第7話 萌黄色の隠蔽

 


「おにーちゃーん、朝だぞー、おっきろー」


 世の中に憎たらしき事の尽きまじこと、何が一番憎たらしいって、それは、妹に起こされる朝のことだと思う。それも、前日に徹夜してたらなおのこと。

 毛布にくるまった身体を揺すられること一分弱、なかなか諦めない妹にとうとうこちらが痺れを切らし、俺は妹と毛布を跳ね退けるように起き上がった。


 癖のついた黒髪をサイドテールに結わえた妹の愛月みづきがくりっとした眼をこちらに向けている。


「……妹よ――俺の愚かな妹よ」

「なんだ? 私の愛しきお兄ちゃんよ」

「世の中には夏休みというものがあってだな? 学生は夏に休むものなんだ」


 現在、七月二十八日。

 高校生の僕は――そして中学生の妹も、夏休み真っ盛りである。


「でもお兄ちゃん。休みだからといって生活リズムを崩すと、体に良くないぞ?」

「妹ごときが正論を言うな」

「とんでもない妹差別だ! 今こそ妹の権利を主張するとき! 私は、全世界の妹のために立ち上がる!」

「お前ごときが全世界の妹を代表するな」


 ぶつくさ文句を言いながらベッドサイドのデジタル時計を見る。時刻は八時半。睡眠時間は充分とは言えないが、悪魔と契約したので、身体に多少の無理は利く――仕方ない、起きるか。


「……父さんと母さんは?」

「仕事。とっくに出てったよ」

「あっそ」


 別に興味もないが。


 着替えようとパジャマのボタンに手をかけたとき、愛月がまだ俺の部屋にいることに気づいた。妹っていうのはあれだ――制服を着た人みたいなものだ。うっかり、存在を見落としがち。


「愛月、俺は今から着替えるから、さっさと出ていけ」

「? 私はお兄ちゃんが裸になっても気にしないよ?」

「俺もお前ごときに裸を見られることを気にしてるわけじゃないが、それはそれとして妹の前で服を脱ぐのは気持ち悪いから出てけ」

「ちぇー。お兄ちゃんシックスパック見たかったのにー」


 お兄ちゃんがシックスパックであることを、なぜこの妹は知っているのか――そんなことを聞いても藪蛇な気がしたので、そこは追及しなかった。


 ラフな格好に着替えリビングに出向くと、ランニングシャツにショートパンツという、これまたラフな格好をした愛月が出迎えた。


「やあやあ、マイスウィートスウィートお兄ちゃん。朝ごはんの準備はできてるよ」

「ん? ああ、ありがとう」


 というわけで愛月の作った朝食を戴いた。

 白米と納豆、目玉焼き、味噌汁の和食オンパレード。味噌汁はインスタントではないらしく、味わい深い香りとコクがある。愛月が料理上手であることを知らなかったわけではないけれど、そういえば、愛月の手料理を食べるのは久しぶりな気がする。


「ごちそうさまでした」

「はい。お粗末様でした」


 手を合わせて食後の挨拶を済ませると、食器をキッチンに持っていこうと立ち上がる――しかし、その寸前に、俺の食器は妹の愛月によって掻っ攫われていった。


「後片付けは私がやってしんぜよう。お風呂用意しといたから、お兄ちゃんは優雅に朝風呂キメてくるといいよ」


 とても流麗な挙措で二人分の食器を持った愛月は、そう言ってキッチンに消えていく。


「……んん?」


 何か違和感がある。

 ただ、朝風呂という魔法の言葉は、その違和感を払拭するほどに魅力的で、俺は考えるのをやめて洗面所に向かった。


 愛月の言った通り、風呂には湯が張ってあった。

 夏はシャワーで済ませることも多いが、昨夜も深夜徘徊を敢行した俺である。疲労の蓄積した身体は、暖かい水の魔力には逆らえなかった。


「きゃっほうぅ」


 寝不足のせいか。

 ちょっと狂ったテンションで湯船に飛び入る。ばしゃんと水飛沫が立つと、童心が蘇るように心が浮足立った。

 そのまま全身を湯船に沈めようと前屈みになった段階で、ふと思い留まる。


「――あ、身体洗ってない」


 これはとんだマナー違反だ。このあと愛月が入るかもしれないのに、身体を洗わずに湯船に浸かるわけにはいかない。

 暖かい水の魔力には何とか良心で逆らって、俺は湯船から脱出した。


 洗い場に出て、シャワーのバルブを捻る。シャワーから出てきた水は最初は冷たい。次第に温まってきた水を全身に掛け回してから、俺はシャンプーを手に取った。身体は上から順番に洗うタイプである。


「……おや?」


 シャンプーが切れている。

 我が家の風呂場にはもうひとつシャンプーがあるのだが、しかし、それは妹専用のシャンプーだ。一度こっそり使ったことがあるのだが、匂いであっさりバレ、殴り合いの喧嘩になったので、金輪際使うつもりはない。


「洗面所に替えがあったかな……」

「ここにあるよ」

「ああ、ありがとう。気が利くな――んん?」


 俺は今、誰からシャンプーの詰め替えを受け取った?


 振り返ると、そこには全裸の愛月がいた。ウェーブの掛かった黒髪を下ろし、中学生らしい起伏の肢体を晒す妹が、すぐ後ろにいた。

 風呂場という環境にある以上、裸であることは何もおかしくはない――だから、おかしいのは、なぜ愛月がここにいるか、という問題である。


「……愚妹よ――俺の愚かな妹よ」

「なんだ? 私の賢いお兄ちゃんよ」

「いくつか聞きたいことがあるんだが?」

「何なりと聞くがいいともさ」


 以前、九歳の少女(見た目は成人女性)の裸に息を忘れるほど大興奮してしまった俺ではあるが、さすがに、血の繋がった妹にまで興奮することはない。

 ゆえに。

 とても冷静に、そして平静に、俺は疑問を口にする。


「まず、なぜいる?」

「お兄ちゃんの背中を流してあげようと思ったからだけど?」

「いやいや……そのお前の姿を見るに――そのあられもない姿を見るに、とても背中を流しに来ただけとは思えないのだが? 兄の背中を流しに来ただけなら、Tシャツなり水着なりを着て来いよ」

「あわよくば、私もそのままひとっ風呂浴びちゃおうと思って。ほら、時間短縮的な?」

「………」


 それはつまり、俺と一緒に風呂に入るということなのだが――まあ、それはいい。あまりよくないが、別に固辞するほどのことでもない。妹とお風呂なんて、既に人生で数えきれないほどこなしているイベントである。

 強いて言うなら、風呂を一人でのびのびと使えないことが不満点だが、我が家の風呂はそこそこ大きい。二人で入っても、入りきれないということはないだろう。


「じゃあ、もうひとつ――お前今、どうやって浴室に入った? 全然気配を感じなかったんだが?」

「ホントに?」


 愛月はなぜか嬉しそうだ。


「ホントに気配感じなかった? やったね、部活動に真摯に励んだ賜物だよ」


 なんの部活だよ。

 思えば、俺は愛月がなんの部活動に参加しているのかも知らない。以前何か言っていた気もするが、妹のセリフは基本的にスルーするのが兄という生き物なので、全然覚えてない。


 なんにせよ、悪魔と契約して、多少なりとも五感の向上している俺の感覚にすら引っかからない気配遮断となってくると、もはやそれは忍者の域だ――と、思ったが、冷静に思い返してみると、以前、紺藤由紀子……元先生に一か月に渡り監視されていたにもかかわらず、それに気づくことのできなかった俺である。自分が思っているより、俺の感覚はザルなのかもしれない。

 

「……じゃあ、三つ目――今日のお前はどうした? なんかやけに俺に尽くしてるみたいだけど」

「ふっふっふ……そこに気づくとは、さすがは私のお兄ちゃんといったところか」

「なんだそのテンションは」

「見破られたのならしょうがない。今日、私がお兄ちゃんごときに胡麻を擂っていたのは、お兄ちゃんに相談があるからなのだ!」


 そう宣言されて『お兄ちゃんごとき』と呼ばれた兄は、天を見上げた。見上げても浴室の天井が映るだけだったが、そうせずにはいられなかった。

 このどうしようもない妹は、俺を面倒ごとに巻き込もうとしているらしい。


「断る」

「まだ相談してないよ」


 愛月は不満げだが――古今東西、兄とは妹の相談を聞かない生き物なのである。


「聞くのを断る」

「なんで?」

「兄は中学生レベルの相談事を聞いてやれるほど暇じゃないんだ」

「それなら大丈夫。私がお兄ちゃんの身体を洗いながら、同時進行で説明してあげるから。ステレオで」


 そういいながら愛月は手にシャンプーを馴染ませると、俺の頭に手を置いて洗い始めた。程よい指圧で頭皮をマッサージしながら、髪の毛を洗っていく――謎に、人の頭を洗うのが上手い妹だった。


「まずさ、私って探偵部じゃん?」


 と。

 愛月の相談はそんな自己紹介から始まった……ステレオで。

 俺の頭の後ろを右に左に行ったり来たりする愛月の気配に鬱陶しさを感じつつも、頭の中で愛月の言葉を咀嚼する。


「……ああ、そういえばそんなこと、言ってたな」


 探偵部。

 ミステリー研究部とはまた違う部活らしい。主な活動内容は『野球部が野球をし、茶道部が茶道をするのだから、探偵部もまたしかりだよ』とのことだ。意味はよくわからん。


 俺の妹の愛月は、そんな意味不明な部活動に参加し、あまつさえ、部長などという役職を務めあげているのだった。


「で? その探偵部がどうしたんだ? 殺人事件でも起こったのか?」

「もしそんな絶好の機会が訪れたら、お兄ちゃんなんかには報告しないよ」

「……お兄ちゃんなんかには報告しなくてもいいから、警察に通報はしろよ?」


 話が入り口にも到達しないうちに、髪は洗い終えてしまった。

 愛月はシャワーで俺の頭を流すと、今度はその手にボディソープを持つ。


「背中も流してしんぜよう! 妹ソープだ!」

「やめろ気持ち悪い‼」


 妹ソープなるものをうっかり想像してしまって、本気で全身に鳥肌が立った。

 俺が震えてる間に、愛月の小さな手が俺の背中に添えられる。じっとしているのも暇なので、俺も自分の身体を洗うことにした。


「お兄ちゃん、すっかり細マッチョになったよね」


 愛月が俺の背中を妖しい手つきで撫でまわしながら、そんなことを呟いた。

 悪魔と契約して以来運動の機会が多いので、身体の筋肉は程よく仕上がってる。


「細マッチョって程ではないだろ――程々だ」

「じゃあ、程マッチョだ」


 脊髄で喋る愛月を無視して、話を元の軌道に戻す。


「で? 探偵部がどうしたんだ?」

「ちょっと待って。今、肩甲骨の内側に親指を捻じ込むのに忙しいから」

「いい加減にしろよ」


 肩甲骨の内側に指を入れるな。

 ちょっと気持ちいいじゃないか。


「――で、探偵部の話なんだけど」

「やっと話が本筋に……」

「簡単に説明すると、私が部長を務める探偵部に、幽霊が出るって話なんだよね――お兄ちゃん、何とかして」

「簡単に説明しすぎて何もわかんねぇよ。もうちょっと具体的に説明しろ」


 探偵部に幽霊が出ることしかわからんかったわ。

 兄に助けを求めるなら、もう少し言葉を尽くせ。説明責任を果たせ。

 幽霊が出たから何とかしてって言われて、やる気になる奴なんているはずないだろ。

 ――とはいえ。

 幽霊――そう言われると、話を聞かないわけにはいかない。それはもしかすると、悪魔の話かもしれないから。


「よしっ」


 と。

 そんな俺の内心を知る由もない愛月は、シャワーヘッドを俺の背中に向けると、自らの手によって塗りたくられたボディソープを洗い流した。


「お兄ちゃんの背中は妹ソープによってピカピカだよ。背中が鏡のように反射して、私のヴィーナスのごとき裸体が映ってる!」

「そんなわけなさ過ぎるだろ」

「じゃあ、交代ね――今度はお兄ちゃんが私を洗って。兄ソープして」


 断じて兄ソープはしないが、妹に一方的に身体を洗われたという事実は気分がよくない。

 俺はバスチェアを愛月に譲ると、その背後に立ち、まずはシャンプーを手に馴染ませた。愛月専用の、ちょっとお高いシャンプーだ。


「で? 探偵部に幽霊が出るだって?」

「うん……まあ、もちろん、そんなわけないことくらい、わかってるんだけどねー」

「ふ~ん?」

「幽霊なんて、非科学的だよ」


 愛月が噛みしめるように呟く。

 そんな愛月の背後には、幽霊と同じくらい非科学的な存在である悪魔と契約した人間が立っているのだが、もちろん、それを教えてやるほど、兄という生き物は親切じゃない。


「お兄ちゃんも幽霊なんているわけないと思うでしょ?」


 愛月がそんなことを訊いてくる。

 俺は愛月の髪をシャンプーで洗いながら、逡巡した。

 悪魔の存在を知る者として、幽霊の存在を否定することはできない――でも。


「――ああ、もちろん。幽霊なんているはずないよな」

「そうだよね。それでこそ私のお兄ちゃんだよ」


 満足げに鼻を鳴らす愛月の頭にシャワーをぶっかける。泡を充分に洗い流してから、さて次はとボディソープに手を伸ばした俺の腕を、愛月が掴んで止めた。


「ちょっとお兄ちゃん」

「なんだ? 今さら兄に身体を洗われるのは嫌だとか言うつもりか? もう遅いぞ。俺はお前の全身を泡塗れの手で撫でますことを、固く心に誓っている」

「いくらお兄ちゃんでも、背中以外は洗わせないから――じゃなくて、シャンプー終わったらコンディショナーしてよ」

「ん? ああ、そうだったな」


 女子は髪のケアもしなくちゃいけないのか。

 コンディショナーなるものがなんのために存在しているのかは知らないが、髪は女の命とも言うし、その程度の労はかけてやらんでもない。

 ボディソープに向かって伸びていた手をコンディショナーに伸ばし、ポンプを押して、手にコンディショナ―を広げる。それを愛月の髪に揉みこむように浸透させると、俺は再度口を開いた。


「で、幽霊がなんだって?」

「うん。探偵部のさ、部室の備品が、誰も触ってないのに動いてることがあるんだよね。気のせいとか、勘違いとかで済ませることはできないくらい、はっきりと」

「………」

「ポルターガイストってやつ? 幽霊が動かしたんだって、みんな騒いじゃって」

「その『誰も触ってない』ってのは、どうしてわかるんだ?」

「密室なんだよ」


 密室。

 これはまた、探偵部らしい単語が出てきた。

 探偵部らしい単語だったが、やはり意味はわからない。


「密室?」

「そう。部室に鍵をかけて、中には誰もいない状態なのに、部の備品が勝手に動いてることが何度か。何か盗まれたとかじゃないし、大事でもないんだけど――ほら、探偵部が密室の謎を突き付けられて、解決しないわけにはいかないじゃん?」


 その感覚は理解できないが、まあ、密室の謎があったら解き明かしたくなる気持ちは、わからないでもない。

 俺はこれで意外と、ミステリーなんかも読んたりする質だ。


「部室の鍵は、間違いなくかかってたのか?」

「もちろん。鍵をかけたのは、誰であろう、この私だからね。鍵は間違いなくかけたし、私の手から離れてもいない」

「……なるほど」

「部室の鍵はもう一本あるんだけど、それは顧問の先生が保管してて、持ち出された形跡はないらしいし……」

「それで、幽霊ね……」

「そう……まだ、いくらでも考えようはあるのに、みんなすぐ非科学オカルトに傾倒しちゃって、幽霊だなんだって」


 まあ、確かに考えようはいくらでもある。

 そもそも、学校の教室の鍵なんてものはとてもチャチなもので、アメピンが二本ほどあれば、小学生でもピッキングできてしまう程度のものである。その気になれば誰でも入れたのだから、探偵部の部室は、密室とは言えない。

 ただ、それだと目的が不明になってしまうという問題もある。

 わざわざ探偵部などという意味不明な部活の部室に忍び込んで、やることが物を動かすだけ。悪戯にしても、地味すぎる。


「自然に動いた可能性は?」

「うーん、ちょっと考えられないかな。動いたのは、椅子とか机とかだし」

「盗られた物は本当にないんだな?」

「盗るような物がまずないよ――ふふっ」


 愛月の髪にコンディショナーを塗り終えて手を洗い流していると、愛月が急に忍び笑う。俺は今度こそボディソープを手に取りながら、訝しげに首を捻った。


「何かおかしいことでもあったか?」

「や、お兄ちゃん、すっかりやる気だなって思って」

「むっ……」


 言われてみれば。

 妹の相談を聞く兄などこの世にはいないはずなのに、俺はいつの間にか、すっかり愛月の相談事に耳を傾けていた。あまつさえ、推理まで。


「なんだかんだで私の相談を聞いてくれるんだね――シスコンだなぁ、お兄ちゃんは」

「おーけーおーけー、次に会うときは法廷だな」


 妹のことなんて全く好きじゃない。

 女未満と書いて妹と読むのだ。

 俺はシスコンじゃないから、ほら、妹の背中だって素手で洗えてしまう。


「それで、探偵部の密室事件のことなんだけどさ、もちろん幽霊なんているわけないから、やっぱり誰かが――お兄ちゃん? 聞いてる?」

「ちょっと待て。今、肩甲骨の内側に親指を捻じ込むのに忙しいから」

「話を聞け―!」

「ぐっへっへ……健康的な肩甲骨だぜ。捥ぎ取ってやる」

「ぎゅあぁ! シスコンだぁ! シスターコンプレックスじゃなくて、シスターコンプライアンス違反の方のシスコンだぁ!」


 愛月のシミひとつない背中を堪能した後、シャワーで洗い流す。


「ほら、兄に感謝しろ。お前の背中はピカピカだ。鏡のように反射して、俺のダビデ像のような裸体が映りこんでる」

「お兄ちゃんのシックスパックは確かに見事だけど、ダビデ像ほどの肉体美はないよ」


 マジレスしてくる妹の後頭部に軽くチョップをかましてから、ひとしきり身体を綺麗にした俺たち兄妹は、お互いの身体を詰め込むように湯船に入った。


「………」

「………」


 想定していたよりも狭い。

 思えば、兄妹水入らずで水入りするなんてのは小学生以来のことで、その頃とは俺も愛月も身体が成長してしまっているわけだ。手狭なのも納得である。


「むむむっ……お兄ちゃん、狭いよ。縮んで」

「人体に『縮む』なんていうコマンドは実装されてないんだよ」

「むぅ、じゃあ仕方ない。スペースを効率的に使おう」

「効率的?」

「つまり、こうするのだー」


 そう言って、愛月が提案した効率的なスペースの活用方法とは、俺の上に愛月が座り、愛月の背中を俺の胸に預けるような体勢――ではなく。

 正座だった。

 兄妹揃って、湯船の中で正座していた。向かい合って、膝を折り――これが湯船の中でなかったら、茶道教室が始まってもおかしくない姿勢だったが、しかしおかしなことに、ここは湯船の中なのだった。

 なんだこれ。

 明らかにカオスな状況だが、しかし、兄妹で湯に浸かるには、この膝をつき合わせた体勢が一番合理的なのは間違いなかった。


「――じゃあ、その探偵部とやらに現れた幽霊なり密室なりについて、解き明かしていくか」

「お風呂の中で正座しながら?」

「斬新だろ?」

「斬新だね」

「今後は、安楽椅子探偵ならぬ、湯船正座探偵が流行する時代になるんだ」

「なんと⁉ つまり、私たちが最先端?」

「そうだ」


 茶番もほどほどに。


「まず、そのポルターガイストが起きたのは、具体的にはいつのことで、何回起きたんだ?」

「回数は三回で、全部放課後のこと」

「探偵部の部室の場所は?」

「部室棟二階の西端の教室」

「なるほど……」

「お兄ちゃん、何かわかった?」

「……いや」


 何か光明が見えた気がしたのだが、それは取り逃してしまった。今、俺に見えるのは、妹の色白おっぱいだけだ。


「――探偵部もさ、私以外はみんな幽霊の仕業だって騒いでて……私ももうすぐ引退だからさ、このまま引退したら、伝統ある探偵部がオカルト研究会になっちゃいそうで、辞めるに辞めれないんだよ」


 なるほど。

 それで柄にも兄を頼ってきたわけか。探偵部なるものが本当に伝統がある部活なのかは謎だが、基本的になんでも自分の力での解決を望む愛月も、切羽詰まっているというわけだ。

 探偵部を襲った密室の謎。

 そんなゆるふわミステリーに高校生の力を貸してやるのもどうかとは思うが――まあ、こんなくだらないことでも、愛月が真剣なのはわかる。他者からすればどうでもいいことだが、愛月にすれば、探偵部がオカルトに染まるのは憂慮すべき事態なのだ。


 妹の相談など何も受け付けないのが兄という生き物だが。

 頼られたら甘やかしてしまうのも、また、兄心なのである。


「用務員さんだな」

「ほにゃ?」

「だから、用務員さん」


 俺は妹のおっぱいからやっと目を離し、愛月の顔を見て――嘯いた。


「お前たちの部室に三度侵入し、そして机や椅子を動かしてたのは、たぶん用務員さんだ。学校の用務員さんなら教室のスペアキーを預かってるから、自由に出入りできる」

「な、なんだってぇ――って、お兄ちゃん。それじゃあ、何のために物が動かされたのか、説明されてないよ」

「邪魔だったんだろ、作業するのに。たとえば、蛍光灯の交換をするとき、脚立を立てるだろ? そのとき、交換する蛍光灯の真下にある机は、邪魔だからどかさなきゃいけないだろ」

「な、なるほど……盲点だった!」

「ま、制服を着た人っていうのは、見落としがちだよな」

「むむむ……この私がそんな初歩的なミスを犯すなんて……」


 眉根を寄せて考え込む愛月を見て、俺は立ち上がる。

 あまり、こいつに考える時間を与えたくない。


「よし、もう出るか」

「もう? 湯あたりした? 妹のナイスバディに興奮した?」

「いや、謎が解決したら風呂を上がるのが、湯船正座探偵の流儀だからだ」

「なんと⁉」


 バカなことを言いながら浴室から出て、タオルで身体を拭く。

 ボクサーパンツを履いたところで、同じく、ショーツを履いただけの格好の愛月に、こんなことを言われた。


「お兄ちゃん、髪伸びたよね」


 そう言われて、俺は髪を触る。前髪は目にかかるほどで、襟足は肩くらいの長さになっていた。


「そういえば最近、切りに行ってないな」

「似合ってないこともないけどね」


 愛月の微妙な評価は聞き流して。

 指摘されると、なんだか途端に髪が鬱陶しく感じてしまう。先ほどまでは存在にも気づいていなかった前髪が、今は視界にちらちら映って鬱陶しい。


「愛月、ちょっと髪留め貸してくれ」

「ヘアゴム?」

「じゃなくて。普通にほら、アメピンとか。あるだろ?」

「いいよーん」


 と。

 愛月が貸してくれた二本のアメピンをクロスさせるように使い、前髪を留める。鏡を見ると、思ったよりはまともな見た目の少年がこちらを見ていた。


「意外と悪くないな……」

「うんうん――ところでお兄ちゃん」

「なんだ?」

「服、着たら?」


 鏡に映る少年は、パンツ一丁だった。



 夜。

 時刻で言えば、十二時を越える頃。

 両親と妹が寝静まったのを確認した俺は。こっそりと家を出た。

 極力音が鳴らないように玄関ドアを開け、ライトも点けずに自転車に跨る。門扉は身一つ通る程度だけ開けて、俺は夜の街に漕ぎ出した。

 目的地は、妹の通う中学校である――場所は知っている、なんせ、俺も二年前まで通っていた中学なのだから。


 夜の街を自転車で走り続けること、三十分。

 中学校に到着した俺は、学校をぐるりと囲う柵に乗ってきた自転車を立てかけると、その柵を飛び越えた。悪魔の契約者である俺には、そのくらいの跳躍力がある。


「部室棟二階の西端……」


 探偵部の部室の場所である。

 さすがに二年も経っていることもあって、部室棟の場所がわからずちょっと迷子になるというハプニングもあったが――それでも十分後には、俺は探偵部の部室の前まで来ていた。


「ここがね……」


 外から見た分には、普通の教室だ。

 中まで普通なら、まあ、それに越したことはない。ただ、俺が不法侵入者になるだけだ。

 教室の扉に手をかける――案の定、鍵はかかっていた。


「………」


 鍵穴を覗き込む。闇を苦としない契約者の眼には、鍵の構造がはっきりと見えた。

 俺は髪を留めていた二本のアメピンを取ると、鍵穴に差し込む。しばらくガチャガチャやっていると、あっさり錠が回ってしまった。


「さてさて……鬼が出るか蛇が出るか」


 鍵穴からアメピンを引き抜いて、教室のドアを開ける。建付けが悪いのか、ガラガラと派手な音が鳴って、一瞬心臓が跳ねた。


 果たして。

 夜の教室には、悪魔がいた。

 鬼でもなく蛇でもなく、悪魔が。

 夜の闇にひっそりと溶け込むように――黒い馬の胴体、小鹿のように細い手足、蝉の頭部。どこまでも気持ちの悪い、キメラティックな見た目の怪物。


「ま、やっぱそうだよな」


 探偵部を襲った密室の正体とは、用務員が犯人などという面白みのないオチではなく――結末は、もっと面白みのない『悪魔の仕業』というものだった。幽霊の仕業だと騒いでいた愛月以外の探偵部の部員が、意外や意外、正しいことを言っていたのである。


「■■■?」


 悪魔が不快な声で啼く。


 おそらく、まだ生まれたばかりの、低級の幼魔。

 人間に実害を与えられるほどの強さもなく、ただ、物をちょっと動かす程度のことしかできない。

 だが、悪魔は悪魔――あくまで悪魔。

 こいつがいずれ成長すれば、必ず人間に被害を与えることになる。愛月が去った探偵部に、いつか絶対、災いが降りかかる。

 それは防がねばなるまい。


 俺はヘッドホンを掛けると、呟いた。


加速アクセル


 減速した世界の中、悠然と教室を横断する。

 身動ぎひとつしない幼魔に近づくと、そのまま押し倒して、踵を振り上げた。

 そして、振り下ろす。

 首――と呼べるのかはわからないが、ともかく、頭部と胴体を繋ぐ箇所に振り下ろされた踵は、何か固い物を踏み砕く感触を伝えた。

 もう一度、踵を上げて――落とす。

 二撃。

 それだけで充分だった。殺しすぎる必要は、ない。


「ふぅ~」


 息を吐いてヘッドホンを外すと、首を踏み砕かれた悪魔は、悲鳴も上げずに消えていった。

 代わりのようにそこに残された魔石を拾い上げる。


 こうして、俺は悪魔事件をひとつ、隠蔽した。


 

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