第15話 記憶を失う老医師

 ある日、マナミのもとに恩田博士から連絡が届く。

 「マナミ、かつて名医と呼ばれた人物を訪ねてほしい。彼は今、アルツハイマー病を患いながらも、何かを伝えたがっているようだ。」


 その名医とは早瀬恒夫(はやせ つねお)。地域医療を支え続けた人物で、彼の診療所は「奇跡のクリニック」として知られていた。しかし、引退後にアルツハイマー病を発症し、現在は高齢者施設で過ごしている。


 マナミが施設を訪ねると、そこにはやせた身体に穏やかな笑みを浮かべた早瀬がいた。しかし、その目にはどこか虚ろな色が漂っていた。




 早瀬との会話はスムーズにはいかなかった。自己紹介を繰り返しても、すぐに忘れられてしまう。早瀬は昔話を楽しそうに語るが、内容には矛盾があり、記憶が飛び飛びになっている。それでも彼はこう繰り返した。

 「私が残せるものがあるなら……それをちゃんと伝えたい。」


 マナミはそっと彼の手に触れ、病気の声に耳を傾けた。

 目を閉じると、早瀬の心にある言葉が流れ込んできた。


 「記憶ではなく、心を遺そう。」


 病気の声は、彼が遺そうとしているものが単なる医療技術や記憶ではなく、患者に向けていた真心そのものであることを示していた。




 マナミは病気の声を早瀬に伝えることを決意した。

 「先生、あなたの記憶が少しずつ消えつつあるのは悲しいことです。でも、病気が教えてくれたのは、記憶以上に大切なもの――あなたの心や思いが、患者たちに深く刻まれているということです。」


 この言葉に、早瀬は涙を浮かべた。

 「私の心が……か。」


 マナミは早瀬と共に彼の思い出や知識を記録する作業を始めた。特に彼が患者に接する際の態度や哲学を形にするため、彼の弟子たちを招き、継承のためのチームを作り上げることを提案した。




 マナミは早瀬の弟子たちや患者だった人々に呼びかけ、彼の過去の診療記録やエピソードを収集した。それらを基に、彼の医療哲学をまとめるプロジェクトが始まる。


 また、早瀬自身がまだ話せるうちに、マナミは彼から直接語られるエピソードを記録し、それを動画として残すアイデアを提案した。


 早瀬は最初は恥ずかしがっていたが、患者たちとの思い出を語るうちに、次第に表情が生き生きとしてきた。

 「これは、ただ私が思い出すだけの作業じゃない。私自身を未来に繋げる作業なんだな。」




 プロジェクトが進む中で、早瀬は自分の体力の限界を感じていた。それでも彼は、最後の力を振り絞り、こう語った。

 「私の記憶は消えるだろう。でも、私が患者たちと築いた絆、それを伝えるお前たちの力こそが、次の奇跡を生むんだ。」


 その言葉を聞き、マナミは強く頷いた。

 「先生の心を私たちが未来に伝えます。だから安心してください。」


 数か月後、早瀬は安らかに息を引き取った。だが、彼の思いや哲学は「早瀬クリニックの理念」として地域の医療者たちに引き継がれ、未来の患者たちを支え続けた。

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