第18話
「奏汰くん――」
彼女の左手には、自販機で買ったであろうアイスミルクティーの缶が握り絞められていた。昼食を済ませ、売店にでも立ち寄った帰りなのだろう。
「センパイ。あの人ってもしかして。有名な神宮寺家のご令嬢の、神宮寺茉莉愛さんじゃ」
「あ、うん……」
「えっ、ウソ! センパイ、神宮寺さんとお友達なんですか?」
ゴクリ。自分でも驚くほどに喉が鳴った。泳ぐ視線。滲む汗。胸を打つ荒い心音はもはや恒例の生理現象。それらが音羽の反応と共に加速度を上げ、体内をかき乱す。
「いや……別に、そういう訳じゃ」
「ん? そうですか? でもほら、神宮寺さん」
「何だか寂しそうにして、ずうっと立ち止まったままセンパイのこと見つめてますよ」
音羽はそう言って、茉莉愛と僕を往復し見つめた。ちょうど茉莉愛との対角線上に立つ音羽に身を隠すようにして視線を流す。変わらず彼女は僕を見つめ続けていた。
汗ばんだミルクティーの缶。表面に纏った水滴が束となり、彼女の白く細い指先へと伝う。それでも彼女は微動だにせずこちらの反応を待ち続けている、そんな様子だった。
「あっ……あ」
「あの、神宮寺さん」
ここで再び無視を決め込むのは、あまりにも失礼だと思った。それこそ鬼畜の所業。ひとまず小さく右手を挙げると、とりあえず反応する。
「もぉ~。やっぱりお二人、知り合いなんじゃないですかー」
「て……あれ? そういえばお二人って……。体育祭の時、借り物競走で一緒に伴走してましたよね? そうだ、思い出した!」
「いや、知り合いというか……単なるクラスメイトってだけだよ。彼女は誰にでも親切だから。それに体育祭の時は、たまたま借り物競走のお題で一緒に走ったってだけで」
「ふーん。親切、ですか。流石は学校イチの清純派美少女――ですねッ」
感心する音羽。だがその表情にはどこか、茉莉愛に対し別の関心を示しているようにも見えた。
そうだ。彼女は、神宮寺茉莉愛は、学校イチの誰もが認める言わばマドンナ。だからが故、僕に対しても分け隔てなく接してくれている。ただそれだけのこと。
ここで声を掛けたのも単なる挨拶かもしれない。流石に音羽と話をしているこのタイミングで、例の件についてズカズカと追及してくるような真似はしないだろう。
よって今この場所で、「あの約束」に関してわざわざ音羽に言及する必要もない。そう思った。
コツ、コツ、コツ。
そう判断した矢先、均整のとれたリズムで小さな足音を響かせると、茉莉愛は意を決した様子で渡り廊下を横切りこちらへと向かって来た。
「あの、奏汰くん。この間のことで、お話が」
や、まさか……ウソだろ。
予想は速攻で崩れた。今は取り込み中の場面でもあって、けれど予想外にも茉莉愛は音羽の存在に臆することなくゆっくり近づいて来る。
聖女らしからぬ行動。これはホントにまずい。度重なる逃亡のツケが巡り巡って今、ここで回って来るなんて。音羽の前で「あの話」をされたら、余計にややこしくなる。
――僕は。
秒速で判断し……「策」に出た。
「じ! 神宮寺さん! ちょ、ちょっと待ってて!」
「えっ? あ……は、はい」
茉莉愛に急遽そう言い放つと、僕は咄嗟に音羽の腕を引いた。
「うわ! ちょっ、セ……センパイ?」
「ごめん、ちょっと来て!」
強硬と強攻。ここまで来たらもう、コレしかない。
「っ、先輩?」
僕が繰り出す咄嗟の行動に、驚いた様子の音羽。そのつぶらな瞳にはキラキラと光彩が宿っていた。頬も少し赤い。
なんだ。小悪魔なクセして、こんな表情も見せるんだな。
いや、そんなことよりも今は。
「あのさ……音羽、ちゃん」
茉莉愛からさらに数メートル距離を取ると、彼女に背を向けるようにして回り込む。そして連れ出した音羽と改めて対面し、僕は口火を切った。
「僕に、協力してほしい」
「えっ?」
「彼女は。神宮寺さんはじつはクレールのファンで。この間の体育祭の時、僕がクレールのマフラータオルを持っているのを偶然見られてしまったんだ」
「だけど。彼女はまだ、僕がバンドメンバーだって事には……。そして僕が、ヴォーカルの奏だって事にはまだ気づいてなくって」
「ウソ……。あの神宮寺さんが、クレールのファン?」
「うん。だけど僕は。どうしても彼女に、自分の正体を気づかれたくなくって」
「それでつい、あるウソを――」
こうして限られた数十秒の間に。僕はこれまでの経緯を端的にまとめ音羽に伝えた。
「だからその……今だけ、今だけでいいから」
「僕にタオルをくれた知人のフリを……してくれないかな?」
胡散臭い綱渡りのようなアイデア。運を天に任せるような、苦し紛れの懇願だった。
グググッと詰める距離。熱視線と共に力んだ両の手。
「頼む! おねがい!」
高ぶる思いから、その華奢な両肩に手をかける。息を切らすように、何度も、何度も。彼女に向け訴えかけた。
「先輩」
「うん」
「せんぱい」
「うん」
「ぃ、痛いです」
「え?」
「んぁ……」
甘く途切れた声。漏れ出る吐息。少女の潤んだ瞳に映る、自らの狡猾な有り様。
「ああっ! ご、ごめん!」
僕は
「も、もぉ……センパイってば」
「意外にも強引、なんですね」
「こんなか弱いJKの手足の自由を奪って、白昼堂々力づくで迫るだなんて」
頼む。その言い方だけはやめてくれ。
違うんだ。けれど、弁解の余地も無かった。
「ごめん、ごめんなさい! でも決して、そういうつもりじゃ」
「ふ~ん」
「ホントに……ごめん」
「ふう」
「――でも、まあ」
すると音羽は両手を絡め合わせ、そして、大きく伸びをしながら。
「いいですよ」
「えっ……ホントに?」
「な~んだ、そういうことでしたか」
「いいですよ、わかりました! そういう事なら、アタシが協力してあげます」
受け取った彼女からの真っ直ぐな快諾。交渉成立だ。
良かった。助かった。
だが安堵が押し寄せると同時に、「ンフフフッ」と再び咲き散らす、謎めいた微笑。
何だろう、この得体の知れない胸のざわつきは。けど、それでも。
「その代わり」
「え?」
確かに感じた、只ならぬ含み。それはすぐさま闇色の言葉となって返って来る。
「その代わりって……いったい何を?」
「まあ大したことじゃないです。なのでこの見返りは、また後でってことで」
「ひとまずここはアタシに任せてください」
「えっ? あっああ、ちょっと!」
音羽はそう言い残し踵を返すと、遠くで待つ茉莉愛のもとへと走って行った。
ちょっと待ってくれ。話はまだ終わっていない。大事な部分を語らずして行かれたら、こっちとしても歯切れが悪い。というか、きな臭いったらありゃしない。何なんだ。
「はじめまして神宮寺さん!」
「えっ? あっ」
「は、はい……はじめまして」
「すいませんいきなり。アタシ、久留米音羽って言います。一年生です!」
突然の挨拶にあわあわと動揺する茉莉愛。当然の反応だった。だがキョトンとした表情を見せつつも、初対面の音羽に対し礼儀正しく会釈を返す。
「おとはさん?」
向かい合う両者。「純真たる聖女」と「悪戯なる小悪魔」という、風変りな構図がそこにはあった。音羽はいったい、何を考えて……。僕は慌てて二人のもとへと駆け出した。
「ところで。神宮寺さんって、クレールのこと知ってるんですね」
「えっ? ど、どうしてそれを」
「じつはアタシなんです! 奏汰センパイに、あのマフラータオルをあげたの」
えっ、いきなり? 何の助走も無く?
ちょっと……お、と、は、さん?
こういうのは多少なりとも話の流れというか、段階というものがあるのでは。けれど音羽がそう切り出すと、案の定対する茉莉愛から「えっ!?」と大きな声音が飛び出し、中庭じゅうに響き渡った。
「ええ、っと……」
そして驚いた末。茉莉愛の視線が音羽を通り越し、その先に立つ僕へと向かう。
宝石のように美しく輝いた瞳。恥ずかしさと罪悪感から自然と唇がゆがんだ。一方の音羽は僕を見るや否や「大丈夫、このままアタシに任せて」とでも言うように、パチクリとウインクを放ってくる。
違う。全然違うぞ。僕の嘘に合わせ上手に立ち回っていると思ったら大間違いだ。
確かに協力は仰いだが、この展開はあまりに奇想天外。スピード感がありすぎる。……けど。
「そ、そうなんだ……神宮寺さん」
並々ならぬ焦燥感を募らせていた僕は、慌てて二人の会話に割って入った。
「じつは彼女が、前に話していた知人なんだ。彼女とはもともと知り合いで、それでずっと、クレールのファンでもいてくれてて」
「いてくれてて?」
何気ない僕の言い回しに、食いつきを見せる茉莉愛。
あれ? どうした? …………あっ!
すぐさま事態を察知した。
「いてくれてて」って何だよ。これじゃあ自分が、遠回しにクレールのバンドメンバーであると自白しているようなものじゃないか。
失言だった。額に流れる汗を拭いながら、隣に立つ音羽を流し見る。すると例の小悪魔はまたしても「ンフフフッ」と嬉しそうにほくそ笑んでいた。
敢えてフォローをせず、やりとりを楽しんでいる。そんな思惑が人形のような悪童顔からひしひしと伝わって来た。――(おい、笑ってないで助けろ!)
「ち、ちがっ! そうじゃなくて!」
「彼女はその、結成当初からの、ファンで」
しどろもどろ。ツギハギだらけの断片を縫い合わせたかのような返答、だったが。
「そう、だったんですか」
「……なるほど」
結果納得した表情を見せる茉莉愛。どこまでも素直な聖女で心底ありがたかった。
「まあまあ、そんな感じですッ! アタシ、バンドオタクなので」
ここでようやく、音羽が調子を合わせるようにフォローに入った。――(遅いわっ!)
「それで神宮寺さん。さっきセンパイから聞きましたよ」
「えっ? 何を、ですか?」
「神宮寺さんがその、クレールのファンとお友達になりたがってるって」
「ひぁっ! ま、まあ……それは、その」
突如一変した表情。自ら提案したことを忘れてしまったのか、茉莉愛は指先をもじもじさせながら、その染まる顔と恥じらいを隠すように俯いていた。
「アタシもです!」
「えっ……?」
「アタシも仲良くなりたいです!」
「なのでぜひ、同じファン同士として。お友達になりましょッ!」
「いっ、いいんですか?」
「もちろんです、ンフフッ」
言いながら音羽は距離を詰めると、茉莉愛の両手をギュッと掴んだ。
「じゃあ今日からヨロシクです、“茉莉愛さん”」
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