第10話 治癒を拒む傷

 「先生、この傷、いつになったら治るんでしょうか……。」


 診察室に入ってきたのは、40代半ばの男性、吉村健太(よしむら けんた)だった。彼の右腕には、手術後の傷が赤く腫れ、まだ完全に塞がっていなかった。


 「健太さん、術後の経過としては少し時間がかかっていますね。何か特別なストレスや心配事はありませんか?」


 健太は目をそらしながら答えた。


 「特に思い当たることはないんですが……。ただ、仕事が忙しくて休めなくて……。」


 その言葉に、マナミは彼の背後に隠された感情の重みを感じた。




 マナミは健太の了承を得て、彼の傷に手を当て、病気の声を聴くことにした。目を閉じると、傷から低く震える声が響いてきた。


 「動けない。踏み出せない。痛みが消えない。逃げられない……。」


 その声には、深い不安と恐れが込められていた。マナミは慎重に目を開け、健太に問いかけた。


 「健太さん、この声が伝えているのは、『何かを怖がっている』ということです。思い当たることはありますか?」


 健太はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと語り始めた。


 「実は……会社でプロジェクトのリーダーを任されているんです。でも、自分にはそんな責任を負える自信がなくて。手術の後も休むわけにはいかなくて、無理をしてしまったんだと思います。」



 

 健太の告白から、マナミは彼の傷が物理的な治癒を拒む背景に、心理的な要因があると確信した。


 「健太さん、そのプロジェクトは大切なものですか?」


 「はい。でも、自分には向いていないと思うんです。失敗したらどうしようって、そればかり考えてしまって……。」


 「その不安が、もしかしたら身体の反応として表れているのかもしれませんね。」


 マナミは彼に提案した。


 「今、この傷が健太さんに伝えようとしているメッセージは、『もう一歩踏み出して』ということだと思います。でも、それは無理に前進することではなく、自分に合った方法を見つけて進むということなんです。」




 マナミは健太に、以下のようなステップを提案した。


 仕事の棚卸し

 健太に、現在の仕事を細かくリストアップし、どれが本当に重要で、自分が得意とする分野かを整理してもらう。これにより、不安の原因を具体化することができる。


 セルフケアの導入

 リラックスできる時間を意識的に作ることを勧めた。深呼吸やストレッチ、好きな音楽を聴くなど、日常の中で心を落ち着ける習慣を取り入れることが重要だと伝えた。


 傷との対話

 毎日、傷に向き合い、自分の気持ちを言葉にして伝えることで、心と体の繋がりを意識するよう勧めた。




 2週間後、健太が再び診察室を訪れた。彼の表情は少し柔らかくなっており、傷の状態も改善していた。


 「先生、少しずつですが、傷が良くなってきた気がします。それと、仕事も少しずつ整理してみたんです。」


 「素晴らしいですね。その調子で、無理のない範囲で進めていきましょう。」


 健太は微笑みながら言った。


 「プロジェクトのことも、自分なりにできる範囲でやってみようと思います。傷が治ってきたことで、自信が少し戻ってきました。」



 健太の傷は、彼の心理的な壁を映し出す鏡のような存在だった。マナミの助言を通じて、自分のペースで一歩を踏み出す勇気を持てたことで、彼の心と体のバランスが少しずつ整っていった。


 マナミは、健太を見送りながら思った。


 「病気はいつも、私たちに大切なことを教えてくれる存在なんだ。」


 そしてまたひとつ、病気との対話を通じて、患者が前を向く姿を見ることができたのだった。

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