と旅をした日々でも、それは変わらなかった。…変わらなかったはずなのに、どこか前よりも退屈で、くどい役目だと感じる。彼女のいない世界で、何がために生きるのか僕には分からないから。

「…」

 常冬の朝焼けにはまだ時間がある。

 冷たく軋む床を、ブーツがこつ、こつと音を立てる。

 悴む手先の感覚。しびれるようなこの感覚にもいつしか慣れた。掃除の行き届いていない部屋に、かつて彼女が好んで集めていた宝石が所狭しと置かれている。

 ——もう、リセはいない。思い出すな。

 そう、心の中で小さく、雪の中で囀る小鳥のように言葉が漏れる。


 

 ——もう、彼女の気配はない。存在も、ない。なぜなら、死者の国へ、彼女は行ってしまった。

 本当だったら天寿を全うして、あるいは、戦に斃れて消え去った者が漕ぎ着く彼岸であるのに、彼女は自分から、自分の意思で逝った。


 

 眼前の宝石など、忘れる気があるのならとうに捨てている。

 それができないことも知っていて、矛盾しながら苦悩するのにはいつしか慣れてしまった。

 手に取った宝石を戻すと、調理場へと向かう。

 冷たく、床をきんと冷たい風がすり抜けた。


 朝餉を食べ終えると、無意識に紅茶のカップを二つ用意しようとしていた。まるで、傍に彼女がまだいるかのように、当たり前のように。昨日まで彼女が笑っていたかのように存在を錯覚する。意識するまでもなく、自然にカップを二つ手に持ってしまうほどには、まだ彼女を忘れられてない。

 凍える常冬の、手の悴む朝でも温かいとさえ思うほどに、彼女の暖かい瞳を忘れることができない。熱がそこにあるかのようで、でも空虚で息苦しい感覚が胸を締め付ける。


 

 ——僕の大切な人、リセは、五年前に死んだ。僕の大切な人だった。紅茶が大好きで、眩しく笑う彼女の影がまだ新しい。太陽のような瞳と、秋の小麦畑のような金色の髪を、まだ覚えている。忘れることができないのは、彼女との思い出が僕にとっての人生そのものを象っているからなのだと思う。映し鏡のように、過去の日々ばかりに思いを寄せている。でも、声を少し忘れてしまうくらいには、月日は流れて行ってしまったらしい。


 

 彼女との旅は、いずれ終わりが来ることを知っていた。だが、僕はそれを知っていて、知った上で何もできなかった。助けてやれなかったし、心に寄り添ってあげられなかった。臆病だ。苦しみを分かってあげることもできなかった。――後悔と、彼女の最後に残した言葉が、呪うように脳裏を駆け巡ることに、何時しか慣れてしまった。そうして、彼女との記憶が、次第に呪いのように溶けていく。

 ――僕には今、何が残っているだろう。少なくとも、それが過去への固執で、現在への無関心であることに違いない。他に何か、大切なものがあったとか、遺すべき何かがあったとか、そんなものは持ち合わせていなかった。ただ、彼女と過ごした日々という過去を一匙すくっては、また冬の野原に払い落とすような、空虚な日々しか残っていない。


 

 そんな、孤独な感情から逃げたくて、外を見ると、夕陽よりも冷たく朝日が差し、夜は向こうへと押しやられている。あと少しで、葬弔者の巡礼が始まる。


 これから歩む旅は、葬弔者として年に一度、それまで集め続けた死者の魂を天へと送り届ける旅だ。七つの月の時を経て、祝詞を詠い、夜空の星々の煌めき、それに等しい数の人間の命を弔う。星の王子という神が決めた、この世の決まりだ。星の王子に選ばれ、祝福された葬儀人は、決められた日時、場所で、魂を弔い、その魂を死者の国へと送るためにその門を開く。遺された家族の悲しみを、慈しみを以て捧ぐ。


 

「一人で旅か。静かだよな。二人だったら、ばかみたいにうるさいのにさ」


 まるで、彼女がまだ生きているかのように、口ずさむ。もう、彼女などどこにもいない。目の前で、彼女を見送り、看取ったのだから、彼女の存在を錯覚するなど、ばかばかしいとさえ思えるかもしれない。

 ——まだ、君がいる。いてほしい。そう小さく唱える。

 取っ手をぎしぎしと軋ませながら扉を開けると、何ら変わらないいつもの景色が広がっていた。夜の間に降り積もった雪と、木々にぶら下がった大きな氷柱。常冬の国ではこの気候がほぼ一年中続くらしいが、僕にとっては退屈そのものだ。雄大な氷雪の山々に圧倒され、凍える冬の寒さに体を丸める。

 ここら一帯の北側の地域は、四季折々の風景の変化と、豊かな自然とは程遠い、時間の止まったような世界だ。そんな世界だが、僕にとっては美しく、また儚い世界だと思える。どんなに叫んでも、どんなに泣いても、誰も見ていないし、誰も知らない。そんな別世界のような日々だ。僕には、それが心地良い。

 旅に必要なのは準備よりも覚悟だ。魂を弔うとはまさに人の魂に触れる。人の魂から押し寄せる記憶や走馬灯のような瞬間を何度も目にする。そんな瞬間をまた一つ、二つと拾い上げ、寄り添い、弔う。その覚悟が必要だ。

「行くか。——アルヴツヴァイン・エリス。」

 その魔法は、旅人の行く末を見守る魔法だと信じられている。旅人たちは旅路がより善きものになれ、と願掛けのようなもので、それは二涙星の神に由来する。信仰の厚い旅人はこの魔法をよく唱えていた。

 僕は信仰心の欠片もない人間だ。だから昔は願掛けなんて信じなかったが、明るく笑う誰かさんは、旅が始まる時、毎回この魔法を唱えていた。所詮、その誰かさんの真似事を僕はしているに過ぎない。ただ、その誰かさんのことを忘れたくないから、縋るように唱えているのかもしれない。


 

 さく、さくと雪を踏み分ける音と、目覚めの囀りが、森をこだまする。

 淡く青白い氷と雪が僕らを出迎えると、万年雪の森の奥から、朝焼けが顔を出していた。

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