第5話 濃紺色の策謀

 


「先生が結婚できないのって、絶対悪魔のせいだと思うんだよね。二ノ宮君、なんとかしてくれる?」


 紺藤こんどう先生にそんなことを頼まれたときの俺の感想は、何を隠そう「何を言ってるんだこの女は?」だった。


 七月上旬の放課後、ついに空き教室の不法占拠が教師にバレた。

 不法占拠――というのはまあ、過剰表現だとして、学校側に許可も取らずに教室を利用していたのは問題のある行為だった。もちろん、俺もそれを承知の上で空き教室を使っていたのだ。停学とは言わないまでも、反省文の一、二枚は覚悟しなければならないだろうかと、そんな風にびくびく怯えながら生徒指導室を訪れた俺を出迎えた紺藤先生は、開口一番そんなことを言ったのだった。


 ちなみに俺は、深夜徘徊の癖があるため、しょっちゅう寝坊を繰り返す遅刻魔だ。だから、生徒指導室に呼ばれるのは慣れたものでもある。

 お呼ばれの二ノ宮と呼んでもらってもいい。

 ただ、そんなお呼ばれの二ノ宮でも、生徒指導室に呼ばれて、逆に先生側から相談を受けるという経験は初めてである。まして、それが結婚の相談となるとなおのこと。


「あ、先生の理想とする男性はね、身長百八十センチ以上で、年収は一千万以上、年齢は先生の三つ上まで許容できるから、三十二歳以下かな。優しくてイケメンで、教職に理解があって、家事を分担してくれる男の人がいいな」


 紺藤先生が理想とする、その女性の理想全部乗せみたいな男は、紺藤先生みたいな女には興味ないと思いますよ――という言葉は何とか吞み込んで。


「結婚相談所に登録するといいと思いますよ――じゃ」

「まあ、待ちなって――あのね、二ノ宮くん。社会を知らない君のためにひとつ教えてあげるけど、結婚相談所って意外と値が張るのよ。スペックの高い男と引き合わせてもらうためには、それなりに良いプランに加入しないといけないんだけど、それって加入だけで百万くらいかかるし――教師なんて職業じゃ、そんな大金は払えないのよ」

「……じゃあ、マッチングアプリでも使ったらどうです?」

「わかってないなぁ、二ノ宮くんは。そんな安っぽい出会い方した相手とじゃ、結婚しても上手くいかないでしょ? 結婚はゴールじゃなくてスタートなのよ?」

「………」


 いっちょまえにしゃしゃんなやアラサーが――というセリフも何とか呑み込む。

 こんな人だが、俺は意外にこの先生のことが嫌いではないのだった。


 紺藤先生――紺藤由紀子先生。

 担当教科は物理。こんなことを言っているが、この学校の教職員ではそれなりに若い方で、年齢は二十九歳。担任にはついていない。黒髪のショートボブがよく似合っていて、明るく小ざっぱりしているので、生徒ウケがいい。淡いブルーのブラウスが爽やかな笑顔と相まって、放課後の生徒指導室とよく映える。

 高望みさえしなければ、いくらでも結婚できそうな女性だ。


「教職ってモテないのよ。ほら、最近、いろいろ報道されて、待遇の良い職種じゃないことが明るみになったでしょ? はーあ……十年前に戻れるなら、死ぬ気で勉強頑張って、法学部に入るのになぁ」

「先生ちょっと口を閉じてください。尊敬できなくなります」


 これはただの空しい子供の妄想なのかもしれないが、教師という職業に就く人には、信念みたいなものを持っていてほしいと思ってしまう。人生をやり直せたとしても教師になると、そう豪語してほしい。


「結婚できない年齢の男に尊敬されようがされまいがどうでもいいんだけど――それはそうと二ノ宮くん」

「ちょっと待ってください。今、教師という職業に就く者として、さすがに看過されるべきでない発言があったように思うのですが?」

「――それはそうと二ノ宮くん」


 俺の文句を聞くつもりはないらしい。


「先生の前にいい男が現れないのって、絶対悪魔のせいだと思うんだけど、なんとかしてくれないかな?」

「悪魔ナメんなぶっ飛ばすぞ」


 このセリフはさすがに我慢できなかった。

 拳を握りしめる。

 世の中に悪魔の尽きまじきこと、それに苦しんでいる人々も少なくないのに、この女はどのツラ提げてそんなこと言ってるんだ。


「というかそもそも、どうして俺に悪魔の相談なんてするんです?」


 まさか、彼女も悪魔と契約を――と、身構えた俺に紺藤先生は、


「だって専門家なんでしょ? 桜庭さんに聞いたわよ」


 と、答えた。

 考えてもみれば道理だった。桜庭紅巴。悪魔に関する噂を持ってきて、たびたび俺を巻き込んでくる迷惑な同級生。その噂は、とうとう教師にまで伝わってしまったらしい。


「……俺が悪魔の専門家だったとして、俺の口から先生に言えることはひとつです。理想を捨てて、ほどほどの男と結婚してください」

「まあ待ってよ。話を聞いて。聞くだけ聞いて」

「アラサーの婚活事情なんて、聞くのも嫌なんですけど……」

「次、先生のことをアラサーって呼んだら、二ノ宮くん、留年ね」


 紺藤先生にそんな権限はないはずなのだが、眼がマジだったので、俺はコクコクと頷いた。


「――それに、婚活が上手くいかないだけじゃないのよ。具体的には、最近、よく誰かに見られているような気がするの。誰もいないのに気配を感じたりもするし」

「気配……誰もいないのにですか?」

「うん。厳密には、影が見えることもある――人の形をした」

「それは……」


 それは、悪魔かもしれない。

 しかも、人の形をしているということは、幼魔ではなく成体の悪魔である可能性が高い。だとしたら、大事だ。


 話の雲行きが変わって来た。俺は浮かしかけていた腰を下ろす。


「なんとなく不気味で、独り暮らしだから、夜とか不安なのよね。はあ……どこかに包容力があって、高収入で高学歴で高身長で、私と結婚してくれる素敵な男の人はいないかしら」

「いないと思いますよ」

「そんなはっきりと……ねえ、先生の何がいけないのかしらね? やっぱり悪魔のせいなのかしら?」

「それは全く関係ないですね」

「じゃあ、先生の何がいけないっていうの⁉」

「迫真っ⁉」


 あまりにもマジ顔だったので、ちょっと可哀想に思えてきてしまう。高校生の俺には理解できないが、婚活ってそんなに大変なのだろうか。

 仕方なく、スマホを取り出し、それっぽいワードを検索窓に入力する。


「男っていうのは、女性の意外な一面にトキメクみたいですね」

「意外な一面?」

「はい。先生、何か意外な一面ってあります?」

「そうね……実は先生、意外とズボラなのよ」

「それ……は、確かに意外な一面ですけど……」


 紺藤先生は爽やか系の見た目をしているので、確かに見た目の上ではズボラには見えない。ただ、マイナス方面の意外性がモテ要素に繋がるのかは甚だ疑問だが。


「免許証も車のダッシュボードに入れっぱだし、家の鍵、時々閉め忘れるし――ていうか今日も閉め忘れてきたし」

「それはズボラというかただの不用心ですね。しっかりしてください、先生」

「しっかりした女になったら、結婚できる?」

「知らないです――あの……男子高校生に結婚の相談するのはやめてくれませんか? 俺、悪魔には詳しいですけど、結婚には詳しくないので」

「先生の感覚だと、高校生に悪魔の相談をするよりは結婚の相談をする方が現実的なのよ」


 そう言われると、返す言葉はない。とはいえ、俺が結婚より悪魔に詳しいのは間違いようもない事実なので、俺は無理やり話の軌道を元に戻した。


「……悪魔は一応、夜に活動するということになってます。先生の周りにちらついてる悪魔について調査したいので、今夜、時間を取ってくれませんか?」

「今夜は無理。合コンの予定入れちゃってるから」

「……先生――もし先生が悪魔に憑りつかれてるなら、事態は一刻を争う事態です。自分の命の安全と結婚、どっちが大事なんですか?」

「結婚」

「………」


 こいつ本当に悪魔に惨殺されるまで放置してやろうかな――と、一瞬本気で考えた。


「――じゃあ、明日です。明日の夜、絶対予定を空けておいてください。まさか、明日も合コンなんて言わないですよね?」

「おっけー……あ、放課後会うのは良いけど、他の先生にはナイショね。超ナイショ」

「俺は桜庭とは違うんで、悪魔について吹聴したりしませんよ」

「それは助かるわ」

「?」

「もし万事上手くいって、何もかも解決したら――あの文化棟の空き教室、正式に使用許可を出してあげる」

「! マジですか⁉」

「マジマジ。先生に二言はない――ただ、あくまでこれは報酬。全部解決するまでは、あの教室、使っちゃダメだからね」

「わかってますよ、そんなこと」

「じゃあ、契約成立ね」


 紺藤先生はパチリとウィンクした。

 そしてその日、紺藤先生は失踪した。



 翌日。

 紺藤先生の失踪は生徒間で最大の噂話となっていた。もともと人気の高かった先生である。それが失踪となれば、生徒たちは好き勝手な憶測を話し始める。なんの根拠もなく、犯罪が関わっているに違いないと、学校中の誰もが信じてやまなかった。

 物理の授業は必然、教える人がいないため自習。


「紺藤先生、車は学校の駐車場にあるみたい」


 放課後、とろとろ帰りの支度をしていると、桜庭がやってきてそんなことを言った。そして一際声を落として、


「やっぱり悪魔が関係しているのかな?」


 と。

 紺藤先生が昨日、俺に悪魔の相談をしてきたことは、桜庭に共有してある。昨日の今日で失踪だ。悪魔関連の事件である可能性がどうしてもちらつく。


「さあな」

「心奈ちゃんみたいに、悪魔と契約しちゃって、自分の意志で失踪してる可能性はないの?」

「車が学校にあるなら、その可能性は低いだろ。失踪するにしても、車はあった方が都合がいい」

「そっか……」

「………」

「じゃあ、悪魔に攫われた可能性も……」

「それは、最悪から二番目の可能性だな」

「二番目? 一番は?」


 それはもちろん。


「紺藤先生が既に死んでいる可能性だろ」



 紺藤先生が悪魔に関わっていたとして。

 その責任が誰にあるかと問われれば、俺の名前が上がる可能性は否定できない。無理を言ってでも紺藤先生に合コンの予定をキャンセルさせ、昨夜、俺が一緒にいれば、彼女は失踪せずに済んだかもしれない。

 ただ。

 俺がそのことに責任を感じているかと問われれば、それはノーだ。そこまで殊勝な性格はしてない。紺藤先生だって子供じゃないんだ。彼女の選択まで、俺は責任を負えない。


「だけどこのまま、紺藤先生が変死体で発見されましたってのは――ちょっと寝覚めが悪いからな」


 昇降口で靴を履き替えながら、そんなことを呟く。誰にともない言い訳だった。

 誰に言ったでもない独り言だったが、しかし、俺の隣にいた桜庭にはばっちり聞こえてしまったようで、何がおかしいのか、くすりと笑った。


「なんだかんだ言って、結局、助けてあげるんだもんね。音穏くんは」

「勝手に俺にツンデレキャラを付与するな。そんなんじゃない」


 助けてあげるわけでもない。

 ただ、ちょっと気になるから調べるだけだ。


「ふふふっ……しょうがないから手伝ってあげるよ」

「……誰が? 誰を?」

「私が、音穏くんを」

「なんで?」

「だって、私たち相棒でしょ? 遠慮しないでよ」

「遠慮してないし相棒でもないんだが?」

「照れちゃって」


 照れてない。相棒じゃない。遠慮もしてない。

 善意の押し売りが強引すぎる。強引すぎるし、ゴーイングマイウェーすぎる。片方の了承を得ずに相棒関係って成立するものなのか?


 とはいえ。

 この少女に文句を言っても仕方ないことは、この数か月の付き合いで既に飽き飽きするほど学んだので、無理に否定したりもしない。桜庭が相棒だと思うなら、勝手に思わせておけばいい。俺に実害があるまでは、わざわざ否定する意味もない。


「でも、どうやって紺藤先生を見つけるの?」

「いったん、紺藤先生の家に行ってみる。何かヒントがあるかもしれないし」

「紺藤先生の家、どこにあるか知ってるの?」

「知らん――でも、心当たりはある」


 ラッキーなことに、紺藤先生の住所は簡単に推理することができるのだった。


「ところで桜庭、この学校の職員用の駐車場って、どこにあるか知ってるか?」

「え? うん。知ってるけど?」


 首を捻る桜庭に先導してもらいながら、職員用の駐車場に来た。何台かの車が停まっているだけで、人気ひとけはない。誰もいないのはラッキーだ。


「さっき、紺藤先生の車は駐車場にあるって言ってたよな? それ、どれかわかるか?」

「わかるよ。紺藤先生、赤いスポーツカーで出勤してることで有名だから」

「それは……派手だな」


 派手過ぎて、その車はすぐに見つかった。

 ルージュのごとき紅で全身を塗装した、スポーティなボディ。そしてラッキーなことに、スマートエントリーシステムの車だ――つまり、シリンダーキーで車の解錠ができる。


「桜庭、お前の契約能力で車の鍵を開けてくれ」

「え⁉ なに? 私が? どうやって?」


 困惑したような声を上げる桜庭にシラッとした目を向ける。

 こいつ、自分の契約能力の使い方もわかってないのか……。


「お前の操血でこの車の鍵を開けてほしいんだ――ほら、ドアのノブの部分に鍵を差し込むところがあるだろ? ここから血を流し込んで、中で凝結させて、捻れば解錠できる」

「あ、なるほど……でも、そんなことしてどうするの?」

「説明めんどい。とにかくやってくれ」

「……もう」


 頬を膨らましつつも、桜庭は言った通りにやってくれた。

 親指の付け根を安全ピンで刺すと、傷口を鍵穴に押し当てる。スポーツカーは車高が低いので、自然、桜庭は前屈みになる。連動するようにスカートの裾が持ち上がって、太ももが大胆に露わになった。

 全然そんなつもりはなかったが、俺の視線は自然、桜庭の太ももに吸い寄せられる。白く珠のような肌の健康的な太もも。


「………」

「………」


 俺の視線に気づいたのか、桜庭は片手でスカートの裾を押さえる。

 どうして背後にいた俺の視線に気づいたのかは永遠の疑問だが、ひとつ言えることがあるとすれば、屈んだ姿勢のままスカートの裾を押さえると、よりエロい構図になるということだけだった。


 そのまま無言で十数秒が経過する。

 しばらくごそごそやっていた桜庭が手首を捻ると、ガチャ――という音が響いた。解錠に成功したらしい。


「ナイスバディ」

「それっていい相棒ってこと? それともいい身体ってこと?」


「どっちなのかな⁉」とうるさい桜庭を無視して車の扉を開くと、俺はいの一番にダッシュボードを開けた。紺藤先生の言が正しいなら、彼女はここに免許証を入れっぱなしにしている。

 自己申告通りズボラなのだろう。ダッシュボードの中は混沌としていたが、免許証は簡単に見つかった。カードの表面には、今よりちょっと若く見える紺藤先生の顔写真と、それから名前と――そして、住所が記載されている。


「――紺藤先生の家はわかった。早速行くぞ」

「あ、うん……って、ちょっと待って。施錠してくから!」



 紺藤先生の家に到着したのは、夜の八時を回ってからのことだった。

 バスを乗り継いで遠い町にやって来た俺と桜庭は、紺藤先生の家であるマンションの前で十分ほど待機し、たまたま現れたやつれ顔のサラリーマンの後ろに付いていく形でエントランスを突破。集合ポストで紺藤先生の部屋番号を確認し、エレベーターに乗った。


「401……四階の端っこか」

「紺藤先生って、結構いいマンションに住んでるんだね」

「まあ、女性の独り暮らしじゃ、ボロアパートに住むわけにもいかないだろうからな」

「そっか……そうだね。独り暮らしって、やっぱり寂しいのかな?」

「さあ。俺は実家暮らしだから、何もわからん」

「私も……でも、私一人っ子だし、両親は共働きだから、家で独りの寂しさはわかるかな――音穏くん、ご兄弟は?」

「……中三の妹がひとり」

「じゃあ、賑やかでいいね」

「まさか。うるさいだけだ――ほら、四階着いたぞ」


 世間話をしていると、いつの間にかエレベーターが四階に到着していた。

 世間話をしている場合でもないのだが。

 だって俺らがしようとしていることは……。


「401……401……」


 表札を見ながら内廊下を歩く。四階の突き当り。一番奥にひっそりと佇むドアが、紺藤先生の住居だ。

 ポストもない、ドアスコープとノブが付いているだけで、なんのデザインもない、無骨なドアを何度か叩く。


「先生? 二ノ宮です。いらっしゃったら返事してください」


 返ってくるのは沈黙。

 たっぷり一分ほど待って、それでも何の返事もないので、俺はドアノブに手を掛けた。


「ちょ、ちょっと……」

「なんだ?」

「勝手に入るのはマズいよ」

「そんな常識的な考えじゃ、エクソシストになれないぞ」


 言いながらノブを捻る。

 或いは桜庭に、車の時と同じように鍵を開けてもらう必要がある可能性もあったが、鍵はかかっていなかった。

『今日も閉め忘れてきたし』――昨日の紺藤先生の言である。もしかしたら彼女は、昨日から帰ってないのかもしれない。


 靴を脱いで部屋に上がる。

 紺藤先生の部屋は、なんというか、伽藍洞という言葉がよく似合った。とにかく、物がない。生活に必要そうなものはいくらかあるのだが、しかし、逆に言うと生活に必要そうなものしかないといった感じ。個性がない――生活感がない。

 もともとそれなりに広そうなリビングは、全くと言っていいほど物がなく、寂しいくらいに広々としていた。


「お邪魔します……」


 今頃になって、桜庭は不法侵入の覚悟を決めたらしい。玄関から、そんな声が聞こえてくる。どこか申し訳なさそうな足音と共にリビングにやって来た桜庭は、伽藍洞のリビングを見て息を呑んだ。


「なにこれ……」


 テレビもなく、ソファもない。

 キッチンに移動すると、洗い終わった食器が乾かしてあった。からからに乾いている。

 失礼を承知で冷蔵庫を開けると、醤油や味噌などの調味料が入っているだけで、他には何も入っていなかった。


「生活に必要な物が残っているのを見るに、夜逃げしたわけではなさそうだけど……」

「でも、こんな部屋で生活してたら、頭おかしくなっちゃう」

「桜庭はそういうタイプだろうな」


 俺はたぶん、そこまで苦にはしないだろうけど。

 ただ、紺藤先生がミニマリストというのは、はっきり言って意外だった。男性がトキメクかはわからないが、意外な一面だ。


「……いや、やっぱおかしい」

「紺藤先生がミニマリストだとおかしいの?」

「ああ、おかしい――だって、車のダッシュボードの中は、あんなに混沌としてたのに……」


 紺藤先生はズボラで、片付けの出来ない女のはずだ。何かがおかしい。何かが不気味だ。


「……寝室に入ってみよう」

「ええ⁉ それはダメだよ‼」

「じゃあ、桜庭だけでもいいから、覗いてきてくれ」

「ええ……?」


 ぶつくさ文句を言いつつも、しかし、寝室になら何か手掛かりがあるかもしれない――そう桜庭も思っていたのか、渋々と協力を承諾してくれた。

 ――が。

 結論から言って、寝室に入ることはできなかった。


「なにこれ……」


 桜庭が困惑の声を洩らすのも道理である。

 紺藤由紀子――彼女の寝室は、あまりにも堅牢なセキュリティによって守られていた。リビングと寝室を隔てる扉。

 そこに施された三つの電子ロック。

 十桁のパスワードを、掛けることの三つ。

 それをクリアしなければ、紺藤先生の寝室に入ることはできない。寝室への侵入を徹底的に阻むような、それほど堅牢なセキュリティだった。


「こんな……あからさまに中にナニカ隠してますよと言わんばかりの……」

「でも、入れないよ」

「桜庭の血の剣でドアごと切断すれば、入れはすると思うけど……」

「そこまでするのはちょっと……」


 今さらドアの一枚くらい――と思わないでもないが、今、俺は桜庭の説得よりも重要なことに思考のリソースを割いていた。

 つまり、このセキュリティはなんのために存在するのか。

 寝室への侵入を徹底的に拒むものだとして――では、誰の侵入を拒んでいるのか。まさか、俺らが来ることを想定していたのか……それとも……。


 そこまで考えたタイミングで、ひっそりと、しかし確かに、その音は響いてきた。

 玄関のドアを開ける音だ。

 悟られないように、気取られないように――そんな意思を感じさせるほど微かな音だったが、生憎、悪魔と契約して五感が向上している俺と桜庭には聞きとれた。


「……っ」


 桜庭がなにか言おうとしたのを、俺は口を押えることで黙らせた。

 大方、紺藤先生が帰って来たと思ったのだろうが、その可能性低い。だって、紺藤先生にとってここは自分の家なのだから、こっそり入ってくる必要などないはずなのだ。

 口を押えた桜庭を、組み敷くようにしてテーブルの下に引きずり込む。隠れる場所としては最悪だが、なにぶん物がないせいで、それ以上の隠れ場所は存在しなかった。


「………」

「………」


 足音が徐々に近くなる。

 閉まっていたリビングのドアが開き、そして独りでに閉まった。足音はさらに響く。リビングの中を徘徊するような足音――だが、姿は見えない。

 悪魔と契約しているはずの俺が見えないもの――まさか悪魔ではないのか。

 それとも……。


 脳裏を、紺藤先生の言葉が掠める。


『――それに、婚活が上手くいかないだけじゃないのよ。具体的には、最近、よく誰かに見られているような気がするの。誰もいないのに気配を感じたりもするし』

『うん。厳密には、影が見えることもある――人の形をした』


 俺は弾かれたように駆け出した。

 机の下から這い出て、一目散に目指したのは――電気のスイッチ。

 俺と桜庭は、この家に侵入してから一度も、電気をつけていなかった。何故なら、必要ないからだ。必要ない身体だからだ。悪魔と契約した俺たちは、夜の闇をものともしない。


 ――だが。

 光がなくても物が見えても。

 光がなければ影は見えない。


 果たして。

 電灯を点した紺藤先生宅のリビングには、人の影があった。堅牢なセキュリティを誇る寝室の扉の脇に、人の形をした影がひとつ。

 テーブルの下から遅れて這い出てくる桜庭を尻目に、俺はその実体なき影に向かって言う。


「そこにいるんだろ? 姿を見せろよ――〝透明〟の契約者」


 返って来たのは沈黙だった。

 だが、影が如実に揺れる。動揺しているのは傍目明らかだった。

 見えないので目は合わないが、睨み合っていた気がする。

 

 一秒経って、二秒経って。

 その影は動いた。


「……っ⁉」


 急接近――してきたのだと思う。

 なにぶん、影しか見えないので、具体的にどう動いたのかはわからない。影が見えても、実態が見えないとどうしても反応がワンテンポ遅れてしまう。

 気が付いた時には、俺は床に押し倒され――そして首を絞められていた。


「うっ……が……」


 首に添えられた手の感触で、下手人が男であることはわかったが、今そんなことはどうでもよくて。俺は必死に、見えない敵に向かって反撃する。

 藻掻いて。

 暴れて。

 それでも、体勢が不利だったこともあるのだろう。俺は、首を絞めてくる男に勝てなかった。酸素が脳に回らず、苦しさが一周回って気持ちよさになっていく。そして、意識が遠退いていく。


「やああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼」


 そんなとき、俺を助けてくれたのは相棒――じゃなくて、桜庭だった。

 裂帛の気合いと共に桜庭が放ったサッカーボールキックは、見事透明人間の……たぶん胴辺りに命中した。


「おぐぇ……」


 醜い悲鳴と共に、首にかかっていた負荷が軽くなる。ほとんど本能的に喉にかかっていた手を掴んだ俺は、なんとか首から手を引き剥がし、両足を使って巴投げのように透明人間を投げ飛ばす。


「悪い……助かった」

「相棒だからね」

「ああ、そうだな」


 酸欠で頭が回っていないのか、思わず認めてしまった。

 慌てて否定しようとした俺の言葉は、しかし、発せられる前に遮られた。

 ガシャン――と、鈍い音。

 それがなんの音なのかは、すぐに解った。暗くなったから。


 透明人間はバカではないらしい。照明を破壊したのだ。再三再四言うようだが、悪魔の契約者である俺らは、暗くなっても普通に見えるので何ら不便はない。ただ、影がなくなると、透明人間がどこにいるかわからなくなるだけで。


「ちっ……っ⁉」


 舌打ちした直後、頬に強烈な衝撃が走った。

 殴られたのだと、遅れて理解する。よろめいた俺は壁に凭れ掛かった。目を凝らして暗がりのリビングを隅から隅まで見回すが、透明人間は見つからない。


「桜庭! 気を付けろ‼」

「うん! 任せて‼」


 ん? 任せて?

 

 首を捻る俺の視界の中で、桜庭が安全ピンの針を自分の親指の付け根に突き刺すのが見えた。血が、勢いよく噴き出す。


血術アーツ


 噴き出した鮮血はそのまま床に零れることもなく、宙に浮いたまま球形を取る。瞬く間に、バスケットボールほどの大きさの血のボールが完成した。

 まさかそのボールで透明人間に攻撃でもするのかと、そんな勘違いをした俺だったが、もちろんそんなわけなく――それどころか、それはボールですらなかったらしい。


 それはボールではなく、爆弾だった。


 パァン――と炸裂音がして、その血の球は破裂する。鮮血が無数の血飛沫となってリビングルームを満たした。それは床を汚し、壁を汚し、天井を汚し、テーブルを汚し、俺を汚し――そして、透明人間を汚す。


「見えた! そこ!」


 桜庭が指をさす。もちろん俺にも見えていた。桜庭のばら撒いた血によって浮き彫りになった、人の形。


「ナイスバディ!」


 今度は相棒を讃える意味で言いながら、ヘッドホンに手を掛ける。

 奴は自分がどんな格好になっているのか察したのか、慌てた様子で出口に向かって駆け出した――が、もちろん逃すつもりはない。


加速アクセル


 ヘッドホンを掛け、呟くと、世界が減速した。

 音速の契約能力。


 緩慢な足取りで逃げていく透明人間に追いつくと、さっきのお返しとばかりに、思いっきり顎にアッパーを叩き込んでやった。透明人間の身体がふわりと浮き上がるのを見ながら、能力を解除する。


 元の速度を取り戻す世界の中で、アッパーで打ち上げられた男が床に叩きつけられた――と同時に、その姿が露わになる。

 中肉中背――無精ひげが生えていることを除けばどこにでもいそうな、至って普通の男だった。


「し、死んだ……?」

「殺すか。気絶してるだけろ」


 青い顔をした桜庭に言い返す。

 青い顔をしているのは、契約対価の貧血が原因だろう。足取りもどこかおぼつかない。


「これ……私たち、どうすればいいの?」

「ひとまず、彩華さんにSOSを出すしかないな」


 スマホを取り出し、メッセージを打ち込む。端的に現状を説明したつもりだが、上手く伝わっただろうか。伝えるべき現状がカオスすぎて、伝わらない可能性もありそうだ。

 しかし、そんな心配は完全にただの杞憂だったようで、彩華さんからの返信は、十秒もしないうちに返って来た。


「ん……こいつを回収しに来てくれるらしいから、俺たちはここで待機……いや、掃除か」


 リビングは桜庭の能力によってそこかしこ血塗れだ。処刑部屋より凄惨な見た目になっている。このままにしておくことはできない。


 面倒だな――と思った瞬間、桜庭は先手を打つように小芝居を始めた。


「――あ、あー……私、契約対価の貧血で、モウウゴケナイカモー」


 こいつ……。

 ああ、いいさ。そっちがその気なら、こっちにだって考えがある。


「……俺も、首絞められたし殴られたし、おまけに契約対価の動悸で掃除なんてできるコンディションじゃナイナー」


 俺と桜庭によるリビングルーム清掃の押し付け合い合戦は、VS透明人間戦より白熱した。



 結局、紺藤先生宅のリビングの掃除は桜庭と協力して行い、透明人間を車で駆け付けた彩華さんに引き渡した後、俺は学校に戻って来た。

 時刻は深夜十二時半。

 いったん家に帰って着替え、血塗れの制服をコインランドリーにぶち込んで来たので、こんな時間になってしまった。


 学校をぐるりと囲む鉄柵を飛び越え、敷地内に侵入した俺が真っ先に目指すのは、本校舎の北側に聳え立つ文化棟――その四階の空き教室。

 鍵の壊れた教室のドアをゆっくりとスライドすると、月光の差し込む窓辺に、ひとりの女性の姿を見つけることができた。


「あら」


 女性は――紺藤先生は、月を背景に妖しく微笑む。


「ダメじゃない。全部解決するまで、この教室は使っちゃダメって言ったでしょ?」

「……教師なら、まず、生徒が深夜に学校に忍び込んでることを叱るべきですね――それに、もう全部解決しましたから」


 俺の言葉に紺藤先生は目を丸めた。さすがに驚いたらしい。


「もう? まだ一日しか経ってないと思うけど……」

「ま、いろんなラッキーに助けられたんですよ」


 実際、様々な幸運と――それと相棒に、多分に助けられてしまった。


「一応、俺の認識に齟齬がないか確認したいので、先生の口から今回の件の真相を語ってくれますか?」

「そうね。そうすべきね」


 諦めたように微笑んだ紺藤先生は、傍らの椅子に掛けてあった淡い青のカーディガンを羽織ると、今回の真相を訥々と語り始めた。


「――気付いたのは一年くらい前。誰かにけられてるような気がしたり、ポストに変な手紙が入ってたりして……ストーカーだって、すぐに気づいた」

「警察には……」

「もちろん相談した。でも、犯人は見つからなかった。お巡りさんが家の近くを巡回してくれるようになったけど、怪しい奴は見つからなかったみたい」

「……そうでしょうね」


 紺藤先生は鷹揚に頷く。


「ストーカーが目には見えないんだって気付いたのは、二か月くらい前。あっちも、半年以上続けてるもんだから油断したんでしょうね――街灯に照らされて影ができてた。実体はないのに」

「………」

「まったく……目には見えないのに影はできるって意味わからないよね。物理教師である私に喧嘩を売ってるのかって思ったわよ」


 紺藤先生は強がるように笑う。

 実際は、怖かったろう。どれほど怖かったか、俺ごときには想像もつかないほどに。


「失礼ですけど、先生の家に勝手に入らせてもらいました。あの異常に片付いた空間は……」

「鍵を何度変えても、家に入られちゃって……たぶん、私から鍵をスって合鍵を作ってたんでしょうね――だから、もう、寝室以外は入られてもいいようにしたの」

「………」

「にっちもさっちもいかなくて困ってるとき、君たちの噂を聞いた。気付いてないでしょうけど、一か月くらい、君たちのことを監視してたのよ?」

「それは……気付きませんでした」


 だから、俺たちがこの空き教室を無断利用していることに気付いたのだろう。もちろん、そんなのは副次的なもので、本当に知りたかったことは、俺たちが本当に悪魔に――或いは、目には見えないナニカに対抗できるかどうか、下調べしていたわけだ。


「まさか、こんなにすぐ解決しちゃうとは思わなかったけど」


 紺藤先生はからっと笑う。

 それは安心したような笑みだった。


「――ひとつ、訊きたいことがあります」

「なあに?」

「なぜ、最初から素直に相談してくれなかったんですか? 最初から契約者……透明人間にストーキングされてるんですって言ってくれれば、先生がわざわざ姿をくらませる必要もなかったのに」


 俺がそう問うと、紺藤先生は人差し指を紅の褪せた唇に乗せて、


「それはナイショ」


 と、言ってはにかんだ。



「紺藤先生、長期休養だって――でも実際には、もう二度と学校には戻ってこないって、みんな噂してる」


 後日。

 放課後、文化棟の空き教室で読書をしていると、案の定なんの断りもなくやって来た桜庭が、そんなことを言ってきた。

 なんの断りもなくというか……まあ、この教室は正式に俺と桜庭が使っていいことになっているので、彼女がいることに文句を付けられはしないのだが。


 ――そう。

 この教室を利用する権利は、学校から正式に出してもらっていた。

 紺藤先生の長期休養に入る前の置き土産である。


「あのストーカー男はどうなったの?」

「知らん。彩華さんに全部任せたから」

「……まさか、なんのお咎めもなく放たれてたりしないよね?」

「さあな。俺はあいつが地下で強制労働させられてたって驚かないけど」


 彩華さんがどういう団体とどういう繋がりがあるのか――俺はそれを知らないし、知りたくもない。ただ、紺藤先生を一年も尾けまわしていたキモ野郎が、人道的な範疇でのギリギリの厳罰に処されていることを願うばかりである。


「――結局、なんで先生が俺らに最初からすべてを話してくれなかったのか、謎のままになっちまったな」

「そうかな?」


 桜庭は首を捻る。


「私はなんとなくわかるけど」


 俺は文庫本から顔を上げて桜庭を見た。


「わかるのか?」

「そんな難しいことでもないし――たぶん、信じられなかったんでしょ。私たちのことを」

「……まあ、言われてみれば、透明人間のストーカーに一年も悩まされてた人が、悪魔の専門家なんて名乗ってる奴らを素直に信用するわけないか」


「悪魔の専門家じゃなくてエクソシストね」とうるさい桜庭は、当然のようにスルーして、


「でも、おかしいだろ。俺はすべて解決した後に、この教室で紺藤先生と話したけど、その時も、先生は理由を教えてくれなかった」


 それはナイショ――そう言って、唇に指を当てた彼女の姿を、俺はなぜだか、よく覚えている。


「それも簡単なことだよ」


 開け放たれた窓から夏風が吹き込む。桜庭は舞い上がる髪を押さえつけた。


「言えなかったんでしょ――生徒を疑ってたなんて、そんなこと、言えなかった。教師としてのプライドがあるから」

「………」


 なるほど。

 もしそうなのだとしたら。桜庭が言ってることが正しいのだとしたら――


 紺藤先生。

 あなたは尊敬できる教師だ。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る