第8話 石竹色の秘密

 


「ふ~ん……ネクラの二ノ宮がエクソシストねぇ……陰キャボッチは世を忍ぶ仮の姿、本性は悪魔と戦うエクソシスト……まあ、オタクが好きそうな設定じゃん?」

「もう、菜々子……やめてよ――ごめんね、音穏くん」


 八月上旬。

 時刻はちょうど昼の十二時頃。

 場所はちょっとお洒落なカフェ。

 一つ机を挟んだ向こう側には、長くウェーブのかかった金髪に、見る人を威圧する吊り上がった眦の、足を組んでふんぞり返っていた。

 その隣では、桜庭が宥めるように声をかけながら、困った顔を作っている。

 

 案の定、例によって例のごとく、悪魔関連の相談で桜庭に呼び出されたわけだが……呼び出されたのに、歓迎されていないようだ。


「あんたホントに悪魔なんて祓えるわけ? なんか、あたしのカレシのほうが強そうなんだけど」

「ちょっと、菜々子! いい加減にして! 音穏くんがやる気なくなっちゃったら、困るのは菜々子でしょ?」

「別にあたしは困らないけど? ていうか、紅巴も騙されてるんじゃないの? 悪魔がいるのっていうのは、まあ……信じてあげなくもないけど――だとしても、こいつが頼りになるとは思えないんだけど?」


 俺が頼りになるのは悪魔の存在より非現実的かよ。

 ここまで強烈な口撃を受けてはいるが、俺は目の前の女とは面識がない。

 顔に見覚えがあるのでクラスメイトだとは思うが、交流は全くない。


「――つか、お前、誰?」


 と、誰何してみると、金髪女の吊り目がさらに吊り上がった。


「はぁ⁉ なんであたしのこと知らないの?」

「話したこともない奴なんて知るわけないだろ。逆になんでお前は俺の名前知ってるんだよ? 俺のストーカーなのか?」

「ふっざけんな‼ 誰があんたみたいなネクラのっっっ……‼ ――もういい‼ 帰る!」

「まあまあまあ……待ってよ、菜々子。ほら、音穏くんって基本的に誰の名前も把握してないから。小夜のことも知らなかったし。菜々子が特別じゃないから――音穏くんも、依頼人のこと煽らない」


 桜庭がとりなそうと必死なので、俺は肩を竦めて答えた。無駄に引っ掻き回す趣味はない。

 俺が何を言っても無駄そうに見えたが、しかし、そこはさすがの桜庭か、彼女の言葉は耳に入るようで、金髪女は真っ赤にしていた顔を鎮め、渋々と席に座りなおした。


「音穏くん、こちら蒲野かばの菜々子――今回の悪魔事件の依頼人さん」

「……悪魔に憑かれているようには見えないけど?」

「憑かれてるのはあたしの兄貴よ――忌々しい淫魔にね」

「淫魔?」

「男の下劣な欲望を肥大させる悪魔を、そう呼ぶんでしょ?」


 確かに、憑いた人間の性的な欲望を増幅させる悪魔を総じて淫魔と呼ぶ。厳密には、男に限らず女の性欲を増幅させることもあるのだが、まあ、それは今はどうでもいい。


 金髪女――蒲野がなぜ、淫魔についての知識があるのか。

 それはまあ、隣に座っている桜庭が教えたからだろう。彼女もまた、悪魔を祓う者として、着実に知識を付けていっているようだ。

 桜庭に目を向けると、照れたようにはにかむ。

 まだ褒めてもいないのに照れやがった。無から誉め言葉を生み出す錬金術師かよ。


「しかし淫魔か……淫魔ね。淫魔といえば、言わずと知れたサキュバスってのがいるな」

「だからどうしたのかな? ああん⁉」

「サキュバスはキリスト教の悪魔で、健康や精神状態の悪化、或いは死をもたらすとされている奴だな。名前の由来はラテン語で『愛人』を示す『succuba』――もしくはラテン語で性行時の体位で『下に寝る』という意味の『succubare』から来てるという説もあるわけだが……」

「だからどうしたのかな⁉」

「他にも、仏教には飛縁魔ってのもいるな。これは、解脱を目指す者の修行を色香で妨げる仏敵だ」

「なんで音穏くんはそんなに淫魔に詳しいのかな⁉」

「そりゃもちろん、悪魔の専門家として当然の知識だからだ」

「この野郎……っっっ! 都合のいい時だけ専門家面しやがる……」


 いいよねサキュバス。フォーエバーサキュバス。


 俺みたいなやつがいるから、宗教と淫魔ってのは切っても切り離せないんだろうな。

 二千年前からいたんだ、アホ男子って。


 俺が淫魔について夢想していると、桜庭が嚙みついてくる。俺はそれを当然のように無視。

 ふと視線を正面に向けると、目を丸めた蒲野と桜庭を見詰めていた。


「紅巴……あんた……」


 そんなあからさまに「あたし、気づいちゃった」みたいな反応をされると気になってしまうが、どうせ大したことではないので、俺は話を元の軌道に戻す。


「――で? お兄さんが淫魔に憑かれたって?」

「あ、ああ……うん、そう……うちの兄貴。蒲野空太そらた――さすがに知ってるでしょ?」

「いや、知らんな」


 検索すれば出てくるのだろうか。


「なんでよ。兄貴、去年までうちの学校にいたじゃん」

「そうなんだ」

「生徒会長もやってたし」

「……全然記憶にない」


 生徒会長の顔なんて、いちいち記憶に留めておかない。言われてみれば男だった気はするが、名前も顔も思い出せそうになかった――たぶん、そもそも聞いたことがない。


「……はあ? 本気で言ってんの?」


 蒲野が真剣にこちらの正気を疑っているあたり、どうも蒲野空太先輩とは、相当目立つ生徒だったようだ。


「そんなに有名な先輩だったのか?」


 妹の証言じゃアテにならないので、一応、桜庭にも訊いてみる――訊いてみるが、こいつが人を悪く言うイメージなどわかないので、どうせ褒めるだろうなと思いながら。


「うん。文武両道でさわやかなイケメン。人当たりもよくて、完璧超人なんて呼ばれてた――私も一回お話したことあるけど、誠実な印象を受けたかな」

「なんだその全部乗せみたいな男……」


 俺らが蒲野空太先輩について話している間、蒲野は微妙な表情をしていた。兄が褒められてほろこんでいるような、しかし一面、妬んでいるような。

 なんにしろ居心地が悪かったのか、蒲野はモカチーノ(すさまじく甘そうなコーヒー)を一口含み、続ける。


「……とにかく、その兄貴が浮気してるっぽいの」

「浮気ねぇ……まあ、浮気はいかんな」


 適当に話を合わせる。

 実際のところ、好いた惚れたの話には露ほども興味はないのだが、悪魔が関わってくるまで大人しく話を聞くべき――というのが、桜庭と係るようになってからこれまでに得た、俺なりの経験則だ。


「でもま、完璧超人な男なら、いくらでも言い寄ってくる女なんているだろうし、浮気もしょうがないんじゃないか?」

「しょうがなくないよ、浮気なんて……」


 桜庭が頬を膨らませながら言う。

 そりゃあまあ、俺だって浮気はよくないことだと思う。でも同時に、よくあることだとも思う。


「――ていうか浮気の前に本気は? 蒲野空太先輩にお付き合いしてる女性はそもそもいるのか?」

「いる……って聞いてる。高二の頃から付き合ってる、ラブラブの彼女が。いっつも惚気聞かされて、ウザいくらいに」

「空太先輩の一途さは、有名だったよね」


 桜庭が憧れるような口調で言う。

 確かにイケメン完璧超人が一途だったらロマンティックだが、現に二人はそのイケメンの浮気を疑っているわけで、一途ではない――ということではないのだろうか。そこら辺もまた、聞いてみないことには判断のしようがない。


「なら、その蒲野空太先輩のカノジョさんに『お宅のカレシ浮気してますよ』とでも告げ口して、喧嘩させるなり、別れさせるなりすればいいだろ」

「そんなことできない」

「んん? 蒲野って意外と気を遣うタイプか?」


 ぱっと見女王様気質な女に見えるが、意外と気は遣えるのだろうか。


「それ、どういう意味よ」


 蒲野が睨んでくるので、すっと目を逸らす。


「まあまあまあ……すぐ喧嘩腰にならないで――菜々子がカノジョさんに告げ口できないのは、言いづらいからじゃなくて、言えないからなの」

「言えない? なんで?」


 その口ぶりだと、まるで、心理的にではなく物理的に言えないと言っているように聞こえるが……。


「知らないの、カノジョさんのこと、なにも……」

「……はあ?」

「空太先輩にカノジョがいるのは有名なことだったんだけど、もうひとつ有名なことがあって、それがカノジョのことを秘密にしてたことなの。友達にも親にも、もちろん菜々子にも秘密にしてたみたいで、誰が空太先輩とお付き合いしてるのか、誰も知らないんだよね」


 なんか無駄に話がキナ臭くなってきたな。


「そもそも、蒲野空太先輩にカノジョなんていないんじゃないか?」

「それは……わからないけど。でも高校生の頃、空太先輩が女の子の告白を『お付き合いしてる子がいるから』ってフリまくってたのは、事実なんだよね」

「なら、蒲野空太先輩は男色の気があったんじゃないのか?」

「だ、男色っ⁉」

「付き合ってるのが男性だったら、辻褄が合うだろ。周囲にその存在を隠してたのも、女の子からの告白を断りまくってたのも」

「な、なるほど……」


 桜庭が納得と言わんばかりに頷く。その頬は少し赤い。

 女子ってBL好きだよね。


 じゃ、これにて解決。お疲れした――と席を立とうとしたら、正面に座る蒲野に脛を蹴られた。別に痛くはないが、蒲野が不満そうに睨んでいるので、席に腰を下ろす。


「人の兄貴に勝手に変な属性付けんな。兄貴はホモじゃないから」

「そんなことないぞ」

「『そんなことないぞ』⁉ なんなんお前⁉ 兄貴の名前も知らなかったくせに、なんでそんな自信たっぷりなん⁉」

「頭の足りない女だな……桜庭、お前ならわかるだろ? 俺が自信たっぷりな理由」

「え」


 急に話を振られた桜庭は困惑気味だ。


「……ごめん、わからない、かな……」

「まったく揃いも揃って……」


 俺は大げさに溜息を吐く。


「蒲野空太先輩が男と付き合ってたとして、それを家族にも内緒にしていたとして――それでもひとり、その事実を知っているはずの男がいるだろ?」

「それってつまり……っっっ⁉」


 桜庭が何かに気づいたように声を詰まらせる。その顔は、戦慄に染まっていた。

 対して、蒲野はまだぴんと来てないらしい。鈍い奴だ。


 仕方がないので、種明かしをする。

 或いは宣言を。

 或いはご家族にご挨拶を。


「ああ、俺が蒲野空太先輩――いや、ソラきゅんのカレシだ」


 なんだってぇ………ッ! と桜庭が叫び返そうとした瞬間に、


「ナンチャッテ」

「ナンチャッテなんだ⁉ わざわざ私に推理させといてナンチャッテなんだ⁉ ああビックリした。音穏くんが男の子好きだったらどうしようかと思ったよ‼」


 桜庭が喫茶店の店内だというのに、叫び散らかす。

 蒲野も一瞬本気にしたのか、動揺するように目を白黒させていた。

 まあ、重要なことも聞けたし、悪魔の話に戻ろう。


「――さて、冗談もそこそこに、本題といくか。なんだっけ? 蒲野のお兄さんが淫魔に憑かれてるんだっけ?」

「ちょちょちょ! その前にちょっと! ――え、冗談だよね? 本当に二ノ宮は兄貴の恋人じゃないんだよね?」

「まあ、それはさておき。淫魔について聞かせてもらえるか?」

「さておくな! ホントに違うんだよね⁉」

「さて、どうだろうな」


 曖昧に誤魔化して、俺はコーヒーを一口啜った。家で飲むインスタントコーヒーとは別格の、芳醇な豆の薫り。舌が痺れる苦みを味わってから、再度問い直す。


「で? 淫魔ってのは?」


 ここからが問題のディティールだ。

 蒲野はゆっくりと口を開く。


「まず、最初に見たのは四か月前……春休みのことなんだけど――駅前でカレシとデートしていたら、たまたま、兄貴を見つけちゃったんだよね。なんか待ち合わせしてる感じでさ、突っ立てたから、なんとなく声もかけないで眺めてたんだけど……そこに女が現れたの。背は兄貴と同じくらい、髪は派手に染めた長髪で、モデルかよってくらい、タイトな服を綺麗に着こなす女だった」

「ぴちぴちの服ってさ、なかなか着れないよね。身体の線がさ……こう……」

「それな……マジ、自分の身体に自信がある女の特権って感じ」


 女子のファッショントークを放置すると、明後日までかかるということくらい、さすがの俺でも知っているので、


「で? その女がどうしたんだ?」


 と、割って入る。


「その女が兄貴に妙に馴れ馴れしくてさ、会話は聞こえなかったけど、あれは絶対、デートの待ち合わせだった。そういう雰囲気だったもん」


 その感覚が正しいかどうかは置いといて。

 それが本当にデートだったとして、まだ、何も問題は発生していない。


「じゃあ、その人が蒲野空太先輩のカノジョだったって事だろ。何も問題はないじゃないか」

「それが……」


 おずおずと桜庭が手を挙げる。


「私も見ちゃったんだよね……」

「何を?」

「空太先輩が女性と会ってるところ」


 そういって桜庭は語りだした。


「私が見たのは、ゴールデンウィーク中だったかな――モールで友達と遊んでたら、空太先輩を見かけたの。卒業して以来会ってなかったから、声かけようかと思ったんだけど、女性と一緒だったから、声はかけられなかったんだよね」

「ふ~ん……どんな女?」

「遠目だったから何とも言えないけど……髪は黒髪のショート。背は空太先輩より十センチくらい低くて、ジーパンにTシャツっていうラフな格好だった」

「なるほど……蒲野が見たっていう女とは、背丈が違うわけか……」

「それに、服の趣味もね――空太先輩とその女の人は、楽しそうに腕を組んで歩いてた。間違いなく、付き合ってると思う」

「………」

「兄貴はカノジョと別れたなんて言ってなかった。春休みの女とゴールデンウィークの女、どっちが本命のカノジョだったとしても、どっちかは浮気相手ってことになる」

「空太先輩、絶対そういう人じゃないのに……やっぱり、淫魔のせいなのかな?」


 ゴールデンウィークというと、まだ、桜庭が悪魔と契約する前の話だ。悪魔の見えない彼女には、蒲野空太先輩が淫魔に憑かれていたかどうか、判別は付かない。

 つまり、淫魔が憑いていなかった証拠は何もない――だが同時に、淫魔が憑いている証拠も、何もない。


「まあ、あれじゃないか? ほら、マンガでよくある、実は妹でしたってオチ」

「兄貴の妹はあたし!」

「なるほど……それは盲点だった」

「なんなんこいつ……」


「こいつ大丈夫か……?」と言わんばかりの目を向けてくる蒲野。


「でも、それだけで淫魔と結びつけるのは乱暴すぎる。蒲野空太先輩がどれだけ誠実な人柄なのかは知らんが、誰だって、魔が差しちゃうことくらいあるだろ。浮気相手の一人くらい、どんな男にだっている可能性はある」

「一人じゃ、ないんだよね……」

「ん?」

「小夜がさ、つい一昨日、空太先輩を見たって言ってるの」

「小夜ね……はいはい。わかるよ。わかってる。あいつのことね」


 うんうん頷きながらコーヒーを一口だけ啜る。

 顔を上げると、桜庭の白眼視と視線が交錯した。


「わかってないでしょ? もう忘れちゃったの? クラスメイトの倉橋小夜だよ」

「倉橋? ああ、あの金持ちの」

「サイテーな覚え方してる……」

「で? その倉橋がなんだって?」

「うん……小夜が夜、ピアノのレッスンから帰る途中コンビニに寄ったら、入り口でたまたま空太先輩とすれ違ったらしくて……。なんとなく目で追ってたら、駐車場に止まった真っ赤な車に乗り込んで……それで、車の中で待ってた女の人と……その……キ、キ《small》ス《/small》……したって……」


 倉橋ってピアノとか習ってるんだ。意外過ぎるな。

 まあ、今はそんなことはどうでもよくて。


「で? その『キ、キ《small》ス《/small》……』してた女の特徴は?」

「ぶっ飛ばすよっ⁉」


 顔を真っ赤にして立ち上がる桜庭をどうにか落ち着かせる。

 桜庭はまだちょっと頬が赤いまま、


「……キスしてたのは、麦わら帽子をかぶった、とんでもない美人だったって。身長は車の中にいたからわからないけど、レースのゆったりしたワンピースを着てたみたい」

「さっきの二人の女は身体の線が出る服を好んで来てるみたいだから、間違いなくまた別の女――兄貴、大学に入ってから、急に女遊びが激しくなったみたい」


 そう言う蒲野は憮然とした表情だ。

 兄の不貞を情けなく思っているのか、或いは、カレシのいる身として、浮気された女の気持ちになっているのか。


「昨日、兄貴に直接問いただしてみたんだけど、なんかはぐらかされて……でも絶対、何か隠してる反応だった」

「隠してる……ねぇ……」

「音穏くん、私も、空太先輩が急に浮気しだすなんて変だと思うの。きっと悪魔の仕業だよ。協力してほしいな」


 桜庭が真摯な目を向けてくる。

 気まずくなって目を逸らすと、蒲野と目が合った。


「……何よ?」

「いや、なんでも――ところで、蒲野。お前のところの親はちゃんとした人か?」

「はあ? 急に何?」

「つまり、子供の相談を真剣に聞いてくれる親かって聞いてるんだ。いいから答えてくれ」

「そりゃ、あたしのパパとママは普通の……ああ、お金のこと? それなら心配ないから。ほら」


 と。

 蒲野が取り出したのは茶封筒。中には、五万円が入っていた。


「あたし、こう見えてちゃんと貯金してるから。それは手付金ね。兄貴の問題が解決したら、ちゃんともう五万円払うから」


 お金はもちろん、大切な問題だが。

 それ以前に。


 俺は五万円を茶封筒にしまうと、それをそのまま蒲野に突き返す。


「今回の依頼は、悪魔と関係がないので引き受けられない。よって、このお金も受け取れない」

「はあ?」


 蒲野が睨みつけてくる。

 ここまで話を聞いといて断るのか――と、そのキツい吊り目に仄かな敵意を宿している。

 桜庭も目を丸めて驚いているようだった。


 とはいえ、どんな目を向けられようとも、俺の考えは変わらない。

 悪魔関係ならともかく、の問題なんて、いちいち首を突っ込んでられない。

 カップに残ったコーヒーを飲み干すと、俺は溜息を吐きながら立ち上がった。


「あと、お兄さんによろしく伝えといてくれ――『親御さんには、ちゃんと相談したほうがいいですよ』って」


 自分の分の代金をテープルに置くいて、逃げるように喫茶店を後にした。



 後日。

 俺は桜庭に呼び出されて、和菓子屋『紗琳堂』に来ていた。この店は奥が座敷になっていて、お茶を飲んでいくこともできるようになっている。

 畳で胡坐を組んだ俺の向かいに座る桜庭は正座したまま口を開く。


「結局、音穏くんの言った通りだったね。悪魔は関係なかった」

「ま、そうだろうな」


 あの日俺が帰った後、頼みを断った俺に蒲野はたいそう憤慨したそうだが、そこは桜庭が何とか宥め、何とか蒲野空太先輩への伝言は果たしてくれたようだ。

 そして。

 おかげで、問題は解決の方向に動いているらしい。


「お兄さん、お姉さん、お茶のおかわり……です」

「ああ、ありがとう」


 横合いから声をかけてきた和服美人に礼を言う。

 見るからに二十代の見た目をしている彼女が、高校二年生の俺たちのことを『お兄さん、お姉さん』と呼ぶのは、彼女が実のところ、まだ九歳の少女だからである。

 四方山心奈。

 再生の契約能力によって常に最上の肉体に再生し続ける彼女は、この『紗琳堂』で住み込みで働いている。


「彩華さんは?」

「ちょっとお出かけだそうです。お店を任されてしまいました」

「何考えてんだあの人……」


 見た目は大人とはいえ、九歳の少女に店を任せるとか。

 ……いや、俺たちがいることを見越しての店番か。


「奏は? あれ以来会ってるのか?」

「はい。毎日のようにお店に来てます。昨日も来ました」

「姉妹仲が良好なようで何より」

「奏ちゃんは心奈ちゃんのこと、大好きだもんねー」


 桜庭が悪戯げな顔で揶揄うが、心奈は嬉しそうに頬を緩めるだけだった。


「それで、お兄さんたちは何の話をしてたんですか? 悪魔さんがどうとか聞こえましたが」

「結局、悪魔は関係なかったんだけどね……聞きたい?」

「はい。気になります」

「じゃ、座って座って」


 桜庭が心奈を招き入れ、座敷に座らせる。

 店を任されている心奈を拘束するのもどうかと思ったが、他に客もいないので、まあいいだろう。


「えっとね、これは私たちのクラスメイトのお兄さんの話なんだけど……」


 そんな語り出しで、桜庭は今回の一件を心奈に説明した。

 蒲野空太先輩が淫魔に憑かれているかもしれないと疑ったこと。

 春休みに目撃された、モデルのような女のこと。

 ゴールデンウィークに目撃された、ラフな格好の女のこと。

 夏休みに目撃された、ゆったりとした女のこと。


「――ていうわけなんだよ」

「なるほどです……あれ? でも、悪魔さんは関係なかったんですか?」

「悪魔さんは関係なかったんだよー」

「では、その空太お兄さんが、ただのスケベさんだったってことなのでしょうか?」


『スケベさん』という表現に俺は思わず笑ってしまって、噎せた。緑茶が鼻に入ったようで、鼻腔がじんじんと痛い。


「違う違う。空太先輩はね、やっぱり一途で、一人の女性しか愛してなかったんだよ」

「でも、三人の女の人とデートしていたんですよね?」

「それが、三人の女性は同一人物だったのだ!」


 桜庭が謎のテンションで宣言すると、心奈は首を捻った。


「でも、三人の女の人は違う見た目をしていたんですよね? えっと……」

「蒲野空太先輩と同じくらいの背丈で、派手な色の長髪、タイトな服を着ていた女と――蒲野空太先輩より十センチくらい背が低くて、黒髪のショート、ラフな格好をしていた女――それから、身長不明で麦わら帽子、ゆったりとしたワンピースの女の三人な」

「ですです。その三人の女の人は、まったく違う人のように聞こえます」


 その通り。

 三人の女は、外見的特徴が似ても似つかない。

 だが同時に、この三人の女は同一の人間に目撃されたわけでもない。別人だという証拠も、また、ないのだ。


 その点について、どう説明すればいいのか。

 桜庭が視線を寄越してくる。俺は肩を竦めて、ジェスチャーで「どうぞ」と返事をした。俺は説明が苦手だ。


「まず、髪は切ればいいからね」


 桜庭がまるで自分の推理かのように自慢げに胸を張る。

 ボーダーのシャツに包まれた豊かな胸がぽよんと揺れて、俺は今日がいい日であることを確信した。


「あ、そうですね……んん? でも、身長が違うのはどういうことでしょう?」


 と、心奈。

 すぐにその疑問に行き着くあたり、この子はなかなか賢い。将来に期待大だ。


「それはね、春休みのうちはヒールを履いてたんだよ」


 と、またしても自慢げな桜庭――だから、お前に推理じゃないだろ。


 桜庭の言葉に、盲点とばかりに目を見開く心奈。

 ヒールというのは、まあ、中身九歳の心奈にはぴんと来ない推理だろう。大人の身体を手に入れた今も充分に背が高い彼女なので、ヒールという物に縁はなさそうだ。


「でもでも、お洋服の変化はどうなんでしょう? 髪の毛をバッサリ切るのは聞いたことがありますけど、お洋服のしゅみはそんな急に変わるのでしょうか?」

「そこなんだよ」


 桜庭は指を鳴らす。

 そう、そこなのだ。

 この謎の最大のミソはそこにある。


「同一の女性が髪を切り、ヒールを脱ぎ、服の趣味がタイトな服からゆったりとした服に変わる理由――それは……」

「そ、それは……?」

「その女性が、妊娠したからなんだ」


 と。

 桜庭は名探偵が犯人を指さす時のようなテンションで言った。


「に、妊娠……お母さんになるってことですか?」


 目を丸くした心奈が問い返す。


「そう。それで、空太先輩は菜々子に怪しまれるほど挙動がおかしかったんだ。まだ大学生一年生なのに、お父さんになっちゃったわけだから」

「??? それは、おめでたいことではないでしょうか?」

「うん、もちろんおめでたいんだけど……でも、現実的な問題が幾つかあるんだよ。何よりもまず、お金の問題がね……」

「?」


 ここら辺もまた、九歳の彼女には理解が難しいところだろう。

 子供というのは、とかくお金がかかる。最近の少子化の一因は、経済の低迷のせいだと言われているくらいだ。

 子供と金は、切っても切れない縁にある。

 少なくとも、十九歳が大学に通いながらなんとかできるほど、甘い問題ではない。


「音穏くんの言葉を聞いて、空太先輩はちゃんと正直にご両親に相談して、お金と子供の面倒を見てもらえることになったみたい」

「あっそ……そりゃ、よかったな」

「うん! 音穏くんのお陰だね」


 俺のお陰ではない――今回に関しては、本当に何もしてないので。


「お兄さんがこの謎を解いたんですか?」


 心奈が尊敬の眼差しを向けてくる。

 中身九歳とわかっていてもぱっと見は絶世の美女なので、そんな目を向けられるとちょっと照れてしまう。


「まあ、解いたというか……ピンと来たというか……『複数の女が実は一人の女だった』なんてのは、ミステリーの世界ではありがちなオチだからな」


 所謂『謎の女もの』ってやつだ。

 女が変装してる男だったパターンと、女が妊娠してるパターンがある。

 妹の蒲野菜々子曰く、蒲野空田先輩は同性愛者ではないとのことだったので、テンプレでいえば、女は妊娠していた可能性が高いというわけだ。つまり、ただのメタ読みである。


「音穏くんっていつも本読んでるけど、あれ、ミステリーだったの?」

「いや、いろいろ……俺は小説だったらなんでも読むよ。雑食だからな」


 実際のところ、俺は小説をかなり選り好みして読むタイプの偏読家なのだが、他人に自分の趣味を知られるのはなんか恥ずかしいので、そんな風に誤魔化した。年頃の男の子なりに、それなりの秘密を抱えている俺こと二ノ宮音穏だが、その中でも特に、本の趣味は知られたくない。

 二ノ宮音穏のトップシークレットだ。


 だが、誤魔化したくらいで誤魔化されてくれる桜庭ではなかったようで、


「へー……ねね、おすすめの小説とか教えてよ。私も音穏くんが好きな本読んでみたい」

「やだ」

「えー、なんでよー」


 桜庭が怠絡みしてくるのを、俺は無視する。次第に桜庭は頬を膨らまし、怒り始める。そんな俺たちの日常を、心奈が傍らで楽しそうに眺めている。

 今回は珍しいことに、悪魔は出てこず、苦しんだ人間もおらず、脱力系の結末だった。

 それならそれでいい。

 悪魔の被害にあった人がいなくてよかったとみるべきだろう。


 ――ただ。

 淫魔なる悪魔というものを、ちょっと見てみたかったと――そんなことをどこかで思っていたことは、これもまた、二ノ宮音穏のトップシークレットだ。


 

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