第3話

「イステンの紛争はまだ終わらないのね」

 

 主人は読んでいた紙を引き出しの中にそっとしまった。ジャックは何も言わず、じっとその様子を伺っている。控えめな照明に包まれたこの部屋で、時が止まったような静寂が漂っていた。

 

 主人は窓の外をぼんやりと眺めると、不意に立ち上がりカーテンを閉めた。

 

「そろそろ寝るわ。おやすみなさい」

「おやすみなさいませ、ご主人様」


 ――

 

 主人の部屋を後にして、廊下を歩くジャックの脇腹を、ミリンダが軽く肘でつついた。

 

「うぉっ」

「ちょっと・・・今日は付き合いなさいよ」

「わ、分かった」

 

 ジャックと共に使用人室へ戻ると、ミリンダは奥の戸棚から古びたオセロ盤を取り出した。ジャックは慣れた様子で向かいの椅子に腰を下ろし、二人の間に広げられた盤を見つめる。薄暗い明かりがほんのりとオセロ盤を照らしていた。

 

「寝る前にひと試合ね」

 

 白と黒の駒が交差し、互いの思考が駒の動きに反映され始める。徐々に形勢がはっきりしてきた頃、ジャックはふと唇をほころばせた。

 

「やっぱりミリーは強いな。いつ越されたか全然分からなかったよ」

「それはそうよ、だって私は屋敷の家事とご主人様のお世話以外、ずっと一人でチェスやオセロをしているんですもの」

「……」

「私はジャックと違って、食材の買い出しとご主人様が薬を届けに行くときの付き添い以外では、決して外に出ないわ。せいぜい庭でトレーニングするくらいかしら」

 

 酷く皮肉混じりに言ってしまったと、ミリンダは先程口走ったことを反省する。そんな妹の言葉に驚きつつ、それでも彼女を心配するような兄の視線もまた、ミリンダにとっては不愉快だった。


 ここ最近、ずっと伝えるかどうか悩んでいたこと。

 昔と違って今の生活では、毎日好きなご飯を作っておなかいっぱい食べることが出来る。憧れの方のお手伝いをしながら一緒の屋根の下で暮らして、なんだかんだ頼りになる兄もいる。それなのに、何かが足りないと感じてしまうのはなぜだろう。

 

 ミリンダは使っていたオセロ盤を手に取り箱の中に入れると、元あった戸棚の中にそっと戻した。そしてジャックの目を真っ直ぐ見つめながら問いかける。

 

「ねえジャック、私達は本当にこのままでいいの?」

「……」

 

 ジャックは目を逸らすと、なんとも言いづらそうに口を開いた。

 

「俺は、どちらとも言えない」

「……はっきりしないわね」

「ご主人様が今までどおりの暮らしをこれからも望んでいるのなら、それで構わないと思う。でも望んでいないのだとしたら、俺たちは変わるべきなのかもしれない」

 

 ジャックはふと思い立ち、近くにあったティーセットを取り出した。箱の中から茶葉を選ぶと、花の装飾が施されたカップに繊細な手つきで紅茶を注いだ。その一つをミリンダに差し出し、もう一つを自分の手に取る。

 

「ただ俺は、ご主人様はこのままでいることを望んでないと思うんだよ。ミリーはご主人様が毎日何かを研究されているのは知っているね」

「ええ、でも書かれている文字が読めなかったから研究内容までは分からないわ。どこの国の言葉なのか、一生懸命探したけど見つからなくて……」

「まあ、そうだろうな。おそらくご主人様のメモは、どの国にも無い言語で全て書かれているから」

「えっ」

 

 ジャックはまた紅茶を一口飲んだ。つられてミリンダも少し飲む。同じ茶葉を使っていたはずなのに、何故か彼が淹れた紅茶の方が格段に香り高く感じた。

 

「 この言語はどこにも存在しないんじゃないかと初めて考えたとき、流石の俺も一度は解読を諦めようとしたさ。ただどうしても研究内容を知りたくなってしまってな。良くないことだとは思いつつ、二、三年間、ご主人様やミリーが寝たあと毎晩解読していた。それで俺はようやくご主人様が何を研究しているのか分かったんだ」

 

「……ジャック。あなたの執念ってほんと、怖いところがあるわよね」

 

 返す言葉もないと、ジャックは笑った。しかし持っていたティーカップを机に置くと、ジャックはその柔和な顔を少し崩す。

 

「ただ、俺達のご主人様だ。万が一にでも外に情報を漏らすわけにはいかないだろう。お前を疑っていた訳じゃないが、俺が内容を知った時、ミリンダはまだ小さかったから」

「隠しておいたのね」

 

 ミリンダはティーカップをそっと置くと、目を瞑って言った。

 

「私は死んだも同然の命をご主人様に救われた身よ。初めから私の命はあの方のものだわ」

「そうか……ミリンダはもう、大きくなったんだな」

 

 ジャックは静かに立ち上がりミリンダの目の前まで来ると、両手で力強く抱きしめた。それからその大きな手で彼女の手を優しく包み込むと、うんと柔らかい声で言った。

 

「なあミリー。ミリーは、世界がいつ滅びるか知っているか」

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