第2話
「研究の調子はいかがですか、ご主人様」
「ミリー、来ていたのね」
「少しお休みされてはいかがでしょう?紅茶とお菓子をお持ちいたしました」
ミリンダは机の上にショートブレッドがのった皿を机の端に置き、続けて銀色のティーポットの取っ手に手を伸ばした。彼女の動きは洗練されており、流れるような優雅さがある。注ぎ口から細い熱い湯気が立ち上ると、部屋にはすぐに紅茶の香りが漂い始めた。
「本日の紅茶はアールグレイティーにいたしました。柑橘系の香りの茶葉を使用しており、香り高く繊細な味わいを持つ紅茶でございます。こちらのショートブレッドはバターの贅沢な香りとサクサクとした食感が特徴的で、紅茶との相性が良いためお持ちいたしました」
「ありがとう」
主人は微かに頷き、ゆっくりとカップを手に取った。軽く鼻を近づけ、アールグレイの豊かな香りを味わう。そして、静かに唇をカップの縁に当てた。
――ご主人様。
この屋敷で彼女をそう呼ぶのは、ミリンダとその兄であるジャックの習わしだった。彼らにとってこの女性は救世主であり、唯一自分たちを救ってくれた特別な存在である。
命を救われたあの日、ミリンダとジャックは一生彼女に仕え、この身を捧げようと約束した。
「そういえばご主人様、私たちがご主人様に救われてから、もう十年になりますね」
「そう……時の流れは早いのね」
主人はカップを机の上に置き、手元の書物のページをゆっくりとめくる。彼女は森の奥に住む魔女として名を馳せているが、実際は森の奥の静かな屋敷で薬を調合したり、古い書物を研究したりして過ごす日々を送っていた。この大きな屋敷も、感謝の印として贈られたものらしい。
お礼で屋敷をもらうなんて、ご主人様は一体、私たちと会うまで何をされてきた方なのか。ミリンダは何度も考えたことがあった。しかし、彼女が何者であったとしてもミリンダとジャックは彼女の元を離れるつもりはない。だからこそ、無理に彼女の過去について詮索することはなかった。
(死んだも同然だった私たちを救ってくださったご主人様を支え、そしてお守りすること。それだけが私たちに与えられた使命だから)
紅茶を嗜む彼女を見ながらミリンダがそんなことを考えていると、玄関の方から微かに足音が聞こえた。
「誰か来たようです。確認してまいりますので少々お待ちください」
彼女は丁寧に一礼すると、足音の主を確かめるため、急ぎ足で玄関へと向かった。
――
玄関にたどり着いたミリンダは、目の前に立つ男を見つけると、小さく溜息をついた。
「帰ってくる時は事前に伝書鳩を飛ばしてって何度も言ってるよね?ジャック」
「すまない、思いの外早く済んだから屋敷に直接帰った方が良いと思ったんだ。次からはちゃんと送るから」
「はぁ・・・もう何度目?私は騙されないからね」
そこにはミリンダの兄――ジャックが二週間ぶりに屋敷に帰ってきていた。
「ご主人様はお変わりないか」
「ええ。早朝から沢山の資料に目を通されて、朝昼晩私が用意した食事を召し上がり、夕方に二十個の傷薬と十個の眠り薬、それから依頼された薬を作られて・・・
最後に本を読みながら紙にペンで何かを記帳されて、日が沈む頃にお休みになる。私たちがここに来てから、このルーティンはずっと変わらないわね」
「そうか。ミリー、いつもご主人様をありがとう」
ジャックはコートを脱ぎ、つけていた仮面を外した。現れたその顔は相変わらず眉目秀麗で、白髪の下からはサファイアのような青く輝く瞳が覗いている。
二人は互いに近況報告を済ませ使用人室へと移動すると、ジャックはハンガーにコートをかけ、黒手袋を外した。それから燕尾服に着替え、最後に白手袋をつける。部屋の角にある姿鏡で身だしなみを確認すると、ジャックはカバンから資料を取り出し、ミリンダと共に主人の部屋へと向かった。
――
「ただいま戻りました、ご主人様」
二人が部屋へ入ると、彼女は筆を止め、振り返った。
「おかえりなさい、ジャック」
ジャックは深く一礼し、彼女に数枚の紙を渡す。
「こちらは今回得られた情報を簡単にまとめたものになります。その他詳細が書かれたものは、後ほど書斎にお持ちいたします」
「ありがとう」
彼女は受け取った紙にしばらく目を通すと、小さくため息をついた。
「イステンの紛争は、まだ終わらないのね」
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