第6話 群青色の水底

 


「へ~……紅巴いろはが言ってたエクソシストって、二ノ宮のことだったんだ。わたし初絡みかも!」

「………」


 七月下旬。

 夏休みまで一週間を切った夏の昼休みのことである。

 場所は例によって文化棟四階の空き教室。ついに正式に使用許可を得たマイベストプレイスで弁当をつついていると、桜庭がクラスメイトの女子を伴って現れた。


 桜庭より一回り小さい彼女は、ツインテールにした毛先に緩くパーマを当て、素顔を彩るナチュラルメイク。ワンサイズ大きめな薄桃色のカーディガンをだぼっと着こなし、白いソックスと短い丈のスカートが作る絶対領域はとても目に眩しい。

 総評――とても華やかな女子。関わりたくないタイプ。


 そんな彼女が、「わたしの名前、言ってみ?」と自分の顔を指差すので、


「田中花子」

「全然ちがーう! 誰だよその女ぁ!」

「適当に女の名前言ったら、ワンチャンあるかと思ってトライしてみたんだが……」

「ワンチャンある訳ねぇだろー!」


 わざとらしく両手を突き上げて怒り狂う女子を放置し、桜庭に「で、誰?」という視線を向ける。


「クラスメイトの小夜さよだよ。倉橋小夜――クラスメイトの名前くらい知っときなよ、音穏くん……」

「バカ言え。クラスメイトってお前……三十人近くいるんだぞ?」

「うん、知ってるよ。だから?」

「………」


 俺は甲斐なしと判断して沈黙を選択した。桜庭と俺とでは、違う価値観で生きているらしい。


「にゃははー。クラスではあんま絡んでないから知らなかったけど、紅巴と二ノ宮って、そんな仲良しだったんだぁ――ねね、二ノ宮。わたしも二ノ宮のこと『音穏くん』って呼んでいい?」

「やだ」


 コンマ一秒で断った。


「なんでだよぉ――あっ、はは~ん……下の名前は特別な人にしか呼ばせない的な? ふたりは実は付き合ってるとか?」

「倉橋。俺だって傷つくことはあるぞ」

「その発言に私が傷ついたよ!」

「にゃははは! 夫婦漫才かよ」


 笑いつつ倉橋は適当な椅子を引いて着席する。桜庭も同じように腰を下ろしたところで、倉橋はやっと本題を口にし始めた。


「ところで、お二人さん。悪魔関連の相談を請け負っているっていうのは本当かね?」

「うん、本当だよ。こう見えて、音穏くん、悪魔関連のことになるとすっごい頼りになるか」


 反論するのも面倒なのでスルーする。

 すると、なぜか尊大な雰囲気を醸し出していた倉橋は、存在しない顎髭を撫でまわすパントマイムを披露してから、


「では二ノ宮君――君に我が家を助けさせてあげよう」


 と、殊更尊大な態度で言ってきた。

 陽キャのこういうノリにはいちいち付き合ってられないので、そこはスルーして、俺は訊き返す。


「我が家?」

「そう。わたしの家。倉橋家――どういう家か、さすがに知ってるでしょ?」

「いや、知らん」


 逆に、名前すら知らなかった女子の家族について知ってたら、そっちの方が怖いだろ。

 だが、倉橋は信じられないものを見たような顔をする。


「……マジ?」

「マジ」

「……にゃははははは! さすが二ノ宮! お前は期待を裏切らないなぁ」


 爆笑された。

 解せない。倉橋家は教科書に載ってるとでも言うのだろうか。


「小夜の家は、すっごいお金持ちなんだよ」


 と桜庭が補足説明をしてくれた。


「まあ、お父さんがちょっとした企業の社長をやってるだけだけどねー」

「へー。社長っているんだな」

「にゃはははは。それはいるだろー」

「社長がいることは納得できるけど、倉橋が社長令嬢であることは納得できないな」

「言うなぁ、この野郎ー」

「小夜は意外とお嬢様だよ? 来てるカーディガンも上質だし、使ってるコスメも高いやつだし、ローファーなんてあれ、一万円以上するやつだよ!」


 そうなのか。

 まあ、そう言われてから改めてみてみると、倉橋は実際、それなりに良いものを身に着けているようだった。ただ、センスがいいからか、それとも童顔だからか、別に、金持ちを鼻にかけているような雰囲気はない。


「――いいなぁ。私のお父さん、普通に会社員だから、そんなにお小遣い貰えないよ」

「にゃはは。わたしは庶民とは違うのだー」

「ムカつくぅ」


 じゃれ合う女子ふたりを眺めて思う――で、こいつら何しに来たんだ?


「音穏くんのお父さんは何してる人なの?」

「医者だ。両親ともに医者」

「ええ⁉ じゃ、じゃあ……もしかして音穏くんのお家もお金持ち?」

「医者は意外と儲からないぞ。まあ、裕福な方だとは思うが……てか、そんなことはどうでもいいんだよ。結局、倉橋は何しに来たんだ?」

「んにゃ? ――ああ、そうだったそうだった。悪魔について、相談があって来たんだった」


 悪魔について――なんて言われたら、話を聞かないわけにはいかない。俺は開いていた文庫本に栞を挟むと鞄にしまい、倉橋に視線を寄越す。

 こちらが聞く姿勢に入ったのを確認すると、倉橋はその桜色の唇を開いた。


「実はわたしのお父さん、道楽でキャンプ場を経営してるんだけど」


 と。

 倉橋の語り口は、そんなブルジョワジーな発言から始まった。


「そのキャンプ場内の川で、水難事故が相次いでるんだよねー」

「水難事故?」

「うん。同じ場所で、三人も溺れてる」

「……たった三人か?」

「経営する側の立場からすれば、一人溺れるだけでもマズいんだよ。なのに、三人も被害にあってる。しかも、全員同じ場所で」


 それは確かに、一見不可解だ。

 ――だが。


「そういうのは大体、地形が悪さしてるっていうオチが待ってるぞ。足を滑らせやすいとか、何かに気を取られやすいとか、そういう地理的原因があるんじゃないか?」

「おー、さすが二ノ宮。よく知ってるなぁ――もちろん、そんなのとっくに調べた。専門機関に依頼してね。でも、特別に水難事故が多発するような要因は見つからなかったって」


 ま、そりゃそうか。

 キャンプ場を経営してるのは大人。しかも、社長として成功を収めてる大人だ。俺が思い付くようなことは、とっくに検証してるか。


「――で? この話は、どう悪魔と関わってくるんだ?」

「実は、溺れた三人のうち、一人は昏睡状態なんだけど、二人は既に目を覚ましてるんだよねー。で、その二人が異口同音にこう言ってるわけ――『真っ青な色の手に、川底に引き摺り込まれた』って」

「………」

「これ、悪魔の仕業だよね?」


 俺は天を見上げた。



 その週の土曜日。

 俺は休日にしては珍しく早起きすると、身支度を整えて家から出立することにした。

 倉橋に頼まれた一件だが、どうも性急に解決してほしいとのことだ。まあ、なにせ現場はキャンプ場。夏休みに入る前には安全を確保して、さっさとオープンしてしまいたいとでも思っているのだろう。

 報酬に関しても、色を付けて支払ってもらえるとのことである――であるならば、是非もない。


 出がけ、杏仁豆腐を食べながらテレビを眺めていた妹に、


「じゃ、行ってくるから」


 と告げる。

 すると下着姿の妹はこちらも見ずにスプーンを掲げて、


「お土産、期待してるね」

「キャンプ場にお土産なんてある訳ないだろ」


 朝靄の立つ街を欠伸を噛み殺しながら歩いていき、駅に到着すると、桜庭と倉橋は既に到着していた。奇しくも、待たせる格好になってしまったらしい。


「音穏くん、おはよう!」

「よー、二ノ宮。女子を待たせるとはいいご身分だなー」

「……ああ、おはよう」

「テンション低いなー、二ノ宮。悪魔の調査だぞ? テンション上げてけー」


 ああ、そうだった。今日は悪魔の件について調査をするために、件のキャンプ場に行こうという話なのだった。どっちみち、テンションは上がらないが。


 桜庭は肩が見えるキャミソールにカーディガンのレイヤードトップス。ボトムスにはワイドデニムを合わせ、夏らしい爽やかな印象を演出している。

 隣の倉橋は対照的に、フリフリのコーデだ。ふんわりしたトップスに、ミニスカート。ハイカットのスニーカーにトートバック。

 二人とも、とても華やかで垢抜けている。


「――さて、それじゃあ行くか」

「ちょいちょいちょい」


 踵を返した俺を、倉橋が呼び止める。

 なんだよ――と鋭い視線を向けると、ニマニマ顔の倉橋と目が合った。


「わたしたち私服だぞ? ほれほれ――クラスメイトの私服だぞ? どうだ?」

「……どうだっていうのは?」

「かぁーーーーー! これだからむっつりスケベ野郎は! 変にスカしてないで、女子の私服を見たらまず褒めろよぉ」


 倉橋の絶叫に、桜庭も頷いて賛同している。


「私服を褒めればいいのか?」

「うんうん――上手い褒め方が思い付かないなら、『かわいいね』とかだけでもいいぞ」


 なるほどなるほど。

 私服を褒める……か。


「二人とも、私服なんて持ってたんだな。凄いじゃないか」

「バカにされた気分だよ!」

「にゃはははは! 二ノ宮はわたしらが制服しか持ってないと思ってたのかよー」


 倉橋が腹を抱えて笑う。そこまで面白いことを言ったつもりはないのだが……。

 ちょうどその時、倉橋のスマホが震えた。


「んにゃ、タクシー来たって」


 俺の移動手段は基本的に電車か自転車だ。タクシーなんて乗ったこともないかもしれない。桜庭も移動でタクシーを使うことなんて滅多になさそうだが、倉橋は結構タクシーを利用するらしい。運賃は経費として彼女が出してくれるらしいので、遠慮なく利用できる。


 目的のキャンプ場まで、タクシーで三十分ほどだ。

 渋滞に巻き込まれることもなく、予定通りに到着することができた。

 キャンプ場は臨時的に閉鎖しているらしく、人影は失せていた。


「んー、到着!」


 大きく伸びをした。

 爽やかな一陣の風が、桜庭の髪を撫でつける。晴れ渡った空に積雲がぷかぷか浮かんでいて、この上ない好天気だ。川の近くだからだろうか、体感温度は街より低い。それでも蒸し暑いことに変わりはなく、陽光に肌を焼かれるような不快な感覚が拭えなかった。


「どう? 悪魔の専門家的に、何か感じる?」

「いや、特に何も……具体的に、どの辺が事故現場なんだ?」

「もうちょっと上流の方――ねね、実際のところ、悪魔が人間を水の中に引き込むことって、あり得るの?」

「あり得なくはない」


 と、含みを持たせた回答をする。

 疑問符を浮かべる倉橋に、桜庭が答えた。


「悪魔が人間を殺そうとするのはよくあることだけど……でも、同じ場所で何度もっていうのは珍しいんだ。悪魔は人に憑くことはあるけど、場所に憑くことは滅多にないから――だよね? 音穏くん?」


 流し目で確認を取ってくる桜庭に、俺は首肯を返す。

 桜庭は『紗琳堂』に通って、彩華さんに悪魔について教えてもらっているらしい。その成果が、今の説明だ。


「まあ、そうだな――なんにしても、とりあえず現場を見てみないことには始まらない。とっとと見に行こうぜ、その現場」


 俺がそう提案すると、しかし、倉橋はニヤニヤ顔で首を振った。


「そう焦んなよぉ。わざわざ休日を潰してまで調査しに来てくれた二ノ宮のために、ご褒美を用意してやったんだから」


 ご褒美?



 件の事故現場は、森林の中にあった。

 右を見ても左を見ても木。立札がなければ、一瞬で遭難しかねない。

 川は水深二メートルちょっとといったところだろうか。流れは穏やかだが、子供を遊泳させるにはちょっと心配になる感じ。水は深く澄み切っていて、川底も見えそうなほど。魚がゆったりと泳いでいくのが見える。釣りスポットのようだ。


「やっぱり、ここまでする必要はなかったんじゃないかな……?」


 と、恥ずかしげに言うのは桜庭。

 木漏れ日に照らされる桜庭は、さきほどより肌色の面積を格段に増やしている。黒の下地に黄色い生地が張り合わされたような重ね着風ビキニの上から白いTシャツを着て、裾を縛っている。丸みを帯びた女性らしい身体は、とても色っぽい。


「まずは何事も形からぞ、紅巴! 夏を先取りしたビキニで、二ノ宮を悩殺だ!」


 脳ミソからっからなことを言っているのは、倉橋である。こちらもビキニ着用だ。上下色違いのビキニ。トップはフリルが付いた可愛らしいもので、ボトムはショーツのようなローライズタイプ。しなやかで柔軟そうな身体は、ネコ科の動物を彷彿とさせる。


 倉橋が言っていたご褒美とは、これのことを指しているらしい――うん、まあ、ご褒美ではある。

 ちなみに、俺はもちろん水着なんて持ってきてないので、普通にジーパンとTシャツ、そして長袖の白いパーカーだ。


「どうだ、わたしらの水着姿は? さすがの二ノ宮でもドキがムネムネしてるだろ?」

「いや、まったく」

「かぁーーーーー! ここまでやって顔色一つ変えないとか、実は女慣れしてんのかよ、二ノ宮」


 女慣れはしてない。

 ただ、契約能力の関係で、心臓がドキドキすることに慣れているだけだ。


「そんなことはどうでもいいんだよ。ほら、さっさと調査始めるぞ」


 いつまでも水着姿の女子たちを眺めているわけにもいかないので、件の水面に視線を寄越す。穏やかに揺らぐ水面を通し、川底を見る。


「なにもない……よね?」

「ああ、何もないな」


 桜庭の困惑したような声に、俺は同意を示す。

 悪魔の見える俺たちが見ても、水底に異常は発見できない。ただ、優雅に泳ぐ魚が数匹見えただけだった。


「じゃあ、予定通り、頼んだぞ桜庭」

「う……うん」


 桜庭は緊張した面持ちで頷くと、上に着ていたTシャツを脱いだ。その仕草が妙に色っぽくて、俺はそっと視線を逸らす――すると、ニマニマした顔の倉橋と目が合った。


「じゃあ……入るから」

「ああ、気を付けろよ」


 桜庭は首肯をひとつ返すと、ゆったりとした足取りで川に踏み込む。その爪先が清流に触れた瞬間には、短い悲鳴も上がった。そのまま川の中流まで緩慢とした足取りで歩いていく。桜庭の身体は、足首から徐々に水の中に沈んでいく。

 太もも、腰、胸辺りまで水につかった頃合いで、隣でそれを眺めていた倉橋が耳打ちしてきた。


「紅巴が上がってきたら、水着について褒めた方がいいよ」


 と。

 俺は倉橋を睨みつけながら、揃って声を落として言い返す。


「何のためにだよ?」

「もちろん、紅巴をオトすためだよ――紅巴ってガード堅いけど、結構単純なところあるから、水着褒めるだけでもポイント稼げるぞ」

「俺と桜庭はそういうんじゃない」

「にゃはは。そんなこと言って、紅巴のことエッチな目で見てたのバレバレだぞー」

「性的な目で見てただけで、恋愛的な目では見てない」

「サイテーだぁ」

「………」


 女子の基準で言えば最低なのかもしれないが、男子の基準で言えば、大体そんなもんだと思う。全然好きじゃなくても、いい身体してたら性的な目で見れてしまう――桜庭はナイスバディなのだ。


 そんなことを考えていると、倉橋が俺のわき腹をちょんちょんと突いてきた。


「そんなんじゃ、他の誰かに紅巴盗られちゃうぞ。このこのー」


 鬱陶しい倉橋に何か言い返そうとした時だった。


 桜庭が消えた。

 そう錯覚するほど一瞬にして、水の中に沈んでいった。川の中流で立ち泳ぎをしていたはずの桜庭が、悲鳴すら残らないほど一瞬にして、ただ、水面に波紋を残したまま。清流に目を凝らすと、桜庭が水の中で苦しんでいるのが見える。全身を蛇のようにくねらせながら、悶え苦しんでいた。


「……っ‼‼‼」


 川に飛び込む。そして、下手くそな泳ぎで川の中流まで行くと、ヘッドホンを付けて、息を吸い込んだ。


加速アクセル


 どうせ水中では息はできない。能力は使い得だ。


 木々のざわめきが収まり、川の流れも止まったのを確認して、俺は潜水した。川底に向かってひた泳ぐ。水を吸った衣服は重く、それ故、簡単に沈むことができた。

 水深二メートルちょっと。

 川底で悶え苦しむ桜庭には二本の青い手が絡みついていた。川の水の、そのどこからともなく現れた真っ青な手が、桜庭を水底に縛り付けている。


 俺は桜庭に近付くと、その手を掴んだ――正しくは、その青い手の中指を掴んだ。そして、勢いよく手の甲側に引っ張った。

 ボギッ――と鈍い音が、水の中に響く。

 中指が折れると同時に、桜庭に絡みつく青い手の拘束が弱まるのが見て取れた。俺はその好機を逃さず、桜庭を奪い返すように抱き寄せると、水面まで引っ張っていく。


「ぶはぁ‼ はぁ……はぁ……」

「ぐぇほっ……がほっ……がほっ……」

「はぁ……はぁ……桜庭、大丈夫か?」

「げほっ……げほっ……大丈夫……ちょっと、水飲んじゃっただけ」


 川の水を飲んでしまうのは大丈夫なのか否か。

 その判断は俺には付かなかったが、しかしなんにしても、この場で――悪魔の手の真上でちんたらしているわけにもいかないので、俺と桜庭はいったん川岸に避難した。


「二人とも大丈夫⁉」


 倉橋が忙しない顔で近寄ってくるが、その対応を桜庭に任せ、俺はTシャツの裾を絞った。ヘッドホンがおしゃかになったが、まあ、もともと音楽を聴くためには使ってないので問題ない。


「大丈夫大丈夫……でも、ちょっとマズいな……」

「マズいって何が?」

「確かに、川の底に悪魔はいた。青い手だったし、私も引き摺り込まれたから、あいつが三人を溺れさせた悪魔で間違いないと思う――けど、水の中にいられると、倒すのは難しい。特に私は、水中戦が得意じゃないから」


 桜庭は悔しそうに川を睨む。

 桜庭の契約能力である操血は、血液を自在に操る能力だ。限界まで圧縮して作られた血の刃は鋭く、鋼鉄さえ切り裂く。ただ、水中では水に溶けてしまうという弱点もある。


 ――だが。


「いや、問題ない」


 俺がそう言うと、桜庭と倉橋の視線が一斉にこっちに集中した。


「どうして?」

「水の中で戦う必要なんてないからだ」

「でも……悪魔は水の中に……」


 首を振る。


「そもそも、最初から現地調査なんてする必要なかったんだ。俺たちは、大事なことを忘れてた」

「大事なこと? エクソシストとして?」

「いや」


 もう一度首を振る。


「人として」



 同じ場所で発生した三件の水難事故。

 その被害者の内、本当に重要なのは、悪魔の手を見たと証言した二人――ではなく、未だ昏睡状態から目が覚めないもう一人の方だった。

 三件の水難事故のの被害者。

 名前を佐山浩平くんというらしい。

 まだ十二歳の少年だ。


「たぶん、その子は悪魔の被害者じゃない。本物の――つまり、普通の水難事故の被害者だ」


 その後。

 倉橋が呼んだ家の車の中で、俺は二人に説明していた。俺がびしょ濡れで着替えも持っていないので、タクシーに乗れないと判断してのことである。倉橋が呼んだ車(黒塗りの高級車、運転手付き)はキャンプ場を出発して、今、佐山浩平くんが入院している病因に向かっている。

 人としてすべきこと――というのは、つまり、お見舞いのことだ。未だ目が覚めない佐山浩平くんのお見舞い。


「それって……つまりどういうこと?」

「つまり、最初に溺れた佐山浩平くんは本当に事故。あとの二件は、悪魔がやったってこと。悪魔は場所に憑くことはあまりないけど、人に憑くことはしょっちゅうある」

「最初に溺れた子が、悪魔に憑かれてたってこと?」

「溺れた後に憑かれたんだろ――どんな悪魔の誘惑があったのかはわかないけど、さしずめ、昏睡状態の佐山浩平くんに『独りは寂しいだろう?』とかなんとか言って、騙したんだろうな。『他にも犠牲者を出して、独りじゃなくするため』という理由を得るために。悪魔は、人の願いを叶えるという大義名分があると力を増すからな」

「ひどい……」


 正義感の強い桜庭が憎々しげに臍を噛む。

 桜庭ほど激情を抱いているわけではないが、俺も同意見だ。昏睡状態の少年を騙して、次々と犠牲者を増やしていくなど、まさしく悪魔の所業だ。とても許せるものじゃない。

 だから、悪魔が見える俺たちが倒さなければならない。


 病院に着いた俺たちは、二手に分かれて行動することになった。佐山浩平くんの親族でもなんでもない俺たちは、当然、昏睡状態の彼のお見舞いなんてできない。だから、倉橋経由で調べた彼の病室に、無断で突撃するしかないわけだ。

 が。

 目立たないようにするため、人数は絞るべき――特に俺なんて、まだ服が生乾きだし。


 というわけで、万一逃した時のため、俺と倉橋は外で待機だ。佐山浩平くんの病室には、桜庭ひとりで行く。


「じゃ、頑張れよ」

「うん。任せてよ」


 ない力こぶを作って見せる桜庭に苦笑して、見送った。

 車に戻ると、倉橋が話しかけてくる。


「紅巴、大丈夫なの?」

「大丈夫だろ」


 桜庭はあれで意外と、戦闘能力が高い。シンプルに悪魔と正面戦闘するなら、たぶん俺より強いと思う。


「厚い信頼だなぁ……ホントに付き合ってるわけじゃないの?」

「そんなんじゃない。いや、マジで」

「硬派気取りやがってー、かわいい男子だなぁ。うりうりー」


 頬を人差し指でぐりぐりしてくる倉橋にマッハパンチ(ガチ)をお見舞いするか真剣に悩む。この後契約能力を使う予定が完全に皆無なら、たぶん本当にやってた。


「あんまカッコつけてばっかだと、ホントに他の男に紅巴のこと盗られちゃうぞ?」

「はあ……お前は俺にどうしてほしいんだ?」

「まあ、まずは褒めるところからだな。服を誉めろ、服を。今日、一度も紅巴の格好褒めなかっただろ。せっかくおめかししてきてたのに」

「おめかし?」

「わたしらと遊ぶときじゃ、あそこまで気合い入れた格好してくることはない」

「へー」


 あまり興味がない話題なので、生返事を返す。

 俺のそんな態度が気に食わないのか、倉橋はその猫にような目を細めた。


「……紅巴と二宮って、結局、どういう関係なの?」


 さて……どういう関係かな。

 答えに窮したまま、数分の時が経った。なんとなく、空を眺める。快晴の青い空。輝く太陽が眩しい。最近めっきり夏めいてきた。

 病院を見上げる。

 病的に白い壁と、規則的に並んだ窓。


「……ん」


 タイムリーなことに、病因の窓が一枚弾け飛んだ。派手に割れて、ガラスが降り注いでくる。大体十階くらいの一番端の窓。たぶん、佐山浩平くんの病室だ。

 窓から、青い肌の悪魔が飛び出てくる。

 蝙蝠のような羽根を生やした、人型の悪魔だった。


「何? どうしたの?」


 悪魔の見えない倉橋には突然病院の窓が弾け飛んだようにしか見えなかったのだろう。悪魔が見える身としては、奴が逃げ出したのだということは明白だったが――何から逃げているかについては、答えるまでもないだろう。


 蒼穹を一条の赤い閃光が駆け抜ける。

 閃光は血液でできた一本の矢だった。

 矢は空を飛んで逃げようとする悪魔を打ち抜き、その命を散らす。

 落下してくる悪魔は、空中で分解して消えていった。完全に消失し、魔石となって降って来たそれを、俺が地上でキャッチする。


「俺と桜庭の関係だけど」

「んにゃ?」


 眼を白黒させながら首を捻る倉橋に、俺はちょっと照れながら言う。


「……相棒かな」



「――結局、浩平くんはまだ目が覚めないって」


 終業式の放課後。

 例によって例のごとく空き教室で本を読んでいた俺は、我が物顔でやってきた桜庭にそんなことを言われた。

 浩平くん?


「……ああ、あの、悪魔に憑かれてた子か」

「そう、衰弱してるみたい――昏睡状態は悪魔のせいじゃなかったってことなのかな」

「いや」


 本を閉じ、鞄にしまいながら、俺は首を振る。


「昏睡したのは悪魔のせいじゃないけど、昏睡から回復しなかったのは悪魔に憑かれていたからだろう。お前が悪魔を祓った今、佐山浩平くんが目を覚ますのも時間の問題だと思う」

「……ホント?」

「ああ、たぶんな」


 そこら辺はもう、医療の領分だ。俺には何もわからない。


「――浩平くんさ、ネグレクトされてたんだって」

「……ん?」

「あの後、ちょっと気になって調べたの。そしたら、すぐにわかった。浩平くんの家、両親ともに大学教授らしくて、育児はほとんどしてなかったみたい。浩平くんが昏睡状態になってからも、お見舞いには一度も来てないんだって」


 あまり聞きたい話ではなかった。

 だって、それじゃあ、佐山浩平という十二歳の少年は、目が覚めても独りということなのだから。


「昏睡とネグレクト――二重に孤独だった心が、悪魔に付け入る隙を与えてしまったんだろうな」

「……許せないよ。まったく」


 義憤に燃える桜庭を漫然と眺めていると、いきなり、彼女はその相好を崩して


「――そういえば」


 と、思い出したように話を変えてきた。

 途端に嫌な予感が全身を駆け巡る。


「小夜から聞いたよ――私のこと『相棒』だと思ってるんだって?」

「………」


 嫌な予感的中。

 あのお喋りゆるふわ金持ちギャルめ――今度会ったら、マジでマッハパンチ食らわせてやる。


 ここにいない下手人に毒づいていも意味はなく。


「いやー、うれしいなー。音穏くんがそこまで思っててくれたなんて」

「……ちっ」

「私としては『仲のいい友達』くらいにしか思ってなかったんだけど、『相棒』とまで言われちゃうと照れちゃうよー」

「え?」

「ん?」


 おやおや。

 何やら認識に齟齬があるようである。これは正さねばなるまい。


「俺の言う『相棒』はビジネスパートナーみたいな意味だぞ? 『親友』みたいな意味は一切含んでない」

「え……じゃあ、悪魔が関係ない時の私たちって……」

「ただのクラスメイトだろ?」

「………」

「………」

「………。~~~っっっ‼ 音穏くんのアホ~~‼」


 悲しそうな顔になって、寂しそうな顔になって、最終的に怒った顔になった桜庭が、机を叩きながら立ち上がる。


「これは危機だよ‼ ナイスバディ解散のピンチだよ‼ 音穏くん! 今すぐ私のいいところ十個言ってみて‼」

「えっと……服がかわいいね」

「これ制服だよ‼」


 倉橋メソッド、失敗。

「こうなったら実力行使だー」と、安全ピンを取り出す桜庭を尻目に、窓の外に視線を向ける。ジリリと照り付ける太陽と、むくむくと発達する積乱雲。

 今年も、夏が始まる。


 

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