第8話 運動を愛する女性の膝の痛み
マナミの診療所にやってきたのは、50代半ばの女性、佐和子(さわこ)だった。彼女は明るい笑顔を見せながらも、右膝を少し引きずっていた。
「先生、こんにちは。私、趣味でマラソンをしてるんですが、最近膝が痛くて……。年のせいかしらね?」
そう言いながらも、佐和子はどこか強がった様子だった。膝の痛みがあっても走り続けたいという彼女の気持ちが言葉の端々に滲み出ていた。
診察の結果、佐和子の膝の痛みは変形性膝関節症によるものだと分かった。軟骨の摩耗が進み、膝関節に炎症が起きていた。マナミはレントゲン画像を見せながら説明した。
「佐和子さん、膝の軟骨が少し薄くなっていますね。このまま無理を続けると、症状が悪化してしまう可能性があります。」
佐和子は一瞬眉をひそめたが、すぐに笑顔に戻った。
「でも、走らないと私、なんだか落ち着かなくて……。これまでずっと走ってきたから、やめるなんて考えられないんです。」
その言葉に、マナミは佐和子の心に何か大きな重荷があることを感じ取った。
診察後、マナミは佐和子にリラックスしてもらい、膝に手を当てて病気の声を聴くことにした。目を閉じると、膝から低く響く声が聞こえてきた。
「もっと早く、もっと遠くに……。そんなふうに追い立てられるのは、もう嫌なんだ。休むことを許してほしい。」
その声は、佐和子が自分自身に課している大きな期待と焦りを映し出していた。マナミは静かに目を開け、佐和子に語りかけた。
「佐和子さん、膝の声がこう言っています。『ペースを整えよう』と。」
マナミの言葉に、佐和子は驚いた表情を浮かべた。
「膝がそんなことを……?」
「はい。佐和子さんが頑張りすぎてしまうことを心配しているんです。もしかすると、走ることに何か特別な理由があるのでは?」
佐和子はしばらく黙った後、小さな声で話し始めた。
「私、ずっと家族のために頑張ってきたんです。子どもたちが独立してから、やっと自分の時間ができて。それで始めたマラソンが、私の新しい目標になったんです。でも、なんだか……走らないと自分の価値がなくなるような気がして。」
佐和子の言葉には、彼女が自分自身を見失いかけている心情が滲んでいた。
マナミは佐和子に微笑みかけ、こう提案した。
「佐和子さん、マラソンは素晴らしい趣味ですが、無理をして膝を傷つけてしまっては本末転倒です。ペースを整えながら、自分の体と心の声に耳を傾けることも大切です。」
具体的なアプローチとして以下を提案した。
走る距離と頻度の調整:毎日のランニングを週に3〜4回に減らし、膝に優しいコースを選ぶ。
ウォーキングの導入:膝への負担を軽減するため、ウォーキングを取り入れる。
心のリフレッシュ:音楽療法や瞑想を通じて、心のストレスを軽減する。
さらに、佐和子が感じている「価値」の問題についても対話を続けることを提案した。
提案を受け入れた佐和子は、まずランニングの距離を短くし、ウォーキングの日を設けることにした。また、マナミから紹介された瞑想のクラスにも通い始めた。
数週間後、診療所を訪れた佐和子は、以前よりも穏やかな表情をしていた。
「先生、最近は膝の痛みが少し和らいできた気がします。無理をしないって、こんなに気持ちが楽になるんですね。」
「それはよかったです。膝もきっと喜んでいますよ。」
佐和子は膝の痛みを通じて、自分自身を追い詰めるのではなく、体と心のペースを整えることの大切さを学んだ。そして、無理をせずに自分のペースで人生を楽しむ方法を見つけたのだった。
マナミは、病気の語りが人々に与える気づきの力に改めて感謝の念を抱きながら、次の患者を迎える準備をしていた。
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