第4話 翠雨色の殺人
「――おお、残ってたか、エクソシストのお二人さん」
六月中旬のことである。
秘密の空き教室で一服(缶コーヒーを飲むだけ)してから帰ろうとする俺と、なぜかその俺に付きまとう桜庭が昇降口で靴を履き替えているとクラスメートの│
梶原は俺の前の席の男子だ。容姿にはこれと言って特徴のある男子ではないが、なにぶん気さくな性格をしているので人気者と称してよかろう。俺のような陰険なタイプにも気兼ねなく声をかけてきて、なおかつ、過度に構ってくることはない――所謂、距離感をちゃんと図るタイプのコミュ強だ。
なぜこんな微妙な時間に校舎にいるのか。
部活をやっているのだとしたら、彼は確か……美術部員だったはずだ。誰かとそんな会話をしているのを、後ろの席で盗み聞きした覚えがある。
俺たちを呼び止めた梶原は、両手を顔の前で合わせると、拝むようにして言った。
「悪りぃんだけど、ちょっと部室まで来てくれないか?」
その所作はコミカルで、顔には笑顔と申し訳なさそうな顔が混在した表情。断りやすく、かといって断る気にもならない頼み方。
如才ない――そんな印象を抱く。
それはともかく――俺は返事をする前に訂正した。
「いや、梶原……それは桜庭が勝手に言ってるだけで、俺らは別に、エクソシストでも何でもないから」
「でも、四方山って後輩の頼み事は解決したんだろ?」
なんでそれを知っているのか――俺は素早く桜庭を睨んだ。件の桜庭は素知らぬ顔であさっての方向を向いている。添えるように奏でられる調子っ外れの口笛が、俺の神経を逆なでする。
そんな俺たちの攻防に気づいていないのか、或いは気づいていて無視しているのか、梶原は、
「その実績を見込んで、事件の調査を頼みたいんだ」
「事件……っていうと――」
聞き返したのは桜庭だった。普通に高校生活を送っていたら聞くことのできない刺激的な単語に反応したのだろう。
わかりやすい奴だ。
わかりやすくて、面倒臭い奴だ。
「いったい、なにが起きたの?」
「刺されてる」
……は? 口を半開きにして固まる俺と桜庭の顔を見回して、梶原は淡々と付け加えた。
「ナイフで胸を一突きだ」
◆
美術部の部室とは、つまり美術室だ。
文化棟二階の一室で、通常の二倍の広さを持つ教室だ。教室の後方に椅子が何脚か常備されているだけで、あとは授業によってさまざまな教材を広げるために何も置いてない。
もちろん今は授業時間外――というか放課後なわけで、誰もいない。そのせいか、余計に教室は空虚に見えた。
「……誰かが刺されているようには見えないけど?」
一応そんなことを言ってみる。
もちろん、本当に誰かが刺されたわけじゃないことくらい俺もわかっている。本当に刺殺があったのなら、呼ぶべきは俺らじゃなくて警察だ。
「違う違う。現場は隣」
梶原も軽薄に答える。この態度が、事件性の低さを予感させるが、それならその方が嬉しい。何なら、実際に現場に行ったら刺殺体がありました――なんて展開になったら、俺は尻尾巻いて逃げるまである。
その梶原が止まったのは美術室の隣の教室で、プレートには「美術準備室」とある。
「美術部は普段、作品をこっちに置いてるんだ」
梶原は説明しながら、ノックもなしに引き戸を引いた。
美術準備室は美術室の半分以下の広さで、梶原の言う通り、様々な「作品」が置いてあって、少々手狭だ。壁に張ったロープには、絵の具を乾かすためか、何枚かの水彩画が吊るしてある。
そんな部屋の中には、三人の生徒がいた。女子が二人、男子が一人。
どの生徒も、胸を刺されているようには見えない。
「……あっ、梶原。もうっ、どこ行ってたの!」
梶原の顔を見るなり頬を膨らましたのは、リボンの色を見る限り三年生の女子生徒だ。先輩とは思えないほど小柄で、にもかかわらず活発な印象を受ける人だ。
「部長、専門家を連れてきました」
梶原は堂々と言い放って、てんで状況を理解できていない俺と桜庭を手で示した。
「専門家……?」
部長さんは困り顔で首を傾げる。そりゃそうすぎるな。
「おい
と、長身痩躯の男子が声を上げる。二年生であることは間違いないが、見覚えはない。たぶん、クラスメイトではないだろう。そしておそらく、武斗というのは梶原の下の名前だ。
「だから、これをやった悪魔を、こいつらにとっちめてもらおうってことだよ」
「こんな時にバカな冗談言うな。そんな場合じゃないだろ」
「まあまあ、
最後に口を開いたのは、教室の奥に座る三年生の女生徒だった。さっぱりとした黒髪のロング。胸元を彩るのは、リボンではなくネクタイ。何よりも目を引くのは、その圧倒的美貌。芸能人顔負けの美人っぷりだった。
「アキ先輩!」
隣にいた桜庭が歓声を上げた。
アキ先輩とやらは、そんな桜庭に小さく手を振り返す。どうやら知り合いのようだ。
「
「……小清水先輩がそう言うなら、俺から言うことは何もないです」
羽生と呼ばれていた男子は、頬を染めながらそっぽを向いた。
まあ、理解できる反応だ。それほど、三年の女生徒――小清水先輩は美人なのだから。
その小清水先輩はゆったりと頷くと、その桜色の唇を開いた。
「じゃあ、専門家さん……私を殺した犯人を見つけてくれるかしら?」
言いながら、小清水先輩は目の前のカンバスを俺たちに見えるように回転させた。
そのカンバスには穏やかな表情をした小清水先輩がバストアップで描かれていて、
――そして、その胸の真ん中から小ぶりなナイフが生えていた。
「……なるほど、確かにナイフで胸を一突きだ」
梶原の言葉は嘘でも誇張でも何でもなく、ただの端的な事実だった。
いや、よく見たら誇張表現だ――或いは過小表現かもしれない。
ナイフは見るからに『一突き』ではなく、何度も何度も刺されたようだった。まるでそこにあるべき心臓を抉り出そうとしたかのように小清水先輩(絵)の左胸が空洞になっていて、その穴の横に「これが凶器ですよ」と言わんばかりにナイフが刺さっている。
「……酷い」
桜庭が呟く。
そう呟いてしまうほど、無理からぬことだろう。それほど、その絵面は凄惨だった。
「コンクールに出す予定だったんだけど、これじゃあもう無理だね」
それはそこそこ大事なのではないかと思ったが、作者らしい部長の先輩は、困ったように笑うだけだった。
「新庄部長はコンクールの入賞常連で、この絵には特に力を入れてたんだ」
梶原が補足説明を入れてくれた。
「せっかく
「完成すればコンクール優勝だってあり得たのに、こんなふざけたことになって……」
羽生が悔しそうに歯噛みする。
確かに、もうここまで破壊されてしまったら、この絵の修復は現実的ではないだろう。胸の抉られた人物画など、猟奇的すぎてコンクールには出せない。
「あの……これ、普通に事件っぽいんですけど、先生方に相談した方がいいんじゃないですか?」
ナイフは言わずと知れた凶器だし、絵を壊すのは、たぶん器物なんちゃら罪だ。普通に刑事事件まであると思うのだが……。
新庄先輩も悩ましげに腕を組んで、しかし「うん」と一つ、頷いた。
「そこら辺にも事情があって、できるだけ大事にしたくないんだよね」
「事情?」
「密室なの」
答えたのは小清水先輩だった。
桜庭が首を捻る。
「密室?」
「そう――美術準備室の出入り口は二つ。廊下側と、美術室への直通扉。でも、ご覧の通り直通扉は資料やガラクタで塞がってるの」
「あれ、本当は片づけなきゃいけないんだけどね」
新庄部長が苦笑しながら相槌を入れた。
「窓は普通に開くけど、ここは二階だし、今日は一日雨だったから、間違いなく開けてない。鍵もかかってる」
小清水先輩が窓の外に目を向ける。
今日は一日雨天だ。
朝から降り続く雨は、一度も上がってない。
「つまり出入り口は一つ。廊下側の入り口なんだけど……」
「鍵は基本的に職員室にある。借りられるのは美術部員だけだ」
言葉を引き継いだのは羽生だった。
いかめしい顔を作って、梶原を睨んでいる。
――なるほど、大体事情は察した。
「――つまり、新庄先輩の絵にナイフを刺せたのは、美術部員だけだと?」
「それ以外考えようはない」
そうでもないと思うが、まあ、順当に考えて、美術部員が一番怪しいのは仕方のないことだ。
そして、自分が犯人でないとわかっている羽生にとって一番怪しいのは、それはまあ、梶原になってしまうということだろう。新庄先輩が自分の絵を自分で刺すわけないし、小清水先輩が自分の描かれている絵にナイフを刺す意味もわからない。
「美術部員はここにいる四人だけですか?」
「美術部員は四人だけど、亜紀ちゃんは美術部員じゃないよ。私がモデルをお願いしてるからここにいるだけ」
「あ、そうなんですか」
つまり、小清水先輩は美術準備質の鍵を借りれない――ということか。
と、思っていたら。
それについては、思わぬところから否定が入った。
他ならぬ、小清水先輩自身からである。
「せっかく犯人候補から外してもらったところ申し訳ないのだけれど、私もこの教室の鍵、借りようと思えばいくらでも借りれたよ」
「それは……どうして?」
「先生に頼めばいくらでも借りれるから」
どういうことだ――と思っていると、桜庭が横から「アキ先輩は優等生だから」と耳打ちしてくる。擽ったい。
「でも、小清水先輩が自分の描かれている絵を自分で刺すはずがないだろ」
羽生が憮然と言う――その通りだ。
「まあ、小清水先輩についてはいったん置いとくとして――では、四人目の美術部員は? もう一人いるんですよね?」
「うん、三年生の男子……荒木くんって言うんだけど。今日は不参加かな?」
「あの人はいつも不参加じゃないですか」
羽生が嫌悪感を滲ませて毒吐く。
「というと?」
「不良なんだよ、あの先輩は」
「絵は上手いんだけどな。あまり真面目に部活に参加する人じゃないから……」
梶原が慌てたようにフォローの言葉を発する。
すると、羽生は眼光を鋭くして、ことさら梶原のことを睨んだ。
「絵が上手くてもあんな態度じゃダメだろ。梶原、お前があの人に懐いてるのは知ってるが、あまり肩を入れて庇うなよ。お前まで怪しくなるぞ」
「……まだ、荒木先輩がやったとは限らないだろ」
「どうだかな。俺は、どうせあの人がやったに違いないと思ってるが」
なるほどな……。
つまり、羽生は荒木先輩を疑っていて、梶原は庇っている。
今は、そういう構図なわけだ。
――しかし。
「で? なんで俺たちは呼ばれたんだ?」
梶原が俺らを呼んだ意味がわからない。
俺が疑問の目を向けると、梶原は勢いよく目を泳がせ始めた。
「いや、その……ほら、間に誰かいた方がいいと思って……たまたまいたから……」
「………」
つまり。
梶原が俺らを頼ったのは、誰かに間に入ってほしかったからで、俺らが選ばれたのは、たまたま文化棟いたから――ということなのだろう。
俺が溜息を吐いていると、羽生は明らかにイライラした様子で、今度は俺のことを睨んでくる。
「そもそも、梶原が呼んだこいつらだって怪しいだろ」
「どうしてそう思うのかな?」
桜庭が応戦する。
二人ともなぜか喧嘩腰だ。
仲良くしようぜ。
「このナイフが刺された絵を最初に発見したのが梶原だ。荒木先輩がナイフを刺して、梶原がそれを発見、証拠かなんかを隠滅、お前ら二人を呼んで、口裏合わせて有耶無耶にしようとしてるんじゃないのか?」
「言いがかりが過ぎるよ! そんなの、なんの証拠もないただの憶測じゃん」
「じゃあ、職員室に行ってこの教室の鍵の貸し出し履歴でも調べてみるか? 荒木先輩が借りてればあの人が犯人だし、借りてなかったら、第一発見者の梶原が犯人だ」
「それ以外にも可能性はある!」
「はあ? どんな可能性だよ」
「それは、悪魔が……」
何か言いかけた桜庭の口を、俺は慌てて塞いだ。
この場で「悪魔が犯人だ」なんて口にしたら、事態が混沌を極めるのは火を見るより明らかだ。事後共犯と見られるくらいなら別にいいが、頭のおかしな奴、なんてレッテルを張られたくはない。
俺は一人が好きだが、決して他人を一切気にしないわけじゃない。誰からも白い目で見られながら生きていくのは苦痛だ。
俺の手の下でもごもご口を動かし、じたばた暴れる桜庭を引きずるようにして、俺は教室の外を目指す。
「なんかこのままだと犯人扱いされそうなんで、俺たちは帰ります。このことは誰にも言わないんで、あとは内々でやっといてください」
そう言い残して、俺は逃げるように美術準備室を後にした。
◆
「ちょっと待ってくれ!」
美術準備室からちょっと行って。
口を塞ぎっぱにしていた桜庭を解放していると、後ろから梶原が追いかけてきた。
「悪かった。羽生も悪い奴じゃないんだけど、荒木先輩とはどうしても折り合いが悪くって」
「う、ううん! 全然気にしてないよ!」
桜庭が慌てた様子で否定する。
その顔は仄かに赤い。
酸欠だろうか? 鼻は塞いでないはずだが……。
「その荒木先輩とやらを下手に庇うから、お前まで目の敵にされてるんじゃないのか?」
「それはわかってるんだけどな……」
梶原は微妙に口籠ってから、
「でも、尊敬してるんだよ、俺、本当に」
と、気恥ずかしそうに言った。
「確かに荒木先輩は生活態度あんまよくないけど、絵の腕は確かなんだ。真面目に描いてコンクールに出せば、入賞だって狙える。俺が入部したての頃は、荒木先輩と新庄部長はライバルって感じで、切磋琢磨してたんだ――マジでカッコよかった」
「そっか……憧れてるんだね」
「……ああ――でも荒木先輩、なんか不良に目覚めて、新庄部長とも競い合わなくなっちまって……羽生もな、一年の頃は荒木先輩に懐いてたんだぜ。でも、荒木先輩が描かなくなってから、毛嫌いするようになっちまった」
それは……。
それはもしかしたら、因果が全くの逆かもしれない。
荒木先輩は不良になったから描かなくなったのではなく、描かなくなったから不良になったのかも――つまり、ライバルだった新庄先輩に勝てないから、描くのをやめてしまったのかもしれない。
もちろん、そんな根も葉もない憶測を、荒木先輩に憧れていると公言する梶原の前で口にしたりはしないが。
代わりに、
「――あのナイフ、珍しい形してたけど、なんのナイフかわかるか?」
そんなことを口にしてみる。
どう見ても人間の犯行なので興味はないが、関心があるフリだけはした方がよかろうと思って。
「あれはペインティングナイフだな。美術部の備品」
「それは普段、どこに収納されてるんだ?」
「教室の隅に棚があったろ? あれの上から三段目の棚に入ってる」
「なるほど……」
俺はさらに興味を失って、溜息を吐いた。
まったく時間を無駄にした。
帰りがけに空き教室になんてよらなければ、梶原に捕まることもなかっただろうか……。
遠い目をしていると、首を捻った桜庭が口を開く。
「音穏くん。今ので何かわかったの?」
「……桜庭、美術準備室に棚があったのは覚えてるか?」
「え? ……あっ……たような気がするけど」
「じゃあ、その棚の三段目にペインティングナイフなるものが入ってることは知ってたか?」
「もちろん、知らなかったけど……」
「だろうな。つまりそういうことだ」
「……あっ」
梶原は、いかにも何かに気づいたような反応をした。
対して、桜庭は依然、首を捻ったまま――鈍い奴だ。
「だから、使われたのが美術部の備品のナイフなら、部外の奴はその存在を知らないだろ。知らなければ、記憶にも留まらないような目立たない棚から、凶器を探そうなんて思わない」
「……つまり、やっぱり犯人は美術部員」
「そういうこと」
新庄先輩と荒木先輩、羽生、梶原――小清水先輩がペインティングナイフの在処を知っていたかどうかはわからないが、多くても容疑者はその五人。
いずれにしたって悪魔は関係なさそうだ。
梶原には悪いが、これ以上この件に関わるつもりはない。
その旨を梶原に伝えようとした、その瞬間――
「梶原じゃねぇか。こんなところで何やってんだ?」
そう言って現れたのは、大柄な男子生徒だった。
カッターシャツに黒いズボン。ネクタイは着けておらず、髪は金髪のオールバック。これでもかと言わんばかりに不良っぽい見た目をした男子生徒に対し、梶原は、
「荒木先輩」
と、答えた。
どうやら、この人が荒木先輩らしい。
それにしてもこの人……。
「荒木先輩、どこ行ってたんすか?」
「……別に、ちょっとその辺散歩してただけだ」
雨の中散歩してたのか――なんてツッコミはあえてしない。
それはいかつい見た目の荒木先輩にビビったからではなく、もっと単純に、この人が本当は何をしていたのか、見当が付いたからだ。
桜庭が近づいてきて「ねえ」と耳打ちしてくる。
俺は黙って頷いた。
俺と桜庭は悪魔と契約しているので、身体能力が向上している。それは運動能力に限らず、五感もまたしかりだ。つまり目がいいし、耳がいいし――鼻もいい。
荒木先輩は、煙草の匂いを漂わせていた。
「で? 梶原はなんでこんなところにいるんだよ? つか、その二人は誰だ?」
荒木先輩が俺と桜庭をじろりと睨む。
桜庭に目を向けたとき、その目がちょっと色を含んでいたことを、俺は見逃さなかった。そういえば、桜庭はスタイル抜群の美少女なのだった。
溜息を吐きたい気分だったが、目の前に不良に絡まれるのも面倒なので、俺はそっと目を逸らす。あわよくば桜庭をサクリファイスして、俺だけでもこの場から立ち去れないかな――なんて考えていた時のことだった。
「……っ!」
窓の外。
しとど降りしきる雨の中、傘もささずに横切っていく影。雨霧に遮られてよく見えなかったが、そのシルエットは、どう見ても生物の常識を逸脱していた。
「悪い! 急用ができた!」
「え、ちょ、ちょっと――二ノ宮! 急にどうしたんだよ!」
梶原の困惑の声を背中で聴きながら、俺は駆け出した。折り返し階段はジャンプで一息に飛び降り、踊り場で壁を蹴って反転、もう一度階段を飛び降りると一階に到着する。
雨が降る中外に飛び出すと、影は校舎を曲がって体育館の方に逃げていくところだった。
「ちっ……」
今ちらっと後姿が見えたが、間違いなく悪魔だ。
悪魔は見るだけで気持ち悪くなるようなおぞましい見た目をしているから、ちらっと見えただけでも悪魔だとわかる。
その背中を追うようにして俺も走り出す。
ここは校舎の前、誰に見られているかわからないので、一般的な十代男子の速度でしか走れない。追いかけて体育館の方に走っていくと、中からバスケットボールの音が響いていた。悪魔の姿はない。
「裏手か……?」
悪魔は人間に危害を加える。
万が一にも逃すわけにはいかない。
逸る気持ちのまま体育館裏に飛び出した俺を迎えたのは、バスケットボール大の炎の塊だった。
「……っっっ‼⁉⁇」
声も出ない。
ほとんど反射的に上体を逸らすと、顔面の目の前を炎の塊が通り過ぎて行った。
「あぶな……」
待ち伏せとは小癪な。
前髪が少し焦げたが、まあ、それくらいなら許容範囲だ。
炎が飛んできた方に目を向けると、そこにはやはりというか、悪魔の姿が。
全体的な形は人間のそれだが、背中から大きな翼が生えている。黒い爪は長く伸び、頭には赤い角――成体の悪魔だ。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■‼‼‼」
悪魔が吠える。
その掌でばちっと火花が散った。
だが、遅い――俺はすでに、ヘッドホンを装着し終えていた。
「
雨が
正確には、空から降り注ぐ雨粒が目で追える程度の速度まで減速した。
駆ける。
悪魔に駆け寄った俺は、まず、悪魔を組み伏せた。俺の音速の契約能力は一呼吸の間しか使えないので、何度も何度も殴って倒す――みたいなことはできない。だから、確実に殺せる方法で攻撃する必要があるのだ。
だから、首根っこを掴み足払いをかけて地面に転ばせると、その首を思いっきり踏みつけた。
仮面ライダーが必殺技にライダーキックを持つように、俺は悪魔を必ず殺す技として、悪魔の首を踏みつけるのだ。踏みつけて、踏み砕くのだ。
しかも成体の悪魔ともなると、とても一撃では仕留められないから、何度も何度も。
ゲシッ、ゲシッ――と体重を乗せた踏みつけを、何度も何度も。
絵面的には、とてもちびっこに見せられない、執拗な必殺キック。
やがて首の骨を砕き、筋肉を断絶させ終えると、俺はとうとう息が続かなくなって能力を解除した。速度を取り戻す世界で、俺は跳ねまわる心臓を抑えながら、野良犬のように荒い息を吐く。悪魔は塵のように消えていった。
◆
天気は相変わらずの愚図りようで、ちっとも晴れの兆しを見せない。
既にびしょ濡れだが、雨に打たれるのは癪なのでビニール傘を差しながら歩いていると、
「お~い、音穏く~ん!」
後方から名前を呼ばれて振り向けば、駆け寄ってくる少女の姿が。
誰であろう。
桜庭紅巴さんである。
「なに私のことすっかり忘れて帰ろうとしてるのかな? お?」
と、にっこり笑顔を見せてくれる。
……圧がすごい。
「誤解があるようだが、俺はお前のこと、忘れてなんてなかったからな。覚えていたうえで、どうでもよかったから一人で帰ろうと思っただけだ」
「余計悪いわ!」
両手を挙げて威嚇する桜庭。そんなことしても迫力が増すはずもなく、ただただかわいいだけという……。
「罰として、私を駅まで傘に入れること!」
怒っているのか、怒っている演技なのか。
どっちにしても、「無理、これ俺んだから」とは言えないので、桜庭の入るスペース分の傘をずらす。
「どうぞ」
「ありがとう!」
と、晴れやかな笑顔。どうやら怒っている演技だったらしい。
桜庭は律義に「お邪魔します」と会釈してから傘へと入ってくる。邪魔するなら出てってくれ。
「ゴメンね、それじゃあ行こうか」
「……ん」
いつの間にか一緒に帰ることが確定事項になっている。恐るべきコミュ力。
俺が一歩踏み出せば、桜庭も一歩踏み出す。並び歩く桜庭はさすがの一言で、俺と肩が触れ合おうとお構いなし。俺だって男子高校生だ。桜庭のような美少女と相合傘となれば、意識してしまうのも仕方ない。
正門を出たタイミングで桜庭が口を開く。
「美術部の問題は、いったん持ち帰りってことになったよ」
「……ん?」
「アキ先輩の肖像画の胸が刺されてた事件」
「ああ」
アキ先輩というのは、小清水先輩のことか――普通、描いた新庄先輩の名を挙げるべきだと思うが……そういえば、桜庭と小清水先輩には面識があったか。
まあ、それは今はどうでもいいか。
「――よくそんな曖昧な決着に落ちつけたな。羽生とか、絶対納得しないだろ」
「まったくだよ。説得には苦労した」
「あ、お前が説得したんだ」
「うん、凄いでしょ?」
実際凄いし、俺には絶対できないのだが、素直に褒めるのはなんか癪だったので、
「――ま、犯人は梶原だろうけどな」
と、話を逸らした。
反応は顕著で、桜庭は「えっ⁉」と声を上げると、こちらに目を向けてくる。
「な、なんで武斗くんが犯人だってわかるの?」
「そりゃ、第一発見者だからだろ。普通に考えるなら、あいつが犯人であると考えるのが一番自然だ」
「で、でも……そうだ、動機! 動機がないよ!」
「動機云々で言うなら、たぶん、衝動的な犯行って奴だろうな」
俺はビニール越しの胡乱な空を見上げて呟く。
この話のミソはここからだ。
「今日、部室に一番乗りで来た梶原は、たぶん見つけちまったんだろ」
「……なにを?」
「――新庄先輩の焦げた絵を」
「焦げた?」
出し抜けに言った言葉に、桜庭が訝しげな声を上げた。説明が一段飛ばしになってしまったかもしれない。説明は苦手だ。
「さっき殺した悪魔だけど、炎を使う悪魔だった。たぶん、あいつが新庄先輩の絵を焼いたんだろうな」
そこにどんな意図があったのかは杳として知れない。
もしかしたら、小清水先輩の描かれた絵が、悪魔をもってしても本物の人間だと見紛うほどよくできていた、ということかもしれない――だとしたら、絵描き冥利に尽きるというものではないだろうか。
「でも、それなら、なんで武斗くんはアキ先輩の絵をナイフで刺したりなんてしたの?」
「焦げ跡を消すためだろ――正確には、焦げた部分を抉り取るため、か……」
「なんで武斗くんがそんなことを……」
「部室に入って、絵が焦げてるのを発見した梶原が最初になにを思ったのか――そりゃ、『誰がやったのか?』だ。まさか悪魔がやったなんて思いはしない。普通に考えるなら、まず、鍵のかかった部室に入れる人間が容疑者に上がる」
「部室に入れるのは、美術部員だけ……」
「そうだ。そして、その中で、絵を燃やせる道具を持ってる奴が一人いる」
「……あっ」
さすがに桜庭も気づいたようだ。
「荒木先輩、煙草の匂いがした……」
「そう。煙草の匂いがしたってことは、煙草を吸ってたってことだ。つまり、ライターを持ってるってこと――梶原はたぶん、そのことを知ってたんだろうな。梶原はすぐに荒木先輩を疑った」
「………」
「動機なんかも、いくらでも想像が付いたんだろ。新庄先輩と荒木先輩は元ライバルなわけだしな。梶原は荒木先輩がライターを使って絵を焼いたんだと信じて疑わなかった。テンパっただろうな。でも、もたもたしてると続々と美術部員たちが来てしまう。焦った梶原は棚からペインティングナイフを取り出して、カンバスから焦げた部分を抉り取った」
「尊敬する荒木先輩を庇うために……」
「冷静に考える時間があったら、そんなことはしなかっただろうけどな」
梶原のやったことは、どの側面から見ても事態の複雑化だ。
しかし、人間はいつも合理的に行動できるわけではない。
「ああ、梶原が俺たちを美術準備室に招いたのも、俺たちに『悪魔云々』って騒いでほしかったんだろうな。推理を妨害して、遅延を図りたかったわけだ」
俺がそう締めくくると、
「そっか……そうだったんだ」
桜庭が納得したように頷いた。
ただ、これはあくまで俺の勝手な推理だ。
絵が焦げていたのかどうか俺は確かめてないし、焦げていたとして、それがあの悪魔の仕業だという証拠もない。もしかしたら、本当に荒木先輩がライターで焦がしたのかもしれない。
真相はすべて闇の中だ。
明かそうと思えばいくらでも明かせる闇だが、俺はわざわざそんなことはしない。悪魔がいて、それを退治したら俺の役目は終わり。
「あとのことは、桜庭が上手いことやっといてくれ。俺にはどうにもできそうにない」
「うん! 任せてよ!」
そんな話をしていると、いつの間にか駅前だった。ロータリーに入り、傘を閉じる。
「ありがとうね、音穏くん」
「傘持ってけ。俺、駅から家近いから」
傘の持ち手を差し出せば、なにが予想外だったのか、桜庭は一瞬キョトンとする。しかし、すぐにいつもの朗らかな笑みを浮かべると、
「音穏くんって、たまにキュンってさせてくるよね」
「えっ……」
「なんで嫌そうな顔をするのかな⁉」
眦を上げて怒る桜庭だったが、乗るであろう電車のアナウンスを聞くと「あ、電車来ちゃった……」と、さも惜しそうに呟く。
早く受け取れと傘を揺らしてアピールするが、
「また明日ね!」
傘を受け取る気はないとばかりに、桜庭はホームへと続くエスカレーターへと小走り。かと思ったら、エスカレーター手前で一瞬立ち止まった。振り向くこともないまま鞄から何かを取り出し、ちらっとこちらに見せてくる。
折り畳み傘だった。
「あいつ……」
傘がないと言ったのは嘘だったのか――いや、よく思い出してみれば、桜庭は傘がないなんて一言も言ってなかった。
なるほど。
どうやら一本取られてしまったらしい。
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