第9話 黄昏色の誘惑

 


 それは夏の暑さも真盛を迎える八月半ば。

 俺はせっかくの夏休みだというのに、なぜか制服を着て、学校に来ていた。


「まったく……悪魔関係の相談があるからって呼び出しといて……」


 きっかけは昨日の夜。

 桜庭から、悪魔に関する相談があるから、例の空き教室に来てほしい――そういった旨のメッセージを受けとって、こうして学校に参上した次第である。

 また悪魔に関わってるのかよお祓い行った方がいいだろ――なんて思っていたのだが、これは何とブラフだったのだ。桜庭に一本取られてしまった形である。


「だって音穏くん、そう言わないと絶対来なかったじゃん」

「そりゃ、わざわざ教室の掃除の為に貴重な夏休みを潰すバカは、そうそういないだろ」

「『貴重な夏休み』って――どうせ家でダラダラしてただけなんでしょ?」

「家でダラダラするのに忙しかったんだよ」

「それを世間一般では、暇って言うんだよ」


 言いくるめられてしまったので、俺はあらぬ方向に視線を向けた。

 俺は基本的に暇だ。友達がいないから、夏休みに予定なんてない。基本的に家の中でダラダラしてる――といっても、俺はこの生活をまったくと言っていいほど不満に思っていない。気温三十度越えの猛暑の中、わざわざ外に駆り出していく連中の気が知れない。クーラー最高。


「なにもこんなクソ暑い中教室の掃除なんてしなくても……」

「ダメだよ。あの空き教室は私たちの事務所みたいなものなんだから」

「事務所? なんの?」

「エクソシストの」

「まだ言ってんのか……」


 バカバカしい。

 そもそもあの空き教室だって、俺が一人になれる空間が欲しくて使っていた場所だ。決して、悪魔に憑かれた人を招き入れる為じゃない。

 ――しかし、桜庭はそうは思わなかったみたいで。

 本日、昼過ぎに集合してから三時間、俺は空き教室の清掃及び模様替えに付き合わされたのだった。

 結果、埃がうっすらと積もっていた寂れた空き教室は、それなりに見栄えのいい事務所のような場所に劇的ビフォーアフターした。


「まったく……」


 首にかいた汗を乱雑に拭う。

 気温三十度越えの猛暑の中、サウナのようになった空き教室で三時間も作業するのは、さすがに堪えた。喉がからからだ。


 桜庭も同じ思いだったようで、首筋の汗を拭った。

 といっても、俺と同じように粗野に拭ったのではなく、ちゃんとハンカチを使っていたが。

 ミディアムボブの茶髪から覗く項。そこにうっすらと浮かんだ珠のような汗。

 夏めいた少女の魅力に俺が一瞬目を奪われた――その瞬間のことだった。


 まず、頭上に気配を感じた。

 ふと頭上を見上げる。

 いきなり視界に飛び込んでくる物体。それは手足が生えた黒い影。人間だった。危ない――

 声をかけるか、ヘッドホンを掛けるか。

 一瞬悩んだその間に、すべてが終わった。

 上空から落下してきた何者かは、俺のすぐ目の前にいた桜庭に直撃し、彼女の身体を一瞬にして地面に押し潰した。プロレスの技にこんなのあったっけな、なんて名前だっけな――なんて思考が不謹慎に思えるほど、それは見る者を震撼させる光景だった。


「!」


 一瞬の間をおいて。


「桜庭ッ!」


 俺は悲鳴を上げるように叫び、折り重なっている二人の女子に駆け寄った。下敷きになったのが桜庭。上になっているのが制服姿の女子生徒。落下の衝撃でスカートがめくれたのか、ライトブルーのパンツが世間様にこんにちはしてたが、さすがにそんなことを気にしている暇はなかった。

 ぐったりとなった名も知らぬ女子の身体をゴロリと転がして、下敷きになった桜庭を救出する。


「桜庭? 大丈夫か?」

「んぇ……なにが、どうなって……」


 不意打ちだったからか混乱しているようだが、怪我はなさそうだった。目の焦点が定まらず、ゆらゆら揺れてはいたが、軽い脳震盪だろう。悪魔と契約して得た丈夫な身体が、彼女のことを救ったようだ。


 ならば落ちてきた女子はどうか。

 まず――何よりもまず、捲れ上がったスカートの裾を直す。そして、ドラマの見よう見まねで首筋に手を当てて脈を測った。どこに手を当てればいいのかわからないので手間取ったが、結論、彼女は生きていた。

 一安心すると同時に、俺は彼女の顔に見覚えがあることに気づいた。


「小清水……先輩」


 三年生の小清水亜紀あき先輩だ。少し前、美術部で絵画にナイフを刺される事件があったが、その時、モデル役として美術準備室にいた女子生徒だ。

 だけど、なぜ彼女が自殺を――そう考えてから、俺は冷静に頭を振った。時期尚早だ。まだ自殺と断定するのは早い。

 空から人が降ってきたら、ついつい飛び降り自殺を想定してしまうが、誰かに突き落とされた可能性だって、ないことはないのだ。


 俺はとっさに校舎を見上げた。

 俺らが今出てきた文化棟の目の前にある本校舎。夏休みだから人がいないのか、どの窓も空いていない。もしも小清水先輩が突き落とされたのだとすると、その現場は屋上ということになる。

 そして。

 その屋上には何かの影があった。角度的に太陽を背にしているので影しか見えず、また、立ち去る瞬間だったので背格好もわからない。ただ、間違いなくがそこにいた。


 追うべきか?

 いや、救急車を呼ぶ方が先か――


 屋上に気を取られながらスマホを取り出す。すると、倒れていた小清水先輩が起き上がる気配をみせた。

 もともと、学校の屋上なんて大した高さじゃない。桜庭が下敷きになったおかげもあって、大したダメージにならずに済んだのだろう。俺が見守る目の前で小清水先輩が「う~ん」と唸って、うっすらと目を開けた。うざいくらい眩しい太陽が眼球に直撃したのだろう、ぎゅっと目を瞑った彼女は、今度は慎重に目を開けると虚ろな瞳を泳がせながら、「あれ……私……なんで……」


「先輩は屋上から落ちたんですよ」

「……落ちた? 私が?」

「ええ。自分で飛び降りたんですか?」


 と、一応そんなことを訊いてみる。

 犯人らしき影を見た以上、そんなわけはないとわかっているから、こんな無神経な質問ができるのだ。否定させるために投げかけた質問は、しかし、小清水先輩から予想外の言葉を引き出した。


「違う……自殺じゃない……背中を押されたの……悪魔に」


 俺はいつものごとく天を見上げた。

 女の子が降ってきたとは思えないほど、気持ちのいい快晴だった。



 やがて学校には救急車とパトカーが訪れ、夏休みで人が少ないはずの学校は上を下への大騒ぎ。小清水先輩は救急車に乗って病院に搬送されていった。

 もちろん俺は落下してきた小清水先輩をこの目で見たわけだから、刑事さんからの事情聴取といやつを体験することになったわけだが、あれは案外、上手く喋れないものだ。なんにせよ、普通の人間とは異なるに身体を持つ桜庭を病院で検査させるわけにはいかないので、落ちてきた小清水先輩をが桜庭に直撃したことを伏せ、その他は正直に事のあらましを伝えた。


 翌日は金曜日だったが、夏休みなので当然学校も休み――なのだが、小清水先輩の口から出た「悪魔」の二文字を無視することはできない――そう桜庭が主張するので、俺たちは小清水さんが入院した病院に向かった。つまり、お見舞いに行ったのである。

 大した関係もないのにお見舞いに行くのはおかしいだろ――という俺の至極まっとうな主張は、しかし、桜庭が小清水先輩と知り合いだったので通らなかった。桜庭の顔の広さには、いっそ辟易する。


 病室の扉を開けて、俺らが顔を覗かせると、小清水先輩はびっくりしたような顔をした。


紅巴いろは? と……?」


 一瞬詰まって、やっと名前を問われているのだと察した。

 そういえば、前回美術準備室であったときは名乗らなかったな。


「……桜庭のクラスメイトの二ノ宮です」


 ぺこりと頭を下げると、会釈が返ってきた。その挙措は優雅で、どこか品を感じさせる。


「アキ先輩! よかった、元気そうですね。いやあ、昨日はびっくりしましたよ。いきなりに落ちてくるんですもん。あ、これ花束です」


 桜庭は白々しい演技をしながら彼女に白薔薇を押し付け、


「で、聞きたいことがあるんですけど、アキ先輩、昨日言ってた悪魔に背中を押されたって本当ですか? どんな見た目の悪魔でした? 悪魔だと思った理由は――」

「おい」


 桜庭の暴走を抑え込む。

 こいつにしてみれば、夏休みに入って以来、悪魔とは関わってないわけだ。それは本来、幸せなことなのだが、エクソシストを自称する彼女にしてみれば、退屈だったのだろう。

 とはいえ。


「お見舞いに来たなら、ちょっとは身体の心配をしろよ」

「あ、うん……そうだったね」


 そんな俺らのやり取りを聞いて、小清水先輩は事情を理解したように笑みを浮かべた。


「いいのよ。そういえば、紅巴いろはは最近、悪魔についての相談を募集してるんだってね――でも、残念。ハッキリしたことは答えてあげられないの。実は、記憶が曖昧で……」

「昨日のこと、覚えてないんですか?」


 桜庭の問いに、小清水先輩は手にした花束をじっと見つめながら、ゆっくりと頷いた。


「ええ。でも、自殺ではないわ。それは間違いない――朧気だけど確かに覚えてるの、悪魔に背中を押されたことを」

「悪魔……ね……どうしてそれが悪魔だと断言できるんです?」

「だって、生き物のカタチじゃなかった。ぼやっとしか見えなかったけど、生物とは思えない姿をしていたもの」

「なるほど。じゃあ、アキ先輩はその悪魔に屋上から突き落とされたんですね?」

「そういうことになるわね」


 桜庭がキラキラした目を俺に向けてくる。

 さすがに不謹慎だろと思いつつ、俺は溜息を吐いて、先ほどから気になっていた疑問を口にした。


「――ところで、小清水先輩はどうして屋上に? というかそもそも、なぜ学校に? なにか部活に所属してるんですか?」


 そう問うと、小清水先輩はわかりやすく眉を困らせた。桜庭もまた、着まずそうに息を詰まらせている。何かまずいことを訊いてしまったらしい。


「……部活には入ってないわ。学校にいたのは、家に居づらかったから。屋上に行ったのは、なんとなくよ。先生に嘘言って鍵貸してもらったんだけど、本当はダメなことだから、秘密ね」

「……まあ、誰かに吹聴できるほど、俺の交友関係は広くないので」


 と、玉虫色の返事をする。

 空気の過剰読みが得意な桜庭は、気まずい雰囲気を払拭するように、わかりやすく空元気な声で言った。


「アキ先輩、任せてください! 私と音穏くんがその先輩を突き落とした悪魔を、きっちり成敗しますから」

「ふふっ、頼もしい」


 俺はまだやるとは一言も言ってないのだが、小清水先輩があまりに上品に笑って、期待するようなことを言うので、俺は引くに引けなくなってしまった。

 まあ、いいだろう。

 聞いたところ、今回の一件に悪魔が関わっている可能性は大だ。自分の通う学校で悪魔が出たなら、対処しないわけにはいかない。


「まあ、見たところ小清水先輩が悪魔に憑かれてるということはないです。この病院で安静にしてれば、悪魔にちょっかいを出されることはないと思います」

「……それって、本当?」

「ええ、たぶん、小清水先輩を襲ったのは、その辺の野良悪魔でしょうね」


 そういうことはままある。

 悪魔にもいろんな奴がいて。その辺を徘徊してるタイプだっている。そういう奴が人間にちょっかい――と呼ぶには、命に係ることもあるので、マイルドな表現が過ぎるかもしれないが、とにかく、通りすがりに人間に悪戯することはケースはある。

 つまり、小清水先輩が運が悪かったということだ。


「俺たちはこれから学校に調査に向かいます。小清水先輩はどうぞ、お大事に」

「うん。二ノ宮も、頑張って」


 美人に「頑張って」なんて言われると、健全な男子としてちょっと反応してしまう。

 目敏い桜庭は不満げな顔を作りながら、そんな俺の脇腹をつついてきた。地味に痛い。

 断っておくが、俺が思わず反応してしまったのは、美人にお願いされるというシチュエーションにドキッとしてしまったから――だけではない。

 俺が動揺した理由の、そのうちの二割を占めるのは、その小清水先輩の表情に、どこか違和感を覚えたからだ。

 後ろめたさなような。

 緊張と不安のような。

 そんな何かが、小清水先輩の表情に、ごく微量に溶け込んでいるような、そんな感覚を覚えたからだ。

 ――まあ、もちろん。

 俺が動揺した理由の八割は、小清水先輩が美人だったからである。



 病院から学校に向かう道すがら、バスに乗り込んだ俺は、小さな溜息を吐いた。

 なんたって夏休みにこんなことをしなくちゃならないのか。

 車窓を流れる街並みは、ウザいくらいに夏だ。

 夏は嫌い――だって暑いから。

 バスの中は空調が効いてて涼しいけど、一歩外に出れば地獄の炎天下だ。アスファルトが熱気で揺らめいているのを見るだけで、クーラーの効いた我が家に帰りたくなってくる。これから灼熱の校舎内で悪魔の捜索をしなければならないと思うと、吐き気すら覚えるほどだ。


「アキ先輩を突き落とすなんて許せない。絶対この手で成敗してやる」


 と、隣で熱を上げる桜庭が、俺のやる気を削ぐ、最大の要因かもしれない。夏に行動を共にするには、ちょっと暑苦しいんだよな、こいつ。


「桜庭は、小清水先輩とは仲がいいのか?」

「うん。そうだけど?」

「どうして? 部活の先輩後輩ってわけでもないし、学年の違う生徒と仲良くなるタイミングなんてないだろ」

「え? みんなで遊ぶときとか、他学年の人とも一緒することあるくない?」

「………」


 学年の垣根を超えた集団に誘われたことがないからわからない。そもそも、集団に属したことがないので。


「でも、アキ先輩はその中でも特別なんだ。なんか馬が合っちゃって、たまに二人だけで遊ぶこととかあるよ。ショッピング行ったり、映画見に行ったり、二人で遊園地行ったこともあるかな」

「完全にデートだなそりゃ。カップルかよ」

「カップルより仲良しだよ。アキ先輩、すっごい性格いいの。なんていうか……イケメン?」

「それ、女子に対して使うのは、褒め言葉になるのか?」

「でも実際、カッコいいんだよ。さっぱりしてて、男らしいっていうかさ」

「……まあ、確かに、そんな感じだったな」


 さばさばしてるというか、なんというか。

 クールと言えば、正鵠を射ているだろうか。桜庭のように人を惹きつけるタイプではないが、人に好かれやすいタイプに見えた。

 まあ、所詮、対人経験ほとんどゼロの、俺なりの所感だが。


「小清水先輩は、家庭に問題を抱えているタイプか?」

「え?」

「『家には居づらい』って、言ってたろ」

「………」


 俺が訊くと、隣に座る桜庭から動揺の気配を感じた。

 目を向けると、目が泳いでいる。

 何か知っているのは間違いないのだろう。とはいえ、家庭の事情なんてとてもデリケートなものだ。勝手に話していいものか、悩んでいるのだろう。しばらく悩んでいた様子の桜庭だったが、ゆっくりと、そして慎重に口を開いた。


「私も具体的には知らないんだけど……アキ先輩のご両親は、アキ先輩が中学生のときに離婚してるらしくて――今のお父さんは、お母さんの再婚相手みたい」

「つまり、義理の父ってことか」

「うん……家庭内がどんな状況なのかは知らないけど、でも、去年急に新しいお父さんが家庭に入ってきたわけだから――」

「複雑な事情があってもおかしくはないってか……」


 親との関係。

 難しい問題だ。特に俺にとっては、苦手とする分野でもある。

 うちは両親ともに子供に対して無関心を決め込んでいるから、軋轢みたいなのは基本的にない。関係が薄弱な代わりに、問題も起きないのだ。


「音穏くんは、アキ先輩の家庭の事情が、今回の悪魔に関係あると思ってるの?」

「いや、別に」

「じゃあ、どうしてアキ先輩の事情を知りたがるの?」

「なんとなくだよ。なんとなく」

「ふ~ん」

「……なんだよ」

「別に。珍しく興味津々だなと思って。アキ先輩、とんでもない美人だもんね。やっぱ、男の子って、ああいうクールな女の子が好きなんだ。ふ~ん」

「何でこんなクソ暑いのにめらっとしてんだ面倒臭せぇ……」


 あれこれやり取りしてるうちに学校が近づいてきた。

 俺は立ち上がって停車ボタンを押す。財布を開けて小銭を確認した。都会と違って、地方のバスは結構高くつく。降りる頃には、財布の中はだいぶ軽くなっていた。


「んじゃ、行くか……」


 現在時刻、夕方六時。

 夜ではないので、制服さえ着ていれば学校には簡単に入れる。


「アキ先輩を突き落とした悪魔、本校舎にいるんだよね?」

「まあ、そういうことになるな」

「? 微妙な言い方だね?」

「まあ、間違いなく言えることは、夏休みになる前は学校に悪魔なんていなかったってことだ。つまり、悪魔がいるなら、そいつは夏休みに入ってから現れたってことになる」

「それが?」

「そんな若い悪魔が、人間を突き落とせるほどの力を持ってるのは、不自然なんだよな……」

「……確かに。言われてみれば」


 何かが変だ。

 何か、ずっと違和感がある。喉の奥に小骨が引っ掛かったような不快感が。

 悪い予感がする。


「――ま、なんにせよ、まずは屋上を検分してみないことにはな」

「でも、どうやって行く? 屋上から転落事件があったのに、先生が屋上の鍵を貸してくれるとは思えないよ」

「ま、普通に屋上に行くのは無理だろうな」

「……普通に?」

「ところで桜庭――クライミングは得意か?」



 ということで俺たちは屋上に侵入した。

 どうやったかというと、まあそれは何の捻りもなく、悪魔の契約者としてのフィジカルにものを言わせて、校舎の外壁をよじ登っただけなのだが。

 配管に掴まって屋上までよじ登り、屋上をぐるりと囲む三メートルほどの高さの落下防止用フェンスを乗り越えた俺らは、すぐにその姿を確認した――悪魔だ。


「■……■……■?」


 兎の頭と、その眼球があるべき部分に埋め込まれた複眼。胴体は亀。手足は節ばった細い、昆虫のそれ。相も変わらず醜悪な幼魔は、その細い六本の足で侍従を支えきれないのか、生まれたての小鹿のように震えていた。


「こいつが……アキ先輩を?」


 桜庭が首を捻るのも無理はない。

 見るからに低級の雑魚。生まれたての無害な幼魔だ。

 人を突き落とすほどの力があるとは思えない。


「……なんにしても、幼魔を放置しとくわけにはいかない。成長する前に殺しておかないと」


 俺がヘッドホンに手を掛けようとすると、桜庭の手がそれを制した。


「私にやらせて」


 そう言って、桜庭は安全ピンを構える。


「大切な友達を傷つけられたんだから、私がケジメをつけたい」

「……まあ、好きにすればいいけど」

「ありがとう」


 安全ピンが、親指の付け根を貫く。

 珠のように浮かんできた血は、しばしののちに、その傷口の大きさではありえないような勢いで溢れ始めた。


血術アーツ


 血が細剣レイピアを象る。

 赤黒い、血の刃。

 武の才があるのかなんなのか、桜庭の刺突は見事なものだった。

 一歩。

 強烈な踏み込みとともに突き出された細剣は、幼魔の真ん中をあっさりと貫いた。戦闘らしい戦闘にもならぬまま、小清水先輩が突き落とした幼魔は、塵となって消えていく。残された魔石は小さく、そこら辺に落ちている小石のようだった。


「これで終わり……なんだよね?」


 あまりにもあっけなさ過ぎたのか、桜庭が困惑気味に声を漏らす。


「ま、大した奴じゃなくてよかったと考えるべきだな。俺は帰るから、桜庭は魔石を彩華さんに換金してもらってこいよ」

「えー、一緒に行こうよ。『紗琳堂』でお茶していこ」

「これ以上面倒なことしたくない」

「今、私とのお茶を『面倒なこと』って言った⁉」



 桜庭が『紗琳堂』に向かうのを見届けた俺は、その後、小清水先輩が入院している病院を訪れていた。もちろん、桜庭には内緒で。

 夏の日は長いと言えど、さすがにもう日は沈みだした。

 夕方から夜にかけての時間だ。

 当然、面会時間はとっくに過ぎているので、今、小清水先輩の病室に向かっていることが看護師にばれたらヤバい――が、最近、廃墟に侵入したり夜の学校に侵入したりを繰り返しているうちに、そこら辺の倫理観はバグってしまったので、緊張はない。


 小清水先輩の病室の前にたどり着いた俺は、周囲を確認してから扉をノックした。


「………」


 返事はない。

 不審に思って無断で扉を開けると、中はもぬけの殻だった。いるべき小清水先輩の姿はない。


「マズいな……」


 駆け出したい気持ちは、ぐっと堪えた。

 さすがに病院内を走り回ったら目立ってしまう。それでも逸る気持ちは抑えられず、俺は速足で屋上を目指した。

 屋上の扉を開け放つと、まず最初に感じたのは心地よい風だった。

 夜が近づき、風が涼しくなっている。


 黄昏時――『誰そ彼時』から来ているこの時間は、人の判別もつかぬほど暗い時間なわけだが、生憎、俺の眼にははっきりとその人の顔が見えた。


「小清水先輩」


 声をかける。

 落下防止用のフェンスに手をかけていた彼女は一瞬肩を震わして、そしてゆっくりと振り向いた。


「――二ノ宮……」

「お友達の桜庭じゃなくてがっかりですか?」

「いいえ、そんなことないわ」

「――じゃあ、桜庭じゃなくてほっとしてますか?」

「………」


 返事はなかった。

 ただ、その美しい顔に諦観の表情を浮かべる。


「もしかして、全部わかっちゃった?」

「………」

「紅巴には言ったの?」

「……言ってません」

「そう……」


 安堵の表情。

 その顔に、俺は自分の推理の確信を深めた。


「小清水先輩は、何一つ嘘を吐いてなかったんですね――でも、騙されました」

「騙しきれなかったみたいだけど――参考までに、どうしてわかったのか教えてもらっていい?」


 なんの参考なのか。

 知りたくもないので、俺は自分の推理の開陳を始める。


「まず疑問に思ったのは、悪魔の弱さです。校舎の屋上には確かに悪魔がいましたが、あれに人を突き落とすほどの力はない」

「……悪魔にも強い弱いがあったんだ。それは計算外。悪魔っていうのは、どれもこれも人間よりずっと強いのかと思ってた」

「もうひとつ疑問に思ったのは、小清水先輩の『背中を押された』という証言です。校舎の屋上は周囲を三メートル近い落下フェンスが囲んでます。背中を押されて落ちたなら、最初から小清水先輩はフェンスの外側にいたことになる――死のうと思ってたんですね?」

「……当たり。でも――」

「でも、自殺じゃない」


 小清水先輩が病室で言っていた言葉だ。

 もちろん、それが嘘の可能性だってあるが――嘘であってくれたなら……。


「小清水先輩は自殺するために屋上を訪れて、実際にフェンスを乗り越えて、死のうと思って、自分が激突する地面を見て――そこで気が変わったんですね?」

「地面を見て?」

「正確には、そこを歩く桜庭を見て」


 小清水先輩は深く目を閉じた。

 それは無言の肯定に見えた。


 その反応を見て、俺は事実を暴く。桜庭にはとても教えられない、最低な事実を。


「小清水先輩は。屋上から桜庭に向かって飛び降りることで、全身を使って、まるでフライングボディアタックのように、桜庭を押し潰して、殺そうとした。つまり、これは自殺じゃなくて、殺人だったんです」


 自殺じゃない――小清水先輩のその言葉に、嘘はなかった。あれは明確に桜庭への殺意を持って行われた、殺人だったのだ。正確には、桜庭が小清水先輩の予想外に頑丈だったため、殺人未遂というのが正しいか……どっちにしても。


「もちろん葛藤はあったんでしょう。そんなことをしてはいけないと、小清水先輩の良心は呵責を覚えたはずです――だから、最後は悪魔に背中を押された。もちろん、物理的な意味じゃなくて、慣用句的な意味で」

「そこまでわかってるんだ……」


 桜庭を殺そうとする小清水先輩を、あの幼魔は唆した。

 物理的に干渉する必要もなく。

 彼女は彼女の意思で、飛び降りたのだ。

 そんな自爆特攻同然の行為ができたのは、当然、彼女が直前まで死ぬつもりだったからで、運が悪くも、或いは良くも桜庭に直撃できたのは、ただのラッキーか、或いは悪魔のせいか――悪魔は人の願いを叶える為なら、強力な力を得る。


「私のお父さんね、母さんの再婚相手なの」

「………」


 ここからは、この事件のディティールだろうなと思った。

 あまり興味はないが、この状況で聞かない選択肢はないので耳を傾ける。


「最初は上手くいくと思ってた。母さんと本当のお父さんは離婚しちゃったけど、私と母さんの仲は良かったし、新しいお父さんも真面目で、誠実な人そうだったから」

「………」

「でも、理想の新生活は、半年も続かなかった――こんなこと自分で言うのもあれだけど、私、美人だから。新しいお父さんは、母さんより私に興味を示し始めた。つまり、全然誠実な人じゃなかったってこと。私の目は節穴ね」


 小清水先輩は自嘲気味に笑う。


「女っていうのは不思議でさ、男に浮気されると、浮気した男じゃなくて、浮気相手の女に怒りを覚えることが多いの。お母さんにとって、それは私だった」

「………」


 具体的に聞きたい話じゃ……ないな。

 他人の家庭が崩壊していく様なんて。


「仲良しだった母さんは、私を疎みだした。家庭の雰囲気は最悪。もはや、私にとって家は安らげる場所じゃなくて、夏休みは苦痛だった――屋上を訪れたのはね、死にたくて訪れたんじゃないの。本当に、ただの気晴らしで、入っちゃいけないところに入るスリルを楽しんでただけ。でも、高いところに立ってみたら、自然と身体がフェンスを越えてた」


 死は甘美な誘惑。

 人は、死ぬ理由がなくても、生きる理由がないだけで死ねる。


「でも、二ノ宮の言う通り、飛び降りる前に、自分がどんな地面に激突して死ぬのか知りたくて、下を見て、気が変わった――紅巴とは本当に友達なの。友情に打算はない。嫌いなわけじゃない。紅巴の天真爛漫さは私も好きだし、年は違うけど、一番の友達だと思ってる」

「……なら、どうして」

「さあ、どうしてかしらね。でもあの時、楽しそうに二ノ宮と歩く紅巴を見て――殺意が沸いた。殺したいって、そう思った」


 全部聞いて、やっぱり聞きたくなかったと思った。

 殺そうとした側の事情なんて、内心なんて、聞きたくない。

 加害者側の視点なんて、知りたくなかった。

 ただ、桜庭を殺そうとした犯人として誹り、罵りたかった。

 今はもう、それはできない。


「……このこと、誰かに言う?」


 そんな問いに、俺は弱々しく首を振って答えた。

 小清水先輩は優しい笑みを浮かべて、ひとつ頷く。


「そっか……二ノ宮は、紅巴のことが大切なんだね」


 小清水先輩の言ってることは間違ってなかったけど、肯定するのは気恥ずかしくて、俺は話を逸らすように口を開いた。


「――屋上に来たのは、また、死のうとしてたんですか?」

「うん、そのためだった。でも、二ノ宮が来たのせいで興が削がれちゃった」


 そうか。

 それなら、急いできた甲斐があったってものだ。


「失敗だなぁ……まさかこんなに何もかも暴かれちゃうなんて――『悪魔』なんて口にしたのが間違いだったのかな?」

「いいえ」


 俺は首を振る――今度は力強く。

 彼女のミスはそこではないと、俺は確信しているから。


「――死のうとしたことが、あなたのたった一つの間違いですよ、小清水先輩」


 黄昏の空は闇を深くしていき、夜は足音を立てずに近づく。

 こうして、小清水亜紀の自殺に端を発する一連の事件は解決

 彼女は退院すれば、また愛のない家庭に帰る。

 母親に疎まれ、父親に色目を使われる家に。

 死よりも辛い俗世の苦しみに苛まれる――それが彼女の、桜庭を殺そうとした罪に与えられる罰であろう。

 決して逃げることは許されない。

 誰が許しても、この俺が許さない。

 もしも彼女が死んで楽になろとするのなら、俺が何をもってしてもそれを妨害する。


 俺は決して、彼女を赦さない。

 

 

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二ノ宮音穏の祓魔帳 銀楠 @sirogusu

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