第14話 不眠症のビジネスマン

 大手商社に勤めるビジネスマン・高田裕一(たかだ ゆういち)は、周囲から「仕事の鬼」と評されていた。朝から夜遅くまで仕事に没頭し、週末も休むことなくプロジェクトをこなす毎日。しかしその陰で、彼は数か月前から深刻な不眠症に悩まされていた。


 「今夜こそ眠れるかも」と思いながら布団に入っても、頭の中では会議の内容や未完了のタスクが渦巻き、いつしか外が明るくなるまで眠れない。


 「まだ若いのにこんな調子じゃ体を壊すぞ」と同僚に心配されたが、裕一は「俺には休む暇なんてない」と笑い飛ばしていた。


 しかし、疲労が蓄積し、集中力の低下やミスが増えてきたことで、彼は初めて自分の状況を危険だと感じ始める。そんなとき、後輩の勧めで訪れたのが、マナミの診療所だった。




 診察室に入ると、マナミは優しい笑顔で裕一を迎えた。

 「高田さん、最近の生活や仕事について教えていただけますか?」


 裕一は、自分の忙しさを語りながら、「不眠は仕事が忙しいせいだから、少し寝る方法を教えてほしい」と簡潔に要望を述べた。しかしマナミは、裕一の右手を優しく握り、「あなたの体と心が本当は何を求めているのか、一緒に探してみましょう」と語りかけた。




 マナミが裕一の「不眠」の声に耳を傾けると、深い悲しみと共に、こんなメッセージが聞こえてきた。


 「自分の時間を守ろう。もう、他人の期待ばかり追いかけるのはやめて。」


 その声は、仕事や責任に押しつぶされそうになっている裕一自身の心そのものだった。




 「高田さんの不眠は、あなたに『休む時間』を取り戻してほしいと訴えています。ご自身を振り返る時間を、少しでも作れていますか?」


 裕一は困惑した表情を浮かべた。

 「……正直、自分のための時間なんて考えたこともありません。でも、それがどうして眠れなくなる原因なんでしょう?」


 マナミは穏やかに答えた。

 「高田さんの心は、ずっと走り続けて疲れ果てています。それなのに、休むことを許されないと感じているのかもしれません。」




 裕一が初めて「休む」ことについて深く考え始めたのは、マナミとのセッション中に自分の過去を振り返る時間ができたときだった。彼は学生時代のある記憶を思い出した。


 中学時代、彼は優等生であり続けることを求められていた。両親は高い期待を寄せ、テストの点数が少しでも悪いと厳しく叱られた。「もっと頑張ればできるはず」と言われ続けたことで、裕一は「休む」ことは「怠け」と同義だと考えるようになった。


 その思いは社会人になった今でも彼を縛り続けていた。




 マナミは裕一に、まず小さな一歩として「仕事の中で楽しさを感じられる瞬間を探す」よう勧めた。そして、毎日10分でも好きなことをする時間を作ることを提案した。


 「最初は難しいかもしれません。でも、少しずつ『自分の時間』を守ることに慣れていきましょう。」


 裕一は最初こそ戸惑ったものの、以前好きだった小説を再び読み始めたり、週末に短い散歩をするようになった。そして、それが不思議と心の安定につながり、少しずつ眠れるようになっていった。




 ある日、裕一はマナミの診療所に再び訪れ、こう語った。


 「先生、実は昨日、久しぶりに一晩ぐっすり眠ることができました。仕事も減らしたわけじゃないけれど、自分を責める気持ちが少し和らいだ気がします。」


 マナミは微笑みながら言った。

 「それは大きな一歩ですね。不眠は、高田さん自身の心と向き合うきっかけを与えてくれたんです。」


 裕一は驚いた表情を見せながらも納得したようだった。そして、自分の時間を守ることの大切さを改めて実感したのだった。




 裕一の不眠症は完全に治ったわけではなかったが、病気からのメッセージを受け取ることで、彼は自分を取り戻し始めた。


 彼は同僚にこう語った。

「 仕事の鬼なんて呼ばれるのは、もういいよ。俺にとって大事なのは、これからも自分らしく生きることだ。」


 マナミもまた、診察室の窓から外を見つめながら思った。

「病気の声を聞くことで、人は自分を取り戻す道を歩むことができる。」

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