6、A Whole New World
……まったく、呆れた。
Webニュースの記事を読み終え、わたしは深いため息をついた。スマートフォンの画面には、いかにもゴシップ記事らしい派手な見出しと共に例の助監督、ポール=スミスのSNS投稿が引用されている。
「アリシアの名誉を回復させるため」だって? 「せめてもの贖罪の気持ちを込めて」?
「はんッ、笑わせないでよ」
思わず、鼻で笑ってしまった。
ボツになったアリシアの『ポリコレ姫』実写化プロジェクト。その機密情報を世間に晒すだなんて、これ以上にアリシアの名誉を傷つけて踏みにじる行為が他にあるだろうか。そんなこともわからない癖にアリシアのためだの贖罪だのと、よくもまあそんな綺麗事がほざけたものだ。
画面に映るポール=スミスの写真を精一杯に睨みつける。大衆心理に付け込んだポール=スミスは今や「業界の良心」なんて持て囃され、挙句の果てにSNSのフォロワーは15万人? 薄っぺらな正義感を振りかざして注目を集めたい、そんな下劣な打算しか見えない。
「ほんっと、正真正銘のクズね。結局、自分がチヤホヤされたいだけじゃあないの……っ!」
「まあまあ」
怒り心頭のわたしを宥めようとしているのは、よりにもよってアリシア=ブラック当人だった。
「もう済んじゃったことだし、いまさらどうこう怒ったってしょうがないよミオちゃん」
「なによう、あなたこそちょっとは怒りなさいよ。あなた自身のことでしょうが!」
勢いそのままわたしが噛みつくと、アリシアは「まあ、たしかにそうだけど」と頬を掻きつつこう答えた。
「……でも、スミスさんの気持ち、ちょっとわかるなあ」
「なに言ってるのよ。こいつは、あなたを裏切ったのよ? 本当に甘いんだから、まったくもう……」
わたしはつい呆れかえってしまったのだが、アリシアは「ううん、そうじゃないの」と首を振るのだった。
「きっとね、スミスさん、『自分は誰からも必要とされてない』って思っちゃったんじゃあないかな。自分は誰からも必要とされてない、誰からも見向きしてもらえてない、そんなふうに思っちゃったんだと思う。だからこんなにも皆に認められたいんだよ。わたしもあるもん、そういうの」
そう言いながら、アリシアは溜息をついていた。その目線はひどく切なげで、遠くを見ているようだった。その言葉を聞いて、わたしは少し考え込んだ。
……黒人女性で、障碍者で、同性愛者。そんな社会的マイノリティとして生きてきたアリシアだからこそ、認められたい、必要とされたいというスミスの切実な思いが分かるのかもしれない。
そして、映画監督としても「素人」「看板」扱いされ、本当の実力を認められなかった経験。誰かに認められたい、その苦しみを知っているからこそ、スミスの気持ちに共感できるのだろう。
アリシアは続けた。
「……本当のスミスさんのことを、皆が知ってくれたらいいのにね。いつも皆に気を配ってコーヒーを淹れてくれたり、わたしの車椅子を押してくれたり……あんなに親切な人だったのに」
「親切な人、って……」
「きっとスミスさんは、わたしの隣にいることで、自分も特別な存在になれると思っちゃったんじゃないかな。だから、こんなことになっちゃったのかも」
そう語るアリシアの声には、不思議なほど恨みがなかった。きっと本当に、心の底から彼のことを恨んでなどいないのだろう。
……まったく。こんな状況でも他人の気持ちを察しようとするアリシアに、わたしは思わずため息が出てしまう。なんとも優しすぎる。
「でも、スミスさんって本当に映画のことを考えてくれる人だったんだよ? いつも丁寧に資料を作ってくれてさ、演出のアドバイスもしてくれてさ……」
「あのねえ……」
思わず本当のことを言いそうになって、口を噤む。
ここまで他人の心情を慮ろうとするくせに、どうやらアリシアの奴、ポール=スミスから片想いされていたことにだけは未だに気づいていないらしい。この『人を見る目の無さ』に関してだけは本当に呆れてしまう。
まあ、そんなことはさておき、わたしはなおも言い返した。
「だとしても言語道断よ。ポール=スミスの奴は、あなたの夢を踏み躙ったのよ。許されるわけが……」
「夢? ……ああ、実写版『ポリコレ姫』のことね」
アリシアは少し考えてから、やがて言った。遠い星を見つめるように、瞳を細めて。
「……うん、たしかにあれは夢だったよ。本当に素敵な夢だった」
それはまるで、遠い思い出を思い返すかのような口ぶりだった。色褪せた写真を見るような懐かしさと、ほんの少しの寂しさとが混じったような。
「だけどね、ミオちゃん。契約が切れた時点で、いや、元からあのプロジェクトは権利を持ってるオズワルド社のものなんだよ。契約が切れちゃった今のわたしには関係ないんだ」
その言葉が、わたしには俄かに信じられなかった。
アリシアがあんなに大好きだった『ポリコレ姫』。あんなに一生懸命企画を練って、演出プランを考えて。まるで自分の子供を育てるように、大切に、大切に育ててきたプロジェクト。それが全部台無しにされたというのに。
「で、でも……」
「ほら、ミオちゃん。これ見て」
アリシアは車椅子の肘掛けから、一冊の本を取り出した。最近は『ポリコレ姫』のぬいぐるみの代わりに、いつも持ち歩いている原作の童話本。その表紙には『愛と希望とハッピーエンド』の文字が輝いている。
そしてそれを見つめるアリシアの瞳には、郷愁と共に、前へ進もうという意志が宿っていた。
「この作品を通して教わったことは、もう誰にも奪えないよ。『ポリコレ姫』実写版の監督は降ろされちゃったけど、それでもこの本から学んだことは、これからもずっとわたしの中に残っていくんだと思う」
アリシアの声には、不思議と後悔の色が感じられなかった。むしろ、新しい何かへの期待に満ちている。
……『愛と希望とハッピーエンド』。ポリコレ姫の主人公は、いつだって前向きで、ひたむきで、どんな逆境にも負けない逞しいヒロインだという。そんなヒロインの姿から、アリシアは本当の『愛と希望とハッピーエンド』を学んだのだろう。
……人って、こんなふうに強くなれるものなのね。
アリシア=ブラック。そこにいたのはいつもの子供っぽいアリシアではなく、一人の映画監督としての覚悟を決めた一人の女性だった。
そんなことを感慨深げに思っていると、やがてアリシアは車椅子の小物入れを漁り始めた。その表情はまるで宝箱を開けるように、わくわくした顔だ。
「それに、夢って一つじゃあないんだよ、ミオちゃん!」
そしてアリシアは、傍らから一冊の企画書を取り出した。これも例によって無数の付箋とメモが挟まれており、アリシアが丹念にアイデアを練っていることがよくわかった。
じゃぁーん、とアリシアは得意気に語り出した。
「今、手掛けてる映画の企画! これもとっても面白いんだ! オズワルド社の社長さんの言うとおり、本当にわたしの意見を尊重してくれる良い会社でね、それでね、それでね……!」
今回アリシア=ブラックが手掛けることになった映画、そのタイトルは『悪党軍団大集結』だという。
主人公はサイボーグ忍者の女殺し屋で、さらに殺人鬼とゾンビとサメとアナコンダと恐竜と怪獣とエイリアンと魔法少女が入り乱れ、血みどろのバトロワを繰り広げるパニックアクション映画らしい。その構想を嬉々として話し続けるアリシアと、そんな彼女の言葉に耳を傾けるわたし。
……しかし、愛と夢と希望を謳った超大作『ポリコレ姫』からこれまた随分とカラーが変わったものだ。映画オタクじゃないわたしでも、これが低俗極まりないB級作品だってことくらいはよくわかる。
こんな馬鹿げた下品なモンスター映画がデビュー作で本当に良いのだろうか。一応、聞いてみたのだが、
「えっ? わたし、モンスター映画も好きだよ?」
平然と、というかむしろ嬉しそうにニコニコ笑いながらそう答えたあと、アリシアは大仰な身振り手振りを交えながら続けた。
「それになによりあの名作、『ドラキュリアン』の半魚人を手掛けたあのトム=ウッドラフJrが特撮を、そしてカメオであのメアリー=エリザベス・ウィンステッドが出てくれるんだよ! グロテスクなゴアとスプラッター、ぐちょぐちょのモンスター描写、そしてそれに立ち向かう逞しいスクリームクイーン! まさにサイコーじゃん! まるで夢みたい……っ!!」
「あ、そうなんだ……」
ふんすふんす、と鼻息を荒げて嬉々と語るアリシアに、わたしはもはやどんな顔をすればいいかわからなかった。
『ドラキュリアン』がどれだけ名作なのかちっとも知らないし、トム=ウッドラフJrさんやらウィンステッドさんとやらがいったいどれだけ凄い人たちなのかもさっぱりわからないが、アリシア自身はとても幸せそうだし、まあ、いいか。
そんなことを思っていると、アリシアはこんなことを言い出した。
「あとねー、この映画のことは動画配信でも宣伝しようと思ってるんだー。正体バレちゃったしね」
「……ああ、『ポリコレ姫の人』ね」
あの夜のことはも思い出したくもない。
翌朝、動画共有サイトでは『深夜の生配信で発覚! ポリコレ姫の人の正体は降板させられた実写版監督で、さらに百合カップルだった件』という切り抜き動画が100万再生を突破していたという。続く『深夜の修羅場配信から始まる二人の物語』なる動画群も軒並み再生数を伸ばしていったらしい。
なお、この日の『ポリコレ姫の人』ことアリシア=ブラックのスパチャ収入は、わたしの月収の三倍を超えていた。ちなみに切り抜き動画の広告収入は、その倍だったとか。まったく、なんとも癪に障る話である。
やがてアリシアは良いことを思いついたかのように、楽しげに言った。
「あ、そうだ、ミオちゃんも出ようよ! きっと楽しいよ!」
「イヤよ」
即答した。あんな大恥を晒して、誰が出てやるもんですか。
そうやって断固拒否の姿勢を見せるのだが、アリシアはまるで子供が駄々をこねるように頬を膨らませていた。なによう、不服なわけ?
「えー、皆ミオちゃんのファンになってくれたんだよー? 『ミオお姉様のガチ説教まとめ』とか超面白いのに……」
「イヤったらイヤ。絶対イヤ」
「うーん、残念だなあ。面白そうなのに……」
そう言ってぶーぶー文句を垂れるアリシア。まったく、懲りてないんだから。
そんな何とも言えない気分でいたとき、スタジオの外から声が掛かった。
「……監督ー!」
スタジオの片隅から響く声に、静かな空気が揺らぐ。アリシアに呼び掛けたのは、新しい映画のスタッフだった。撮影の合間、その貴重な休憩時間が終わったようだ。
「撮影再開です! 準備入りまーす!」
「あ、はい、今行きまーす!」
アリシアはそう答えながら企画書を車椅子の小物入れに丁寧に戻し、やがてわたしに向き直った。その仕草には、新しい現場で監督として働く誇らしさが滲んでいる。
「……ごめんね、ミオちゃん。もう行かなきゃ」
そんなアリシアを、わたしは力強く見送る。
「ええ、頑張ってね……」
そうやって互いに声を掛け合ううちに、ふと名残惜しい気持ちになってきた。
窓から差し込む真夏の陽射しが、アリシアの褐色の頬を優しく照らしている。まるで映画のワンシーンのような光の中で、わたしは自然な流れのようにてを伸ばし、その頬に触れた。指先に伝わる柔らかな感触。瞬間、アリシアの瞳が僅かに潤み、その表情が蜜のようにとろけるように緩む。
ゆっくりと、でも迷いなくわたしたちの唇が重なった。
「ん……」
キスの途中、アリシアの手がわたしの首筋に回り、より深く引き寄せられる。スタジオの喧噪も、差し込む陽射しも、すべてが遠く霞んでいく。まるで世界がわたしたちだけのものになったかのように。あるのは、二つの重なり合う鼓動だけ。
「……ミオちゃん、大好き」
離れ際、アリシアがそっと囁く。その声は甘く、切なく、そしてどこまでも愛おしい。そしてわたしはこの瞬間を、永遠に封じ込めたいと思った。
「……ええ。わたしもよ」
だからわたしも思わず、もう一度キスをした。最初のキスよりも深く、互いの愛情を確かめ合うように。刹那の、けれど永遠のような時間が流れる。まさに映画のラストシーンのように。
……それが終わって、わたしたちはようやく顔を離した。アリシアは頬をよりいっそう赤く染めながら、口を開いた。
「……今度の映画、絶対に面白くするからね!」
そう語るアリシアの声は力強く、新たな夢への確かな決意が響いていた。
しょうがないわねと思いながらも、わたしもつい微笑んでしまう。
「まったく……本当に好きなものしか見えてないのね」
そして車椅子を漕いで去っていくアリシアの後ろ姿を見送っていると、懐のスマートフォンから通知音が鳴った。
画面を確認してみて思わず噴き出した。そこに表示されているのはいつも読んでいるWebニュースの記事、タイトルはこうだ。
【独占スクープ】『ポリコレ姫』降板のアリシア=ブラック監督、スプラッター路線へ!? 目指すはB級映画の女帝か
「B級映画の女帝、か……ふふっ」
……たしかに、『ポリコレ姫』の実写版という夢は潰えたかもしれない。
でも、アリシア=ブラックは新しい夢を見つけ、それを追いかけている。それも、自分の好きなように、誰にも遠慮することなく、ただ真っ直ぐに。
それはとにかくとても素晴らしいことだと、わたしは思う。その姿は暗闇を照らす灯台のようにわたしに、いやわたしだけじゃあない、世界中の人たちに希望を与えてくれる。
「はいカメラ、回して! ヨーイ……アクション!」
そして、わたしはそんなアリシアをこれからもずっと、その夢を応援し続けたいと思うのだ。
ポリコレ姫 ~大好きなアニメの実写版監督に抜擢されたけど、実はポリコレ採用だった件~ ヨーダ=レイ @Yoda-Ray
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