第13話 若きピアニストの手

 18歳のピアニスト・由梨(ゆり)は、国際コンクールを目前に控えた特待生だった。しかし、数日前から右手の親指と中指が痺れ、力が入らない。「練習のしすぎ」と母親や指導者は軽く考えたが、由梨にとってはただの身体の不調では済まなかった。


 鍵盤に触れるたびに感じる不安と、頭をよぎるのは「弾けなくなったらどうしよう」という恐怖。音楽は彼女の全てであり、失うことは存在意義を否定されるようなものだった。


 「もうこれ以上、練習しても無理……」

 ついに、泣きながら母親に訴えた由梨は、マナミの診療所を訪れることになった。




 診療所の診察室で、由梨の右手をそっと握るマナミ。目を閉じ、由梨の「病気」の声に耳を澄ませると、柔らかくもどこか苦しげな声が聞こえてきた。


 「自由に奏でて。あなたの音楽は、あなたのためにあるべきなのに……。」


 マナミはその言葉を受け止め、由梨に問いかけた。「由梨さん、あなたはどうしてピアノを始めたのですか?」


 由梨は一瞬戸惑ったが、幼少期の記憶を語り始めた。幼い頃はただ楽しくて弾いていたピアノ。しかし、母親や指導者の期待が重なり、「勝たなければ意味がない」と思うようになった。そしてそのプレッシャーが、彼女を縛り付けていた。




 マナミは由梨に、「病気があなたに伝えたいこと」を説明した。


 「由梨さんの手が動かなくなったのは、無理に弾き続けることで音楽の本質を見失っていることに気づいてほしいからかもしれません。」


 由梨の目には涙が溢れた。病気が彼女に届けた「自由に奏でる」というメッセージを聞き、自分の中にあった恐怖や不安、そして音楽への愛を再び見つめ直すきっかけになった。




 さらに話を深めるうちに、由梨は幼い頃のある出来事を思い出した。初めての大きなコンクールで演奏中にミスをしたとき、母親から叱られた記憶だった。


 「どうして失敗したの?もっと練習しておけば、こんなことにはならなかったのに……。」


 その言葉が、由梨をずっと縛り続けていた。ピアノは母を喜ばせるための道具になり、由梨自身が本当に弾きたい音楽を見失わせたのだった。




 「由梨さん、音楽は勝ち負けだけのものではありません。まずは、自分が心から楽しめる曲を弾いてみてください。」


 マナミは小さな宿題を提案した。それは評価を気にせず、ただ好きな曲を自由に奏でる時間を作ること。最初は戸惑った由梨だったが、自宅で試しに童謡を弾いてみると、自然と笑顔がこぼれた。


 母親もその姿を見て、「こんなに楽しそうに弾くあなたを見るのは久しぶりね」と涙ぐんだ。




 コンクール当日。由梨は舞台袖で緊張していたが、ふとマナミの言葉を思い出した。


 「由梨さん、あなたの音楽を、まずは自分自身のために奏でてみてください。」


 由梨は深呼吸をしてピアノの前に座り、鍵盤に指を置いた。評価を気にせず、自分の心をそのまま音に乗せるように演奏を始めた彼女の音楽には、これまでになかった解放感があった。


 結果は準優勝だったが、それ以上に観客の拍手と温かい感想が由梨の心に響いた。




 診療所を再び訪れた由梨は、マナミに感謝を伝えた。


 「マナミ先生、病気が私に本当に必要なことを教えてくれました。これからは、自分の音楽を奏でていきたいと思います。」


 マナミは微笑みながら言った。「由梨さん、病気の声に耳を傾けたからこそ、あなたの心が自由になったんですね。」


 その日、診療所の窓から外を眺めたマナミは、静かに思った。


 「病気の声を聞くことは、自分自身を取り戻すことにつながる。」


 由梨の病気が教えてくれたメッセージは、マナミ自身にとってもまた新たな気づきを与えてくれるものだった。

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