第7話 内緒のあだ名はカモノハシ
柏木警部は無言のまま、俺を地下の白い個室に案内した。子供の頃行った病院独特の消毒の臭いなどしなかった。ここに、人間はいないのだと実感する。
部屋には大きな窓があり、外の様子が見れるようになっているが、そこもまた事務所のような部屋になっていて機材がいっぱい見える。
「あの服に着替えて、ベッドに座って待ってて。あ、下着はつけないでね」
柏木警部の指さす方を見ると、ベッドの上に薄いガウンのような服が畳んで置いてあった。
俺が返事をすると、柏木警部は隣の部屋に移った。俺が気にせず着替えを始めると、彼女はカーテンを閉めた。
着替えを終えて少しすると、室内に柏木警部の声がした。
『私の声は聞こえるかしら。着替えは終えた?』
「聞こえます。終わりました」
音は聞こえないが、しゃーっとカーテンが開けられ、柏木警部と白衣のおじさんが一人居た。
『隣に居るオッサンは、脳の専門医よ。人間の脳の研究もしてる、一応偉い先生なの』
なんだか言葉にトゲがあるのだが……。偉い先生にオッサンとか言って大丈夫なのだろうか。
と思い先生に目配せすると、ちょっと嬉しそうだった。そうか、美人は何しても許されるのか。
『今から記憶確認の作業準備を始めるわよ。先生がそっちに行くから』
先生が部屋に来た。手には注射器を持っている。注射はあんまり得意ではない。
『いい年の男が、注射器にビビってるんじゃないわよ』
どきっとした。恥ずかしさで顔が紅潮する。
柏木警部はドSだと確信した。けど、悪く思えない俺はドMかもしれない。
小さな磁気シールのような物を頭に幾つか貼られ、ベッドに寝かされると注射を打たれた。
すぐに耐えがたい眠気が襲い、寝不足もあってか、深い眠りに落ちるまで時間は掛からなかった。
*****
目が覚めた時、意識がぼんやりしすぎて自分が何処にいて、何があったのか直ぐに理解が出来なかった。
暫くぼんやりとして、自分が病院にいるのだと把握した。最初に点滴が入れられているのが目に入り、意識が徐々に回復すると、カテーテルとおしめがあてがわれているのに気がついた。いい年してオムツとか、まじもう恥ずかしくて死にたくなった。
もう大丈夫だから下半身の物を撤去して貰おうと思ったのだけど、身体が全く動かない。何これ、マジで。
で、手元のナースコールに気付いたので、なんとかそれを押すのが精一杯だった。
可愛らしいナースが来てくれるのかと期待したのだが、来てくれたのは年輩のおばさんだった。
「身体が動かないんですが……」
と言ったら、声が殆ど出なかった。
「記憶確認で、脳が疲れきってるんです。疲れで、3日程仮死状態だったのですから、もう暫く休んでリハビリしてから社会復帰してください。それと、桜木さんの無実は証明されました。よかったですね」
「はい」
無実を証明されたのはいいが、ここまで酷い目に遭うとは思っていなかったから、何か複雑な。
で、ふと疑問が浮かんだ。
「あの……あれから、どのくらい経ってますか」
この様子だと丸1日は寝てたように思う。
「2週間くらいですね」
あまりの衝撃に、意識がなくなりそうになった。
*****
「柏木警部ぅ~。病院から、霞ちゃんが起きたって連絡ありましたよん」
彼女は若くてぽわんとしているが、れっきとした刑事である。柏木の後輩で、友達である優秀な部下の最上刑事だ。
「その愛称やめてよ、霞ちゃんって顔してないじゃない」
「じゃあ、柏木警部はどう思うんですか?」
柏木は暫く考えて
「そうね、カモノハシかしら」
と答えた。最上、大爆笑。
「柏木警部にしては、珍しいですよね。冤罪だったって分かったのに、まだ気にかけてやるなんて。そのカモノハシに、惚れちゃいました?」
柏木は履いている自分の赤いハイヒールを掴むと、それを今発言した部下の川田に投げつけた。川田の額にスコーン! と命中した。
「天誅くだすわよ!」
いつもの事だと言わんばかりに、最上がぽわんと質問した。
「でも本当、珍しいってアタシも思います。柏木警部、どうした風の吹き回しなんですか」
「ちょっとね、引っかかる事があるだけよ。ちょっと、カモノハシの記憶の中でね」
「今回の事件の事ですか?」
「そうでもないんだけど……」
最上も倒された川田も、頭を傾げた。
「まあ、たいした事じゃないんだけどさ。気にしないでよ。個人的な興味よ」
あ! と最上が声を上げた。
「柏木警部って昔、人間だったって言ってたじゃないですか。人間ってのに、何か共感みたいな物感じたりしちゃったんですか」
「……そうね……そんな感じかな」
人間とか、そこまで心地よいものなのだろうか。面倒そうな気もするのだけど、と最上は思った。
*****
身体は満足に動かせないながらも、意識がはっきりしてから目がちゃんと見えるようになった。きょろきょろしてたら、時計を発見した。
「入るわよ」
柏木警部の声がして、同時に彼女が姿を見せた。1人だった。時間は20時前だった。多分、もう少しで面会も終わる。もう会うこともないと思っていたので、予想外のお見舞いで嬉しかった。手には小さいながらも花束があった。柏木警部の顔も、少し照れてるように見える。
「元気そうね」
「そう見えますか?」
花瓶の要らない花束らしく、彼女はそのままサイドテーブルにそれを置いた。
「ぴんぴんしてんじゃない」
俺は笑えなかった。
「疑って悪かったわね。でも、これが私の仕事なのよ」
「わかってます」
「恨まないでよね」
「恨まないです」
「そう」
面会の時間が終わった。病院内に放送が流れた。
「あの、また来てくれます?」
失礼ながら、俺はそう言っていた。
「ええ。あの子供の事も話さないといけないしね。今日は仕事で遅くなったけど、次はもう少し早い時間に来るわ」
と、柏木警部は帰ってしまった。明日も会えたらいいなあと、淡い期待が混み上がるものの、恋人でもない彼女が現れる筈もなく。次にお見舞いに来てくれたのは、リハビリが始ってからの1週間後だった。
人間の記憶確認は、脳に相当なプレッシャーを与えるらしい。それに伴って、相当な体力も奪われるとか。出来ればやらない方がいいくらい、下手したら死ぬこともあるくらい、負担が掛かるものだと後から知った。生きてって良かった。
なので、元の状態に戻るまで時間が掛かるのは当たり前だそうだ。ただ、俺がもしロボットだったら、目が覚めた時点で問題なく帰宅出来たらしい。
「少し痩せたみたいね、良いダイエットになったんじゃない」
「あの、窶れたって言って貰えます?」
一応、俺も言葉を返せるまでには回復した。
「腹出てたし、丁度良かったんじゃない。気にしてたでしょ」
俺は叫んだ。
「もう、忘れてください!!」
そう、柏木警部は俺の記憶をしっかり見ている。少し前に、ビールで付いて来た腹の肉をぷにぷにしてるとこまでも!
でもまだ165センチの57キロだし、ましじゃね?(泣)
「今日は、あの子供について調べてきた事を話そうと思ってね。記憶の話で悪いんだけど、あの子の事気にするほど一緒に居てないんでしょ。それでも知りたいのは、何故かしら」
なんて説明すればいいのかな。本能的に心配なんだけど。
「幼児が1人で現れて……訳分からないまま手から離れて……心配しちゃおかしいですかね? うまく言えないけど」
柏木警部は、何も言わなかった。表情も変わらないから、分かってくれたんだかくれてないんだかも分からないけれど、彼女は鞄から電子メモを取り出した。
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